陽だまりと朝

昼川 伊澄

陽だまりと朝

 玄関に座って、靴から足を引き抜く。ゴミ出しに行くほんの数分、靴下を履かずにいただけでも、布と汗の混ざった分厚いにおいが足首から下にまとわりついていた。靴を揃えて床に足を置く。足裏にフローリングが吸い付いて、進む度、皮膚を引き剥がす音がひとつずつ浮く。部屋の奥から、俺よりも重さのある、ぼやけた足音が来る。

「アラームより先に目ぇ覚めたわ……もうジジイなんかな」

 最近初めて、こいつもうちで一緒に洗濯をした。俺と母さん二人だったアパートには、ゆっくりと、こいつの生活の足跡が増やされている。

「おはよ〜なおくん、まいさんは?」

「……夜勤」

「そうだっけ、じゃあ今日はちょっと会えるな〜」

 いつもの間の抜けた軽い口調が、身体を通り抜けて行く。語尾を伸ばしながらそのまま、うちの背の低い冷蔵庫が自然そうに開かれた。中から、温度差に曇ったボウルが出てくる。台所の白いタイルに銀が歪んで反射している。

 舌打ちみたいな音と一緒に、コンロに火がついた。棚から引っ張り出したフライパンが温まって、スムーズに油が広がるようになったら、ボウルから菜箸で四角を移動させる。フレンチトーストだった。

「オレ、砂糖少なめに焼いて、胡椒かけて食うの好きなんだよね」

 食パンを二等分したうちの一枚を皿に分けて、目の前に出される。でも、ボウルに残った卵液の生臭さに、味蕾が繋がった。いや何を作っても、与えられても、こいつから受け取りたくない。男は皿にラップをかけて冷蔵庫に入れると、もう一枚は換気扇の下で立ったまま、口に詰め込んだ。

 無言を作りたくないのか、咀嚼しながら手早く調理器具たちをスポンジで擦り始めた。しかし、殆ど泡立っていないからか、油の線がぼんやりと残っている。大人が焦っている。

「……それ、」

「ん?」

 俺が言葉を発した瞬間に、男は、効果音がつきそうなほど間髪入れずに振り向いた。起きてすぐなのに、目がしっかりと開いている。ほのかに、期待みたいな揺れが見える。

「やんなら、ちゃんと、洗ってよ」

 殆ど、崖から落とすみたいだった。揺れが小さくなる。男はぎこちなくシンクに向き直ると、洗剤をスポンジにとっぷりと垂らして、片手でもしゃもしゃと開いたり潰したりした。

 筋が動いて、男の前腕がスポンジと一緒に収縮する。ほぼ反射で、俺は固く目を閉じた。

 でも、こいつはちゃんと食器を洗い直してから 振り向いて、目を細めて笑うのだった。

「どうした?まだ眠い?まだ六時とかだしね」

「……なんで、」

 その先が出てこなくて、止まる。こめかみの鈍痛と、眼窩の奥の乾燥が混ざって、渦みたいになる。

「今朝も舞さんの迎え、行くでしょ?その間に掃除しとくから、なんか、ふたりで食べてきなよ。」

 言い聞かせるような口調がうざったくて、まだ少し早かったけど、玄関を飛び出した。



 ♢


「わ〜今日も凄いねお母さんのお迎え」

 二十四時間営業スーパーの従業員出入口で、きっと上の役職なんだろう女がエプロンを外しながらにこやかに話しかけてくる。

「あ、いや、通り道だから……」

 通り道。ぎりぎり朝練とでも言えば納得できるかも知れないくらいの時間帯なのに、制服も着てない俺の何を持って通り道なのか、言っていて矛盾を感じる。言い直し方が思いつかず、ただじっとり黙る俺を、女は頭から足先まで瞬時にスキャンして、ハハ、と笑った。この人の笑い方には、視界をそのまま鷲掴みにして、がちゃがちゃ揺さぶられているような、奥行きが内在しているように、思う。

「息子くんって何年生なの?」

「中三、で」

 喉が詰まる。さっきの、凄い、に含まれたほのかな蔑みに今になって気づく。

「えーそうなんだ!?なんか大人っぽいから高校生かと思っちゃった」

 言葉の流れが勢い付いて、目の前に隙間なく羅列されていく。卵の黄身に箸を入れて攪拌するみたいに、次第に粒が飲み込まれていくのだけが分かった。

 自分の呼吸音が、徐々に大きくなる。もう気を抜いたら倒れそうだった。


「尚!」

 肩や喉が、ぶわっと一気に緩む。母さんだ。

 母さんは、カーディガンの裾を揺らしながら、小走りで出てきた。そして会釈を細かく沢山しながら、スーパーから離れた。一刻も早く、離そうとしているのが分かった。

「おつかれさまでした。」女の、人生を精察するような視線が刺さらないように、母さんは角を曲がるまで、俺の後ろを歩いた。



「今日ね、特別!」

 横並びにちょっと歩いてからすぐ、わざわざ後ろ手に隠して、じゃん、と差し出された。二袋の、それぞれ種類が違うアイスだった。

 どっち?うん、じゃあ、こっちね。汗をかき始めている袋を開く。冷気が詰まった中から持ち手を取った。母さんは、直方体の真ん中にある開け口をぺちぺち一周させて、箱の上半分を持ち手側に重ねた。俺がなんかの果物のやつで、母さんが板チョコで挟んであるアイス。

「昨日の夜、ちゃんと寝れた?」

 齧り付きながら母さんが尋ねる。厚いチョコをぱちんと折るときに、親指と人差し指の間に小さい破片が飛んだ。

 皮膚に走っている、指紋みたいな、キメみたいな無数に、チョコがゆっくりと足を伸ばしていく。

「今朝、ちゃんと食べた?」

 そのまま、奥に染み込んで、茶色い痣が出来る。やっぱり、記憶の中の母さんは、蹲っている。

 もう空には陽が昇り始めていた。俺の右手で輪郭をぼやけさせていたアイスの水分が、コンクリートの地面にひとつ滴下する。

「ねぇ、なお」

 野良猫に話しかけるみたいな淡い声。でも、何年もかけて証拠を掻き集めて、ただしく父さんを罰し、逃げようと決めた人間の、声。


「私、尚がいちばん大切だよ」


 さっきのスーパーの女と違って、常に、母さんは俺が落ち着いて、分かるようにゆっくり喋る。ぎりぎり診断名がつかないラインで、まだ立ち止まっている俺を、この人は分かっている。きっとそれは家に居るあの男も。

 周りからよく誤解されるけど、あの男は、別にフリーターでもニートでも無い。ちゃんと一人暮らしをしているアパートもある。でもわざわざ仕事終わりに、俺と母さんの家に寄ったり、一週間の数日を寝泊まりしたりする時間を作っていた。


「なんで」

 アイスの半分が、塊で地面に落ちる。突然手を離すみたいに。


 ひたすら手を引かれて、明日生きている保証が無かった場所からここまで来た。だからこそ、怖くて堪らない。焦燥を持て余して、母さんがもういちど幸せになるために選んだあの人にキツく当たる度に思う。俺には、あの暴力的な父親の血が流れている。


 やわらかな風が吹いた。視界に、母さんのカーディガンが入ってくる。

「考えたことも無かったな」

 顔を上げると、あの人と同じ、真っ直ぐな笑顔があった。母さんとあの人の笑顔は、あたたかい。不安になるくらい、ただひたすらに。


「だって、尚は尚だから」


 母さんは、拳を作って、親指と人差し指の間に飛んだチョコをさっと舐め取った。もう、痣は無い。

「だからちゃんと寝て、食べて、生きて」




 ♢


 箒をしゃらしゃらと動かす音がする。


「あ!アイス食べてきたの?オレさ、烏龍茶にソフトクリーム突っ込むの好きなんだよね〜」

「え、何それちょっと珍しくない?ねぇ尚」


 床を掃きながら良さを熱弁し始めている隙間を狙って、呟いてみる。


「……るいさん、いっつもそうだから」


 時が止まる。握られていた箒が床に落ちて、パチンと音を立てた。

「わ、びっくりした」音に集まった視線の先。目の前で、人の細胞が、心が打ち震えているのを見た。

「待って!!」

 塁さんは、箒を拾うことなく、顔を隠すように窓の方を向いてカーテンを掴んだ。いつもの緩くて軽い口調の続きが詰まって出てこない。薄い布の隙間から、やわらかい光が差し込んでいる。

 肩のあたりにある大きな骨が、堪えきれずに震えた。「もう、若いのに涙脆いんだから」母さんは、茶化しながらも目を逸らしてあげる。そういう母さんも、ちょっと涙ぐんでいる気がした。

 カーテンはまだ開ききらない。これからどうなるかも、分からない。でも今、埃が反射して煌めいている。冷たくて暗い部屋が、少しだけ光を浴びていた。


「今、人生でいちばん幸せかも、オレ」

 あのフレンチトーストが、そういえばまだ冷蔵庫に入ってる。あれを食べたら、少し眠ろう。

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陽だまりと朝 昼川 伊澄 @Spring___03

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