呪い

慄月 桜綺

『呪い』

 窓辺から見える、あの丘の上にて堂々と咲き誇る桜の大樹が薄桃色を募らせるとき、どうしても私は思い出してしまうのです。

 あの春頃。暖かな匂いに包まれた世界のすみっこで、とても深いところへと埋もれてしまった貴方のことを。

 白々しろじろと刺す陽をキラキラと反射させる綺麗な肌を遺して、血にまみれることすらなく、ただただ眠りこけるように瞳を仕舞い込んだ貴方は、とっても安らかな顔をしていましたね。安らか――なんてものとは、きっとほど遠かったでしょうに。


 あれはたしか、貴方の大変美しい顔を、呆然とただひたすらに眺め続けて、いつの間にか日の落ちた頃でした。

 寝台の上の貴方を引きずり落とすと、無理やり背に乗せ、非力ながらに大樹のもとまで運んだことを覚えています。

 貴方の少しばかりれた襟元に堂々とくっ付いた薄桃色の口紅が、目の前に広がる桜の色と酷く重なって見えて、思わずビリビリと引き裂いてしまいたくなってしまう。そんな衝動性で強い感情を無理に内の方に押し殺して、幾分の冷静さを取り返すと、大樹の根元の色の変わった部分に手をひっかけました。

 軽く力を入れると、ゆっくりゆっくりと、扉のように木の根元が開きました。

 私は知っていました。桜の大樹の中には、人ひとり分程度の空洞があることを。そして、その事実を知っている者はたった一人、私だけであるということを。

 私は力の無い貴方の身体を一生懸命に大樹の中に立てかけると、慎重かつ丁寧に閉じました。


 これにて、貴方の姿も匂いも、なにもかも全てなくなりました。

 これで、あとは忘れるだけ。

 そう、思っていました。


 ひとひらの花弁が私の元へと舞い込んできたのは、あの日から丸一年が経とうとしていた頃でした。

 すっかり春先の匂いが嫌いになってしまった私は、何か衝動に近からずも遠からずなにうかされて、ホコリにまみれた貴方の部屋で立ち尽くしていました。

 窓からひらひらと風に乗って、桜の花弁が舞い込んでいたのです。

 此処から大樹までは急いでも片道十分はかかるのに、いったいどういうことか。などと考え、窓際まで近付くと、私はこの光景の最も異常な点に気が付いてしまいました。

 花弁の色が違ったのです。

 私は勢いよく窓から身を乗り出して、周りを見回しました。何処かに誰かが桜の樹でも植えたのかと、そう考えたからです。

 いえ、違いました。

 私の眼には、変わらぬ場所で変わり果てたの姿で咲き誇る大樹があったのです。

 どういうわけか大樹はあの襟元に引っ付く薄桃色ではなく、『鮮紅色せんこうしょく』に染まりきっていたのです。

 私は、とても、とても怖くなってしまいました。

 思い出してしまったからです。あの日の出来事を境に、仕舞い込んだ全てのことを。死ぬ間際の貴方の顔を。言葉を。苦しみに悶える隙間で、明確に私へと向けられた最期の言葉を。


 呪い、呪い、呪い、呪い、呪い、呪い、呪い、呪い、呪い、呪い。


 痛々しいくらい耳の奥の奥のさらに奥にこびりつくその言葉を振り払うように、私はその場から離れました。

 そのままうちを飛び出して向かった先は大樹のもとでした。私はとても怖気づいていました。

 だからこそ、この目でしっかりと確かめておきたかったのでしょうね。

 心の何処かで思い浮かんで離してくれない貴方型の影を否認したい私の本能が、身勝手に身体を動かしたのでしょう。

 桜の大樹を遠目に見る町の人たちの様子に変わりはありませんでした。


 より近くで見る大樹の姿は異様に禍々しく、思わずすくんでしまいそうになる足をひたすらに動かして、やっとの思いで大樹の根元まで辿り着きました。

 大樹の根元の色の変わった部分――貴方の全部を仕舞い込んだ場所は、開いていました。

 空洞の中の壁にもたれかかる変わらずに綺麗で、死人特有の臭いもしていませんでした。それどころか、桜の匂いとはまた違った、鼻腔の奥を刺激する甘ったるい香りさえしていました。

 その匂いに強烈な不快感を覚え、無意識のうちに鼻をおさえていました。

 改めて見る貴方は、とても死後一年のモノだとは思えませんでした。

 まじまじと貴方を見つめていると、貴方と目が合った気がしました。それは、気のせいではありませんでした。

 貴方は目を見開き、私のことをしっかりと見ていました。かと思えば、今度は意地の悪い笑みを浮かべ始めました。まるで、驚きおののく私のことをあざ笑うかのように。

 細くなった瞼から覗く貴方の黒目を最後に、私は悪夢から醒めたのでした。

 荒くなった息をどうにかしようと身体を起こすと、ボタボタボタ、と液体の落ちる音がして私の真っ白な布団の一部が真っ赤に染まっていきました。

 液体の正体は、私の鼻血でした。

 じわじわと広がっていく私の鮮血は、やがてあの丘の上の桜の大樹の形を成し、色合いも相まって悪夢を思い出してしまいました。

 ああ、ごめんなさい、ごめんなさい。何度も何度も何度も何度も謝罪の弁を述べているうちに、いつの間にか夕暮れどきになっていました。


 茜色に染まる桜の大樹は、風に花弁を散らしながら、今も堂々と咲いていたのでした。

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