第11話
彼が酒場に足を踏み入れた途端、店内の空気が変わった。彼を見た誰もが揃って顔を強張らせている。
ふん、と鼻を鳴らして犬の獣人――イザークは空いている席に腰かけた。体重のかかった椅子がぎぃ、と軋む。
ガチガチに緊張しながら注文を取りにきた店員に酒を頼み、改めて店内を見回す。客たちは皆、彼と極力目を合わせないよう露骨なまでに目を逸らしている。
様々な種族が集う王都ならまだしも、この小さな港街で獣人は珍しく見慣れていないのだろう。それに彼の左眼にある傷痕は、よく目立つ。
その外見と腕が立つことで、用心棒や護衛の仕事をしながらこれまで生きてきた。リシューを訪れたのも、護衛を引き受けた商人の目的地がこの街だったからだ。
とはいえイザークはそろそろ、この街を出ようかと考えている。港街だけあって海産物が多く口に合わず、潮の香りが鼻につく。他の街や村に移動する商人や旅人がいれば、護衛としてついていく腹積もりでいる。
「おい獣人、ちょっといいか? 話があんだよ 」
運ばれてきた酒を飲んでいると、いきなり声をかけられる。三白眼に隙っ歯の男だ。
「何の用だ?」
一人で飲みたい気分だったのを邪魔され、男の馴れ馴れしさにも不機嫌になりつつ、イザークは応じる。
「昨夜、この街の飲食店で放火があったの知ってるかよ?」
「ああ。それがどうした?」
小さな街の住民がざわついていれば、興味あろうとなかろうと嫌でも耳に入る。とはいえ近いうちに街を離れる気でいるイザークには関係のないことだ。
「誰からとは言えねぇが、その犯人の始末を頼まれててよ。報酬もたんまり貰えるし、おまえやってみる気はねぇか?」
「報酬はオレとおまえで分けるのか?」
「当然じゃねぇか。おれが受けた依頼なんだからよ」
イザークは、冷めた視線を目の前の男に向けた。どうせ外見で判断して、殺しだろうと二つ返事で引き受けると考えたのだろうが――。
「つまり……おまえは自分では何もせず、楽して稼ごうという魂胆か」
イザークの言葉に、男のこめかみに青筋が浮いた。
「言葉に気をつけろよ獣人。このおれがせっかく――」
「失せろ。酒が不味くなる」
にべもなく言い放つと、
「見かけ倒しかっ!! 使えねぇ犬ころがよぉ!!」
捨て台詞を吐いて、男は足音も荒々しく店を出て行った。
自ら手を汚す覚悟もない臆病者に、罵られたところで痛くも痒くもない。だが男のせいでより周りから目立ってしまい、居心地が悪くなる。
イザークが断ったとはいえ、汚れ仕事でも受ける人間は他にもいるだろう。金のためなら何でもする荒くれ者はどの国でも、どの街でも後を絶たない。
放火犯については、この街の衛兵も調べているはずだ。どの程度の目星がついているかは分からないが。
(衛兵が捕らえるのが先か、依頼が果たされるのが先か……)
結果がどちらに転ぼうと、いずれにしろイザークの知ったことではなかった。
あれから連日のように市場の店主、常連客から慰めや励ましの言葉を貰った。営業再開を望む声には、モニカも元気づけられていた。
とはいえ改築にかかる費用を考えると、頭が痛くなる。貯金があるにはあるが、ソフィーを学園に通わせる学費の分も含まれている。親として、娘の将来は大事にしたい。
放火犯が見つかるまで、街の衛兵たちも見回りを強化してくれていた。家の前を通りがかるときに顔を合わせれば、いつも声をかけてくれる。
「犯人は我々が必ず捕まえてみせますっ! お任せくださいっ! 住民の皆さんが安心して暮らせるよう尽力することが、我々の責務なのでっ!」
短髪の若く実直そうな衛兵は、そう言って己の胸を叩いてみせた。鍛え上げられた肉体からは頼もしさを感じる。気になるところといえば、いちいち声が大きすぎるところぐらいか。
街を守る衛兵もまた、万年人手不足に悩まされている。特に放火事件があってからは、捜査と見回りで休む暇もない。合間に数十分の仮眠を取れる程度だ。この世界に労働基準法などというものは存在しない。
「…………?」
――と、家の扉が叩かれる音。住民の誰かか、それとも衛兵か。もしや犯人が見つかったのだろうか?
考えながら扉を開け、すぐに応対したことを後悔する。そこにいたのは、この世でもっとも会いたくない人物だった。
「やあ久しぶり。元気......そうには見えないね。この度は災難だったね」
扉の先にいたのは、余所に女を作り、忽然と姿を消した元夫だった。
「......なんで、あんたがここにいるの?」
「この街に来たのは偶然だよ。騒ぎになってると思ったら、まさか君の店が、こんな大変なことになってるなんてね」
嫌悪感を隠さないモニカの態度もどこ吹く風で、サムウェルは白々しい台詞を吐く。
「だから何? あんたには関係ないでしょ。図太い神経してる、本当に」
「君には悪いことをしたと思ってるよ? 本心からね。会いに来たのは、君に渡したいものがあったからなんだ。お詫びも兼ねてね」
「......?」
怪訝な顔をするモニカに、サムウェルは懐から、パンパンにはち切れそうな袋を取り出し、彼女に差し出す。
「良ければこれ、店の改築費用の足しにしてもらえたらと思ってね」
「要らない。あんたのお金なんて」
モニカは金の詰まった袋を押し返した。
「そんな意地を張らなくてもいいんだよ? 貰えるものは貰っておけばいいのに」
「余計なお世話。帰ってくれない? あんたの顔なんて見たくない」
「まだ話は終わってないんだよね。あと一つ、あと一つだけから……ね?」
早く済ませたいモニカは、深く深く溜息を吐き出し、
「何なの? さっさと言って」
「うん。君の……いや僕たちの娘か。僕のところで今後は預かった方がいいと思ってね」
「…………は?」
とんでもないサムウェルの提案に、ついモニカは呆けたような声を漏らしてしまう。
「だって危ないよね? 今回は幸い誰も怪我しなくて済んだけど、次はどうなるか分からないよね?」
「だからって、なんであんたに……」
「ソフィーは僕の娘でもあるんだから、我が子の身の安全を望むのは当たり前だよね?」
「ふざけないで! あんたなんかにソフィーは……」
そこでふと、疑問が頭をもたげる。
「待って。何であの子の名前を知ってるの?」
すると途端に、サムウェルの笑みが深まり、
「あっ! おじちゃん! サムおじちゃん、こんにちはっ!」
後ろから明るい声が聞こえた。モニカが振り返ると、クロエを抱いたソフィーが笑顔で駆け寄ってくる。
「こんにちはソフィー。元気そうで良かった。あんなことがあって、僕も心配してたんだよね」
先程とは違う、慈しむような微笑をソフィーへと向ける。
「あと出来れば『おじちゃん』じゃなくて『お兄ちゃん』の方が嬉しいかな?」
「あっ、そうだった! お兄ちゃんだったねっ!」
打ち解けた様子の二人に、モニカは目を瞠って交互に二人を見る。
「何……どういうこと……?」
「見ての通り、僕たちは仲良しでね。そうだよねソフィー?」
「ねー!サムお兄ちゃん!」
サムウェルとソフィーが笑い合う。頭痛を堪えるように、モニカは額に手を当てる。
「ソフィーを取り込んで、味方につけて優位に立とうってわけ?」
「君が僕を良く思ってないのは知ってるし、僕も反省してるよ? でもそれは僕たち二人の問題だよね? どうするのがこの子のためになるか、それを優先して考えるべきじゃないかな?」
正論のように聞こえる。心にもない、という点を除けば。
「ママ、恐い顔してるよ? どうしたの?」
事情を知らないまでも、ただならぬ雰囲気を察したソフィーが、母を見て眉を下げた。
「何でもない。もう帰ってもらうから」
「そんな言い方、失礼だよ……ママ」
険のある母の言動を、ソフィーは非難する。
「いいんだよ、僕がいけないから」
サムウェルはそう言って彼女を宥めると、顔を再びモニカに向け、
「僕の提案、考えておいてね。まだ暫くこの街にいるから」
答えず無言で睨むモニカに肩を竦め、「じゃあ、またね」とソフィーに手を振る。
「うん! またねー!」
ソフィーもそんな彼に、手を振り返す。
《また》なんて、二度とこなければいいのに――モニカは心の底から、そう思った。
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