第8話

 最近のモニカは浮かない顔をして、一生分の幸せが逃げていく頻度で溜息を漏らしている。心身ともに疲弊している様子だ。

 どうやら店の方が上手くいっていないらしく、客足が遠のいているようだ。今まで以上にソフィーと過ごす時間がとれていない。だから尚更、ソフィーはサムウェルに懐くのだろう。寂しさを埋めるように。


 サムウェルを探ると決意したその晩は、結局実行することが出来なかった。ソフィーが夜明けまでクロエをきつく抱きしめて離さなかったからだ。無理に解こうとして気付かれたら、元も子もない。


 そもそも勝手に歩き回る気味の悪い人形は怯えられて当然だし、捨てられる可能性は充分に高い。いくら空腹や疲労と無縁だからといって、こんな世界で独りきりにされるのは勘弁だ。

 なのでキャンベル家の誰にも、自分の意思で動けることを気付かれてはならない。これだけ長く一緒にいて怖れられたり忌み嫌われたりしたら、さすがにクロエも傷つく。


 焦らず辛抱強く、ただ機会が訪れるのを待ち――数日経った夜、ソフィーの拘束が緩んだ隙を見てようやく、ベッドから抜け出すことが出来た。自分の体を動かすのは、キャンベル家に来てから初になる。

 極力物音を立てないよう、行動するのはことのほか苦労する。しんと静まり返った家の中では、どんな些細な音でも注意を引きかねない。

 人気がなく街外れにあるシャーウッド家とは勝手が違う。

 

 何しろ服も、手足が露出した今着ているものから着替えなければならない。ソフィーを起こさないよう同じ部屋で着替えを済ませるのは、なかなか難易度が高い。

 服を勝手に拝借することに抵抗がないと言えば嘘になる。だが後になって悔やむよりはマシだ。


 (ソフィーの身長からして、サイズは少し大きくなりそうだけど)


 肉体年齢こそ二歳上ではあるものの、ソフィーの方が上背がある。何とも複雑な気分だ。

 だが服は多少ぶかぶかな方が、手足が隠せて好都合だ。更に手袋を嵌めて帽子を目深に被れば、準備完了だ。


 部屋の窓を開け、外に出る。ソフィーはベッドで横になったままで気付いた様子はない。あくまで今のところは、なので早めに戻らなければ。

 クロエは急ぎ足で宿に向かう。人目を避けるため、すぐ狭い路地に入った。生ゴミや吐瀉物の匂いで思わず顔を顰める。


 路地から飛び出したとき、何者かとどんっ、とぶつかってしまう。


 「あっ、すみませ――」


 相手を見上げた途端、硬直する。そこにいたのは大柄な体を薄茶色の毛皮で覆った、犬の獣人だった。

 閉じられた左目の上を、古い傷痕が横切っている。


 「おまえ、何なんだガキ」


 犬の獣人は険しい表情でクロエを見下ろす。ぶつかったクロエに非はあるものの、小さい子供に対する態度にしてはあまりに大人気ないように見える。


 (子供が、嫌いなのかな……)


 とにかく威圧的で、迫力がある。野生の熊と遭遇した登山者の気持ちが、今更ながら理解できた。


 「本当にすみません! 気を付けます!」


 ひたすら平身低頭して、逃げるように去る。少しして振り返り、追ってきていないのを確認して――クロエはようやく緊張を解くことが出来た。







 犬の獣人は少女の姿が見えなくなると、口から吐息を漏らした。少女がいなくなった方角から目をそらし、また歩き出す。

 

 もしこの場に第三者がいたら、彼が少女の不注意に腹を立てて凄んでいるように見えたことだろう。だが実際に彼はそのことに怒りを覚えていたわけではないし、子供自体が嫌いなわけでもない。

彼が少女に抱いた感情――それは《警戒》だった。


 犬の獣人である彼の特性は、常人より嗅覚が遥かに優れていることだ。普通の人間には分からない、どんな匂いでも嗅ぎとれる。


 だというのに――さきほどの少女からは、人間の匂いが、、、、、、一切しなかった、、、、、、、


 人間の匂いというのは、つまりは体臭である。汗臭や加齢臭、疲労臭など――生きていれば避けられない匂いだ。例外なく誰もが少なからず匂いを発しながら生きている。ほんの微かな匂いも、彼の鼻は誤魔化せない。


 (人間じゃないなら、何なんだ……あのガキ)


 人間ではない《ナニカ》があたかも人間のように振る舞うのは、不気味以外の何ものでもない。彼の鼻でも正体を明かせないほどの存在だ――深入りすべきではない、と本能が告げる。


 左眼の傷痕に、指先で触れる。それが無意識の行動であったため彼が自覚することはなかった。

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