第3話

 クロエは、人混みが好きではなかった。

 

 思うように身動きが出来ず、自分の現在地を見失いかける感覚に、不安を覚える。

 限られた視界で、今どこを向いて、どこに向かっているのか分からない――幼い頃、両親と共に訪れた初詣。縋れるのは頼りがいのある父の手のみ。

 ひとたびその手が離れれば、すぐさま人の波に飲み込まれ、二度と家族に会えなくなるかも知れないという恐怖。そんな経験が、彼に今でも苦手意識を植え付けていた。


 だからマギーとソフィーの間で「市場まで出かけよう」という話があがったとき、クロエは思わず渋い顔になりかけた。病原体のせいで一時は閑散としていた市場ではあったが、今ではかつての活気をすっかり取り戻している。


 つまり、大通りの混みようは容易に想像できるというものだ。


 (留守番したいところだけど、俺に拒否権は……ないですかそうですか)


 拒否権どころか発言権もないのが、悲しいかな今のクロエの立場だった。

 ソフィーはクロエといつも一緒にいる。それはお出かけの際も変わらない。強制連行である。


 というわけで勉強の息抜きも兼ねてマギー、ソフィー、クロエは外出することになった。

 家を後にし、店の前を横切るとき――ソフィーがちらと営業中の店内へ目をやったのに、クロエは気付いた。


 そのときの彼女の表情は、クロエの目にどこか寂しげに映った。







 「わぁ! あれ可愛い! おばーちゃん見て!」


 「ほらほら、あまりはしゃぐとぶつかるわよ?」


 「ねぇ! あっちから良い匂いする!」


 「全然聞こえてない……まったく」


 瞳をキラキラさせて目移りする孫娘に、マギーはやんわりとした口調で注意するが、興奮のあまり耳に入っていないようだ。

 案の定露店が並ぶ大通りは混み合っており、はぐれないように二人の手はしっかりと握られている。それでも幼子の余りある体力で振り回されて、高齢のマギーには付いていくのがやっとだ。


 モニカには店があり、エリオットは腰を痛めている以上、この役目はマギーしかいないとはいうものの――さすがにクロエも同情を禁じ得ない。


 「あ! 何あれ!? 何だろ!?」


 また何かに目を奪われ、ソフィーはそちらに向かおうとする。


 「待ってソフィー! ちょっと!」


 繋いでいた手が引っ張られ、マギーは止めようとするが突然のことに、二人の手が離れてしまう。


 「あっ……!」


 思わず声を出してしまったクロエだが、その声は大通りの喧騒に掻き消されて、誰の耳にも届くことはなかった。


 「おばーちゃん?」


 気が付いたソフィーが振り返ると、マギーは人の波に隠れつつあった。慌てて引き返そうとした途端、通りがかった大人にぶつかってしまう。


 「わっごめんなさい」


 頭を下げて、きょろきょろと祖母の姿を探す。完全に見失ってしまったようだ。

 人混みから逃れるように、ソフィーは移動する。通行人を避けようとするもうまくいかず、先程のようにぶつかることもあった。


 「どこ……? おばーちゃん……」


 あまりの不安に、クロエを抱く手に力が入る。


 「どうしようクロエ……どうしよう……」


 ソフィーは、今にも泣きだしそうだ。


 「――どうしたの君? 大丈夫かな?」


 急に背後から声をかけられ、ソフィーの体がびくっと跳ねる。


 「あ、ごめん。驚かせるつもりはなかったんだ」


 すまなそうな声がする。男の声だ。ソフィーが振り返り、クロエの視界にも男の姿が入り込む。


 「一人? もしかして、はぐれちゃった?」


 淡い金髪、、、、に澄んだ、、、、青い瞳、、、の男は、安心させるように柔らかな笑みを浮かべた。

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