第8話
今日に至るまで、モーリスは生き延びるために罪を重ね続けた。スラムで生まれ育った彼は、飢えを凌ぐのに手段を選んでいられない環境にあった。
モーリスにとって、真っ当な仕事に就くという選択肢は、初めから存在しなかった。
地道にコツコツ稼ぐより、金を持っていそうな通行人や家から盗んだ方が手っ取り早い。短時間で利益を得られるのだから、これほど効率の良いことはない。
自衛能力のない人間、警戒心の足りない人間からいくら奪い取ったところで、彼の心は痛まない。世間を舐めた者たちに、自分は現実を教えてやっているのだから。むしろ感謝するべきだろう――モーリスは、本気でそう思っていた。
そんな彼にも最近、ネッドという相棒が出来た。痩せっぽちで猫背の男だ。ちょうど人手も欲しかったため、つるむことにした次第だ。
相棒といっても欠片ほども信用していないし、用がなくなれば切り捨てることも吝かではない。ネッドもモーリスと行動した方が自身にとって有益と考えているに過ぎないだろう。
所詮、人間関係など打算で成り立っているだけだ。状況次第で容易く手のひらを返すのが人間だ。それを勝手に裏切られたと喚き散らすのは、負け犬の遠吠えというものだ。
モーリスとネッドが新たに目をつけたのは、街外れにある一軒家だ。他の家から離れているのは、彼らのような盗人にとって実に都合が良い。
ネッドの情報によると、人形師の男が一人で住んでいるらしい。隣接しているのがおそらく工房として使っている建物だろう。
日が落ちるのを待ってから、二人は行動を起こした。扉を試しても当然ながら鍵がかかっている。彼らに鍵開けのような繊細な技術はない。なら、侵入先は窓に限られる。
留守にしていなければ窓を割る音で気付かれるだろうが、脅して拘束すればいいだけの話だ。その手の荒事は慣れている。叫ばれたところで誰の耳にも届かないだろう。
先にモーリス、続いてネッドが破った窓から侵入する。いったん別れて家探しを始めた。
手当たり次第に家の中を漁っていくが、目ぼしい物は見つからない。そこそこ名の知れた人形師の家系と聞いていたが、期待外れもいいところだ。
落胆しつつ別の扉を開け、薄暗い中を歩き出すと――ぐにっ、と靴底に何かを踏みつける感触があった。足をどけて見下ろすと、ワンピースを着た人形が俯せに転がっている。
「ああ? 何でこんなとこに人形が?」
人形の右足を鷲掴みにして持ち上げる。見たところ八歳くらいの幼女か――素人目にも精巧な出来栄えなのは分かるが、あいにくモーリスに人形を愛でる趣味はない。
「ちっ、邪魔くせぇ」
放り投げると人形は壁にぶつかり、そのまま床に落ちた。
片っ端から目につく棚の中身をひっくり返していくが、やはりここも外れだ。
他の部屋を当たってみようと振り返り、違和感を覚える。
周りを見回し――すぐ、その正体に気付く。
「……あぁ??」
人形が、消えている。どこにも見当たらない。
(んなわけあるかよ)
笑い飛ばそうとするも、口元が引き攣る。
薄く積もった埃の上に足跡が――小さな子供の足跡が、くっきり残されているのを見つけたからだ。
いったいどこに続いているのか、よせばいいのに足跡を追っていく。
(ビビッてねえよ……別にビビってるわけじゃ)
たかが人形に動揺させられたことは、モーリスの自尊心を傷つけた。その事実をどうしても認めたくない。
だから足跡が続く先を、確かめずにはいられなかった。緊張で息を詰め、足跡を辿っていく。
「なぁ! モーリス!」
急に声をかけられ、モーリスは心臓が口から飛び出しそうになった。
「てめっ……ネッド! でかい声で呼ぶんじゃねえよバカ野郎!」
驚いてしまった恥を誤魔化すように、相棒を怒鳴りつける。
「モーリスの方が声でかいじゃんか。まあそれは置いといてな」
「ちっ……何だ? 何か見つかったんかよ?」
まだ言い足りなかったものの、何か伝えたそうなネッドにとりあえず話を促す。
「金になりそうなのは全然。ただな……」
「いいから、さっさと言え」
「工房に男の死体があったぜ」
「死体? ここに住んでる人形師か?」
「そうじゃね? 死んでからそれなりに時間経ってるっぽい」
「誰かに殺られたか?」
「さぁな……見た感じ傷らしいのはないみてえだけど」
とはいえ毒殺の可能性も考えられる。犯人はすでに逃げているにしても、厄介事の匂いがする。
男の不審死。姿を消した人形――。
(何考えてんだ俺は……くだらねぇ)
頭を振って余計な想像を追い出す。
「どしたよモーリス?」
「何でもねぇよ。これ以上ここにいてもしょうがねぇし、ずらかるぞ」
「だな。はぁ……無駄骨だったか」
「溜息吐くんじゃねぇ。いいから行くぞ」
ネッドを促し、入ってきたときと同じ窓から外に出る。だがモーリスは、先程の人形のことが頭にこびりついて離れなかった。
(ありゃ何だったんだ? やっぱ俺の気のせいか? そうだよな……)
足跡にしても薄暗い上、人形が消えたという先入観でそう見えただけなのだろう――と、自身を納得させる。
家から遠ざかりながら、何気なく後ろを振り返る。
(……何だ??)
窓に、何かが張り付いている。
目を凝らし――それが小さな子供の手だと気付いたとき、ぞわりと悪寒が走った。
(まさか……)
窓の端から、すっ――と顔が覗く。
「ひっ!!」
それはモーリスが見た、あの人形の顔だった。
「? どしたモーリス?」
怪訝な顔でネッドが声をかける。もしこの場にモーリス一人なら、そのまま腰を抜かしていたに違いない。なけなしの自尊心で何とか堪える。
「……な、何でもねぇ。何でも……ねぇよ」
ネッドの方を向いて答える。声が震えていないのを祈るばかりだ。ネッドは納得したのかしてないのか分からない微妙な表情で「何でもねぇなら、いいんだけどよ」とだけ言って、また歩き出す。
「…………」
もう一度、モーリスは家の窓に目をやるが、すでに人形の姿はなくなっていた。
(どうかしちまってるぜ……こんな)
どうかしてるのがあの家なのか、もしくは自分の頭なのか――とにかく一つだけ言えるのは今、己の心臓がうるさいほどに鳴っているということだ。
それはモーリスの心に刻まれた『恐怖』の、紛れもない証だった。
二人組の泥棒がいなくなったのを確認して、クロエはほっと胸を撫でおろした。
泥棒の片割れが近づいてきたとき、彼はとっさに死んだふり――いや人形のふりをして、やり過ごそうと試みた。
なのにその男から踏みつけられるは、乱暴に投げ飛ばされるはと散々な目に遭う。痛みはないが万が一体を壊されるような事になってはいけないと、泥棒が漁っているうちにクロエはそろりそろりと逃げ出した。
気付かれずに抜け出した後は、物陰に隠れて泥棒がいなくなるのを、じっと待つ。やがて気が済んだのか、二人組は割った窓から外に出て行った。
とはいえ、本当にいなくなったのを確認しない限り安心は出来ない。窓からそっと外の様子を窺ってみる――と、ちょうど一人がこちらを見ていたので、慌てて顔を引っ込めた。
気付かれていないか暫くビクビクしていたものの、引き返してくる気配もないので、もう一度外を見れば人影はなくなっている。それでようやく安心できた次第だ。
「……にしても、マジかこれ……」
家の惨状を目にして、クロエは肩を落とす。泥棒たちは荒らすだけ荒らした挙句、何も取らずに帰って行った。
引き出しや棚に入っていた物は全部、床の上にぶち撒けられている。足の踏み場もないとはこのことだ。
「酷すぎる……あんまりだ……」
自分の家ではないが、まるで自分の家が被害に遭ったかのようにクロエは落ち込んだ。
なぜかと問われても答えようがない。ショックなものはショックなのだから仕方がない。
どんどんどんっ――。
家中に扉を叩く音が響き渡ったのは、そんなときだった。
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