第7話

 日本語ではないどころか、黒枝の知っているどの言語とも異なるにも関わらず、手記の内容は何ら問題なくスルスルと読むことが出来た。

 彼にとって初めて見たはずの文字で、それはあり得ないことだ。


 そもそも『目が覚めたら人形になっていた』というのがまずあり得ない話ではあるが。

 『異世界転生』という言葉は黒枝にも馴染み深い。ここが本当に『異世界』であるかはともかく『転生』という点は疑いようがないだろう。


 だが常識的な感覚の持ち主なら所詮は絵空事に過ぎないし、まさか自分が当事者になるなど、普通は想像すらしない。

 とはいえここまで普通ではない状況に身を置いてみれば、さすがに認めざるを得ない。いや、それ以外の現実的な答えを求めることを諦めた、という方が正しいだろう。


 不可解な事態に直面するたびに、いちいち気にしていたらキリがない。頭がおかしくなりそうだ。

 今後もう理解の及ばないことは全て『転生という不思議現象があるのだから、そういうこともある』で済ませてしまえば、それでいい気がしてきた。

 投げやりになっているのは否定出来ないものの、多少なりとも気持ちは持ち直してくる。


 頁を閉じた黒枝は、男の膝の上に手記を落ちないように置いた。ちゃんと持ち主に戻すべきだ。

 手記を読み終えて、黒枝にとって男はもはやただの死体ではなかった。ロイス・シャーウッドという息子として、夫として、父としてここで確かに生きて過ごしていた一人の人間だった。


 だからこそ彼の亡き娘を元にした、人形の体に転生したことに今『重み』を感じずにはいられない。


 (何で俺だ? 俺じゃないだろう……ここにいるべきなのは)


 この体を使っているのがなぜクロエ・シャーウッド彼が愛した一人娘ではなく、黒枝舜介赤の他人なのか? 

 転生が何者かの意思によるものかどうかは分からない。だがもしそうだとして、自分が選ばれたのには何か理由があるのだろうか?


 いずれにしろ黒枝にはどうすることも出来ない。知ってしまったからといって体を返すことも叶わない。

 この体のまま、この何一つ分からない世界で、生きていくしかないのだ。


 男をこのまま工房に放置していくのは躊躇われた。だが今の小さな体でそれは出来ない。大の大人の体を運ぶなど、どう頑張ったところで徒労に終わるのは目に見えている。

 黒枝に出来ることといえば、男の見開かれた両目を、そっと閉じてあげることくらいだ。


  「ごめんなさい……娘さんの分まで、やれるだけのことをやってみます」


 それは死者への、黒枝なりの決意表明だった。不可抗力とはいえ、彼が魂を込めて作った体を貰ったのだ。絶望などしてはいられない。

 生き抜くこと――それが、この体を受け継いだ自分の『責任』だろう。


 工房にある唯一の扉に向かって、歩を進める。転ばないよう、慎重に。

 怖くないと言ったら嘘になる。いきなりこんなところに放り出されて、心細くないわけではない。


 右も左も分からない、不安で堪らないこの未知の世界ではあるが――それでもこれから精一杯、足掻いてみよう。

 だからまずはここから、勇気を持って踏み出していく。


 こうして生まれ変わった、何者でもない人形『クロエ黒枝』としての、新しい道を。







 扉を潜った先は住居スペースだ。ここでかつて、家族三人が暮らしていた――はずだったが、今ではその面影を感じることは難しい。

 空気は冷たく淀んでいる上、微かに埃っぽい。掃除もろくにされていないようだ。


 食卓にある三脚の椅子だけが、ここに家族が住んでいたことを物語っている。今はもう、誰も腰かけることはない。

 クロエもまた、この椅子に座るつもりはない。この椅子は、ここに住む家族のためのものだ。自分のような余所者が勝手に使っていいものではない。こうして家の中を歩き回っていることさえ、後ろめたさを感じているというのに。


 以前のクロエは、何の変哲もない平凡な生活を送っていた。そしてそれがいつまでも続くものと思い、漫然と過ごしていた。

 だがロイスは――ロイスたち家族は、そんな平凡な生活こそを何よりも望んでいたに違いない。それが続いていくことはかけがえなく、特別なことなのだと。

 そう思い知らされ、申し訳ない気持ちにもなっていた。


 工房と同じくここも木造だが、壁や床に経年変化による色味の差異が見受けられる。おそらく後になってから、工房部分を増築したのだろう。


 そしてやはりというべきか――家の中にはテレビやパソコン、冷蔵庫や電子レンジといった家電製品は見当たらない。調度品も西洋風の日本離れしたものが揃っている。


  (どうにかして、遺体を見つけてもらいたいけど……)


 自力でどうにもならないからといって、いつまでもあのままにしておいていいはずがない。

 当然、スマートフォンも固定電話もないので通報は出来ない。外へ呼んでくるという選択肢も、今の姿では除外するしかない。


 (メモか何かを、こっそり置いてくるか……?)


 現状、考えられる手段はそれくらいか。真夜中の皆が寝静まっているであろう時間帯なら、誰かに見つかるリスクも減らせるだろう。


 手記によれば、ロイスの妻の実家――キャンベル家とは交流があったはずだ。

 窓から覗くと若干の距離はあるものの家並が見えた。あの中のどれかがキャンベル家だろうか――あれでは肝心の家を見つけるのは至難の業だろう。飲食店経営らしいが、今でもやっているとは限らない。


 この際どこでもいいというと語弊はあるが、早く死体を見つけてもらうことを優先するべきだろう。


 バリッ――と窓が砕ける音が聞こえ、クロエの体がびくっと跳ねる。


 「は? 何だ!?」


 音は寝室の方から聞こえた。続いて散らばった硝子を踏み躙る音が二度――つまり侵入者は、二人組ということになる。

 こんな夜中に人目を忍んで行動するなど、目的は一つしか考えられない。


 「おい泥棒かよ……マジかよ……」


 まだ災難に見舞われるのかと、クロエはうんざりした。

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