第2話
目覚めてから、黒枝はずっと一人で格闘していた。己自身の体と。
(ふっ……うっ……ぐっ……)
垂れ下がった両腕がぴくぴくと痙攣する。全神経をそこに集中させる。
ほんの僅かではあるものの、両腕が浮く。ここで気を抜いては駄目だ。少しでも力を弱めたら、またやり直しだ。
努力の甲斐あってか――徐々に両腕が上がっていき、ようやく肘掛けの上に手を乗せることができた。
(はぁ......)
それまで当たり前に出来ていたことが出来ないというのは、かなりのストレスだ。
体の方に疲れはないが、動けるようなるために必死で疑問に思う余裕はなかった。
正直、心が折れそうにならなかったといえば嘘になる。とはいえ助けが期待できない以上、自力でどうにかするしかない。
現に今に至るまで誰もここを訪れた者はいない。おそらくここには目の前の男以外、誰も住んでいないのだろう。
(よし……)
肘掛けを掴む手に、ぐっと力を込める。
とにかくまず、死体と向き合ったままのこの状態から抜け出したい。精神的に堪える。
手に力を入れながら、座面に接した臀部の位置をずらす。意識を一点に集中していた先程までと違って繊細な動作が必要になるため、難易度が比べようもないくらい跳ね上がる。
自由に歩き回れるという有難みを、今更ながら実感していた。
臀部を座面の端までずらし、更に手に力を加える。座面から臀部が離れる。
(ふぅっ……)
そのまま上体を前方に傾け、手に加えていた力を慎重に抜いていく。すると、足裏が床に接する。
恐る恐る、両手を肘掛けから離した。
(わっ!)
両足に力が入らず、体が床に叩きつけられる。
(く、そ……)
衝撃が全身に伝わったものの、不思議と痛みは感じなかった。
床に両手をつく。そこで初めて、自分の手をちゃんと見た。
(は?)
黒枝は、目を疑った。
両手があまりに小さすぎる。どう見ても男子高校生ではなく七、八歳の子供の手だ。
まるで体が、幼少期に逆戻りしたかのように。
それだけでも黒枝がショックを受けるには充分だった――が。
指の関節が明らかに人間のものでない、球体関節状になっているのだ。
(う、嘘だろ……俺の体、どうなってるんだよ?)
この身に何が起きたのか? 何をされたのか?
ただでさえ体の自由が効かないところを諦めず頑張っていたのに、まだこんな最悪な事実を突きつけられるとは。
(いったい、俺に何の恨みがあるっていうんだよ……)
目立つことなく争いごとも避けて平凡に生きてきたはずなのに、何でこんな目に遭わないといけないのだろう?
とはいえ、嘆いてばかりいるわけにもいかない。
(鏡……鏡はどこだ……?)
両手がこれほど変わり果てているのなら、己の容貌もどうなっていることか。
確かめるのはとてつもなく怖い――怖くて堪らない。
それでもいずれ現実を知るときはくるだろうし、それなら早いうちに済ませておきたい。
嫌なこと程さっさと終わらせたい性格なのだ。
視線を巡らすと、黒枝が座っていた椅子の右後方に硝子棚があった。何とかあそこまで行けば――。
両腕の力で這いずり、苦労して硝子棚まで移動した。棚を支えに立とうとするも、両足はがくがくと震えが酷く体のバランスを保てない。まるで産まれたての小鹿だ。
それでも時間をかけてめげずに挑戦を繰り返すうち、両足の震えも収まってきて何とか立ち上がることが出来た。
とはいえほぼ棚に凭れるような形ではあったが――それでも前進と言えるだろう。
覚悟を決めるため数秒置き、黒枝は硝子棚に映った自分の姿と向き合う。
「は? 誰これ?」
目覚めてからの第一声が、黒枝の口から漏れる。
そこには愕然とこちらを見つめる、幼い少女の顔があった。
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