新人ちゃんのお仕事は


 焦げ茶な色に包まれた空間。

 パンの焼けた香りが膨らんだその部屋。


 広がっていく匂いを表現しているかのように、ゲゲのぽやぽやが部屋中を漂って暫く。


「ヒメちゃんね。良い名前じゃない! おばちゃん羨ましくなっちゃった!」


「あ、ありがとう、ございます」


「あっはっは! 照れなくても良いってのに! もう、そんなところも可愛いわねえ」


 ヒメにデレデレのパン屋のおばちゃんの声が響いていた。

 ヒメは名乗ったのにパン屋のおばちゃんはパン屋のおばちゃんでいいと食い下がったことで、結局はパン屋のおばちゃんと呼ぶことになっていたり。


 ゲゲが言うには彼女の本名を知っている人の方が少ないとのこと。

 恐らくは今後もパン屋のおばちゃん、もしくはおばちゃんと呼ぶことになるだろう。


「というわけなので色々と事務処理の方をお願いします」


「こんな可愛い新人ちゃんなんだもの。いつもより張り切って手続しちゃうから安心してね!」


 ヒメの過去。余所者であったことは伝えていない。

 特別に嫌われるような経歴というわけではないが、別に知られなくても良いものは話す必要はないのだ。


 ヒメが話したくなったらその時に改めて伝えればいい、というスタンス。


 焼き上がりが最高の出来だというパンを片手に必要な情報を口頭で伝えていくヒメ。

 食べながらは下品だとか行儀が悪いだとかそういったことを気にする性格ではないし。おばちゃんからも食べて食べてと勧められる以上は断ることなどできない。


「あっはっは! そんなに美味しいかい? 嬉しいねえ!」


「こんなに次も食べたいって思えるパンは、えぇ。初めてかもしれません」


「ヤダ、おばちゃん泣けてきちゃう……!」


 落ち着いた大人な空間は最初の印象。

 久しぶりに帰ってきた子供を見守ってくれている場所、というのが今の印象。


 勿論、子供はヒメ。


「そろそろお仕事の話をしてもよろしいですか?」


「あぁ、そうだったわね。お話が楽しくって大事なこと忘れちゃってたわ」


 水を差したのはゲゲ。

 誰も邪魔をしただとか余計な口出しをしただとか思っていないが、ゲゲ自身は申し訳なさそうに切り出していたり。


 つい楽しくなってしまって本来の仕事を忘れてしまっていたことを申し訳なく思っているのはおばちゃんも同じであったのだが。

 素直な人が多いこと。ヒメはそんな人達に囲まれていることをあまり自覚していない。


 今も店の奥へと何かを取りに戻っていったおばちゃんの背中をのほほんと目を細めて早く戻ってこないかなぁと。

 呑気にパンをぱくぱく口へと運びながら待っているのであった。


 縛られていたつもりはなかったものの、どこか心の中で余所者としての窮屈さを感じていたのだろう。

 時折、誰に話す時も卑屈になりがちであった発言はここまで姿を見せていないのがその証拠。


 気が抜けきってしまったとも言えるのか。

 それが良いのか悪いのかは別として、確実に彼女の中で変化が起きているのは間違いがない。


「新人ちゃんってことでやっぱり最初は簡単なお仕事からにしましょうかねえ」


「おばちゃんが思ってるより簡単なレベルにしてもらえると丁度良いかと。事情があって過去の経験はあれどそれを活かせない状況にありますので」


「ふーん。おっけい分かったわ……。だったらこれなんてどう?」


「街周辺の見回りですか。えぇ、これにしましょう」


「私の意見は聞いてくれないのか」


「他に何か気になるものでもありますか?」


 おばちゃんにお仕事リストを見させてもらって、他にある仕事内容を確認していくヒメ。

 魔物の討伐があればそっちの方が良いと思っていたのだが、並んでいる内容を確認して無理そうだと諦めることになる。


「子犬の捜索に畑仕事のお手伝い。街の清掃、赤子のお守りに街中の見回り……」


「うふふ、やりたいお仕事は無かったみたいね」


「その、魔物の討伐依頼みたいなのは無いんですか?」


「そうねえ。簡単なものってことだったからこんな感じの内容ばっかりになっちゃったからあるにはあるんだけどねえ……」


 ちらと。良いの? とおばちゃんが窺うのはゲゲの様子。


「あっしが許しません」


「理由は」


「危ないからです」


 単純明快。今のあなたにはその実力がありませんと告げられてしまう。

 弱い魔物なら大丈夫だろうと説得を試みるヒメであったが、ゲゲの考えが変わることはなかった。


「最初だけいいです。次からは希望のものに挑戦していいですから、今はあっしの言うことを受け入れてくださると助かるのですが」


「むぅ。そこまで言われたら仕方がない」


 仕事内容が決まり、ようやく動き出すヒメの新しい道。

 その最初の一歩は今までやってきたことに比べればとても小さいものかもしれない。


 しかし、踏み出してこそ分かることもある。

 ヒメは今回の見回りをするだけの仕事で思い知ることになる。


 大切な一歩。それは踏み外してはいけない最初の一歩なのだ。

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