第2話 幸せな時間
2014年12月21日(日)7:46。
俺は目覚めるとすぐに服を着替え、キッチンでご飯を炊いている母親に、
「散歩に行ってくる」
と声をかけてすぐに出掛ける事にした。
家を出ると、とてもよく晴れた気持ちの良い天気だった。
街の景色は10年後とは随分違っていて、高層マンションが建っていたと記憶している場所も、まだコインパーキングとして残っていたりする。
そのコインパーキングを意識して見ていると、記憶の中にあるマンションの姿が見えてくる。
これが俺の不思議な力だ。
まるで目の前の景色の上に、半透明の別の景色が重ねられた様に見えるというものだ。
動かないものだけがそう見える訳ではなくて、受験勉強に使う赤本のページにも、過去に俺が書き込んだ回答が重なって見えた。
もしかしたらロト6の様な記入式の宝くじも同じ様に見えるのではと試してみたら、俺がこれまでロト6を当てた経験が無いからか、それで1等を当てる事は出来なかった。
この不思議な力は、あくまで2024年までに俺が見たことのある景色が重なって見えるというだけの事で、俺が見たことが無いものの未来を知る事は出来ない様だ。
使いようによっては便利な力だが、ラノベにありがちなチート能力を手に入れたという程ではなく、俺が知らない事を知れる力という訳でも無い。
つまりは世界を変えられる力という訳では無く、せいぜい俺の周りで少し変化を起こせるかも知れない程度の力という事の様だ。
しかし、こうも思っている。
この世界が本当に10年前の世界で、この先の世界が俺が知る未来と寸分違わず動くのだとすれば、この力の有無に関わらず、両親の海外旅行の予定を変えて、両親が事故に遭わない様にする事くらいは出来るのではないかと。
そうすれば、俺が知る苦労だらけの未来ではなく、もっと普通の人生が送れたのではないかと。
妹の加代子が精神的に参ってしまう事も無かったかも知れないし、普通の兄妹として、普通の人生をお互いに歩めたのではないかと。
(そうだ。なら、この人生でやり直せばいい。何の因果で10年前の自分に戻れたのかは分からないが、せっかく戻れたのだから、きっと色々な事を良い方向に変えられる筈だ。)
今の知識のままで子供時代からやり直せたら…
そんな空想を、誰もが一度はした事があるだろう。
俺は今、子供時代では無いものの、それと似た様な事を体験しているのだ。
ならば、絶望に満ちた人生などではなく、希望に満ちた人生を送りたい。
これまでの人生では幾度もの選択する場面があったが、それらの選択の何かが間違っていたのだとすれば、その選択をやり直せる今、もう一度正しく選択すればいい。
これが夢でないとは言い切れないが、仮に夢だったとしても、覚めれば元の生活に戻るだけだ。
失うものなど無い。
これからの俺は、この時代を生き直すのだ。
「ふふっ…」
不意に笑みがこぼれた事に、自分自身が一番驚いていたかも知れない。
(俺は、喜んでいるのか?)
そう、喜んでいるのだろう。
千載一遇なんてレベルの話じゃない。
万が一にもあり得ない様な奇跡が、俺なんかの元に訪れたのだから。
(前世で何か、良い行いでもしたっけな?)
街を散策して数時間、そんな事を思える程には心に余裕が生まれていた。
(まずは大学受験に合格しなくちゃな)
俺はそんな事を考えながら、朝とは違う軽い足取りで、自宅へと向かったのだった……
▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
「ただいま」
「あ、お兄ちゃん、おかえり」
俺が帰宅すると、玄関先で郵便受けから郵便物を取り出していた妹の加代子と顔を合わせる事になった。
「どこ行ってたの?」
「どこって事も無いけど、気分転換に散歩してただけだよ」
「ふうん…」
と加代子は、さほど興味無さそうにしていたのだが、
「その封筒、何?」
と俺が訊くと、
「高校の案内と願書だよ」
と、高校生になる事に憧れでも抱いているのか、加代子は嬉しそうに答えた。
(そういえば、加代子が初めて高校の制服に袖を通した時って、お祝いも兼ねて夕食をすき焼きにしたんだっけな。両親にとっても、娘が高校生になった事は嬉しい出来事だったのかもな)
そんな事を思いながら加代子を見ていると、ふと俺の知っている、10年後の悲しげな顔をした加代子の姿が重なって見えた。
俺は「ハッ」と顔をそむけ、加代子の辛そうな顔を視界から遠ざけた。
そんな俺の仕草を見ていた加代子は、
「クシャミが出そうで出なかった?」
と、俺が顔を背けたままじっとしていた事をそう解釈したらしい。
「ああ、そうだな。今日は寒いからな」
「受験も近いのに、こんなタイミングで風邪とかひいたらシャレにならないよ?」
「ああ、気をつけるよ」
そう答えた俺の顔を、加代子が不思議そうに見ていた。
(あれ? 今の俺の話し方、何かおかしかったか?)
10年前の俺がどんな話し方をしていたかなんて、正直なところ覚えていない。
両親が死んでから、二人で生きてきた時間の方が密度が濃かったせいで、その頃の話し方で話してしまっているのかも知れない。
しかし、目の前の加代子の表情は幾分柔らかくなり、
「いつもそんな感じで話せばいいのに」
と笑顔を作ると、「お兄ちゃんがイラついてると、空気がピリピリして落ち着かないってお母さんが言ってたよ?」
と続けて、封筒を抱きかかえる様にして玄関の扉を開けた。
「お兄ちゃん、早く入ったら? 風邪ひくよ?」
「ああ…、ありがとうな」
俺は何に対して謝意を述べたのか分からないまま、そう言って玄関扉を潜ったのだった……
▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
「サトシ。受験の方はうまく行きそうか?」
家族で夕食を囲んでいた時に、父親が不意にそう訊いてきた。
「どうかな。多分大丈夫だと思うけど、なる様にしかならないからね」
そう答えながら俺は、
(父親にこんな事を訊かれたのは初めてだな…)
と思っていた。
「そうか! 大学受験なんて、お父さんもお母さんも経験が無いから、何もサトシにしてやれる事が無くて悪いと思ってたんだが、今日は朝から何だか落ち込んで見えたから、ちょっと気になってたんだよ」
「そうなんだ…。何か、みんなに気を使わせてたみたいで、ごめんね」
俺は素直にそう言って頭を軽く下げて見せたが、
「サトシなら大丈夫だと思ってたわよ」
と笑顔になりながら、母親が俺の器に和牛をよそってくれるのを見ていた。
(そうだったんだな……。そんな風に思われてたなんて、10年前の俺はぜんぜん考えて無かったな……)
1993年にバブルがはじけて日本経済がデフレスパイラルに突き進んだと、高校の近現代史の授業で習った記憶はあるが、そもそも俺が生まれたのが1996年なので、バブル経済がどんなものだったかなんて想像も出来ない。
そういえば、高校の授業でそんな歴史を習った後に、父親に訊いた事があったっけな。
「バブル経済の日本って、どんな感じだったの?」
と俺が訊いたら、遠い目をした父親が、
「お父さん、海外からブランド品を輸入する部署に居たんだけどな、当時は、何をどれだけ輸入しても、全てが必ず完売したんだよ」
と言っていた。
それだけ日本国民が豊かだったという事なのだろうが、俺が生まれて物心がついてからは、そんな日本を見た事は無い。
10年後の2024年には、国民の6割が「生活が苦しい」と感じているという統計が出ていた程だ。
「サトシ、どうした?」
「え?」
と俺が父親の声に顔を上げると、父親が俺の顔を覗き込む様に見ていた。
「いや、何だか心ここにあらずって顔してるから」
と心配そうな声でそう言う父親に、俺は作り笑いで応え、
「大丈夫。何でも無いよ」
と言って、すき焼きのタレの味が染み込んだ和牛を、生卵に絡めて口に運んだ。
「旨いなぁ……」
五臓六腑に染み渡る味と言えばいいのか、両親が死んでから、こんなに旨い料理を食べた事が無かった事に、今更ながら10年後の加代子には申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
不意に目頭が熱くなり、涙が零れそうになるのを、俺は必死に堪えていたが、母親がそんな俺を見て、
「あら、お肉屋さんが、美味しくて感動するよって言ってたけど、本当だったのね」
と、笑っていた。
「ああ、感動する程美味いよ、本当に…」
と俺は、何とか涙が溢れるのだけは堪え、そう誤魔化したのだった……
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