第1話 不思議な力

 2014年12月20日(土)17:38


 俺は大学受験の勉強をしていた。

 赤本を開くと、各ページには俺がこれまで勉強してきた軌跡が見て取れる。


 2024年を生きていたサラリーマン時代の俺に、もう一度大学の共通テストを受けさせても合格できるとは到底思えないが、今の俺なら余裕で大学に合格できるのではないかと思えてきた。


 というのも、俺の頭の中には、確かに18歳の俺の知識が詰まっており、28歳まで生きた俺の意識と共存されているらしい事が分かったからだ。


 今日一日、18歳の藤堂聡とうどうさとしとして過ごしてみた結果、他にもいくつか分かった事がある。


 まず、俺は確かに18歳の時の俺自身の肉体を持っているという事。そして、28歳まで生きた記憶が確かに存在していて、俺の魂的なものは、28歳の時の俺自身のものだという事だ。

 しかし、昼間に近所を散歩した時、不思議な景色を見る事になった。


 この10年間でこの街は色々と様変わりするのだが、10年後の俺の記憶と、目の前に見えている景色が重なっている様に見えたのだ。


 実際に見えているものと、10年後の状態がオーバーラップして見えるというか、まるで同じ場所で撮影した古い景色写真の上に、透明なフィルムに映した新しい景色の写真を重ねてみている様な感じだ。


 これは、ずっとそう見えている訳ではなく、俺の意識の仕方でどちらかの景色が見えるといった感じで、今日は景色の見え方が安定するまで、色々意識の仕方を試してみたりもした。


 そうしていくうち、見ている情景が10年後だけではなく、それまでの道程を追う事も出来る様になってきた。


 例えば、今勉強している赤本もそうだ。


 当時の俺が一生懸命勉強した事が幸いして、赤本の中の問題文をじっと見ていると、意識の仕方を工夫する事で、問題文の下に解答や計算式などが浮かんで来るように見える。


 これは当時の俺が記述したものが記憶として残っていて、それが見えているという事なのだろう。


 ともかく、18歳の時の俺が真面目に勉強していた事が幸いして、今の俺は問題文を見れば、その未来的な情景が見えて来るという訳だ。


 つまり、大学入試の為の共通テストも、問題用紙や答案用紙を見れば、その記憶を呼び出す事が出きる筈だという事だ。


 不思議な力でズルをしているのだとは思うが、この力を活かさない手は無い。


 そもそも、俺自身が10年前にタイムスリップしているのも、どういうカラクリでそうなったのか分からないのだ。


 今更、不思議だとかズルだとか言ったところでどうしようも無いだろう。


 この先の俺の10年は、お世辞にも幸せな10年とは言えなかった。


 どれだけ頑張って働けども、生活が楽になるなんて事は無かったし、両親の残した財産は学費と税金で失われ、貯金も数十万円しか残らなかった。


 それでも兄妹で協力しながら頑張って生きていたものの、経済的にも時間的にも余裕は無く、俺には恋人が出来る事もとうとう無かった。


 加代子は20歳の時、成人式で再会した元クラスメイトと交際していたらしいが、彼氏の浪費癖に付いて行けず、1年程付き合っただけで別れてしまった様だった。


 その翌年、世界中で新型感染症のパンデミックが起こり、加代子が働いていた飲食店は休業を余儀なくされ、我が家の収入源は俺の給料、月の手取り21万円が全てとなった。


 しばらくはそれでも何とかなっていたのだが、2021年2月に起きたロシアによるウクライナ侵攻をきっかけに、様々な生活にかかるコストが値上がり、2024年の10月には、俺の給料だけで生きて行くには厳しい状況になっていた。


 未来に希望など無く、生きる意味を見失い、ただ毎日を仕事と自宅の往復で終えるだけ。


 加代子が居なければ挫けていたかも知れないが、加代子の助けもあって何とか生きていた。


 そう。ただ生きていただけだ。


 パンデミックへの対応として、社会は「外出抑制」が奨励されていた。

 仕事はリモート化し、俺は自宅に居る時間が長くなった。


 おかげで加代子と話し合う時間は増えたが、パンデミックでアルバイトが出来ずにいた加代子は、俺の収入に頼る生活が続く事に、いつも申し訳無さそうにしていた。


「気にするなよ。加代子が悪い訳じゃないんだから」


 俺はいつもそう言って聞かせていたが、加代子はどこか悲しそうに笑って、

「いつもありがとう」

 と呟くだけで、心が晴れる様子は無かった。


 2022年6月、俺は会社の命令で、パンデミックに対応するワクチン接種を受ける事になった。


 いわゆる職域接種というもので、会社の会議室に行けば無料でワクチン接種が受けられるというものだった。


 もし俺が感染症に罹患りかんなんてして、万一仕事が出来なくなったりしたら、俺たち兄妹が困窮するのが目に見えている。


 そうならない様にと、勇んでワクチン接種を受ける事にしたのだった。


 だが、接種を受けた翌日から、俺の身体は高熱と身体中の痛みに襲われ、10日間、生死の境を彷徨さまよう事になった。


 出勤時間になっても起きて来ない俺の様子を見に来た加代子が異変に気付き、すぐに救急車を要請してくれた。

しかし、電話口で俺の症状を説明したところ、

「その程度の症状だと救急車は出せません。申し訳ないのですが、自宅療養でお願いします」

 と救急車の出動を断られたそうだ。


 俺が意識朦朧いしきもうろう状態でいる間、加代子はあちこちの医者に問い合わせてくれたらしいが、どこの病院も、

「ワクチン接種による、一時的な副反応ですね。じきに治りますよ」

 と言われるだけで、どこも取り合ってくれなかったらしい。


 実際のところ、俺が危険な状態だった事を、俺自身は後から知ったのだが、その時は加代子が甲斐甲斐しく俺の世話をしてくれなければ、俺は生きて回復する事が出来なかったかも知れない程の状態だったそうだ。


 10日ほどして俺が回復した時は、加代子は憔悴しょうすいしきった顔で泣きながら、しかし心から俺の回復を喜んでいた。


 偶然だが、俺の誕生日が数日後に控えていた事もあって、加代子は手作りでケーキを作り、俺の快気と誕生日を同時に祝ってくれた。


 その日の夜、加代子は、

「お兄ちゃんと寝てもいい?」

 と言ってきた。


「おいおい、あんな狭いベッドに二人は無理だよ」

 と俺は返したが、正直なところ内心は混乱していた。


 俺が生死の境を彷徨っていたせいで、俺が居なくなる事を恐れ、加代子の中で寂しさや恐怖が膨れ上がっていたのかも知れないとは思っていた。


 しかし、ここ数ヶ月の加代子は、妹というより『妻』であろうとしている様にも見えていたのが少し気がかりだったのだ。


 そして何より、当時の俺は25歳にして童貞だった訳で。

 高校生の頃は夢にまで見た女子とのベッドシーンではあったが、産まれた時から一緒に育ってきた妹とはいえ、22歳のお年頃の女子が同じベッドで寝るなどという事は、俺にはどうしてよいか判断しかねたのだった。


 結局、俺は立ち上がって加代子の身体をギュッとハグし、背中をトントンと軽く叩いてやり、

「大丈夫。俺はもう大丈夫だから」

 と言って「だからお前は、自分の部屋でゆっくり休みな」

 と続けて、部屋の外に促したのだった。


 その時の加代子の泣きそうな表情は今でも覚えている。


 俺があの時どうするべきだったのか、今でも分からないままだ。


 でも、加代子にそんな顔をさせてしまった自分自身の不甲斐なさを引け目に感じていた俺は、結局はそうする事しか出来なかっただろう。


 ……しかし、今の俺は2014年の12月20日を生きている。


 10年間の色々な後悔を取り戻す事が出来るかも知れない。


 これが夢か現実かは分からないが、こんなチャンスは何度も訪れる事は無いだろう。


 ならばこの不思議な力だって、有効に活用しなければ意味が無い。


 時計を見れば、時刻は「17:56」になっていた。


 もうすぐ加代子も高校見学から帰って来る頃だろう。


(……この人生では、もう加代子のあんな顔を見なくて済む様にするぞ)


 そう俺は、心に決めたのだった。

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