別れたあなたの次なる相手

三鹿ショート

別れたあなたの次なる相手

 建物から少し離れた場所で虫を逃がした私が部屋に戻ると、彼女は笑みを浮かべながら感謝の言葉を吐いた。

「やはり、あなたは頼りになりますね」

 その直後、彼女は悲しげな表情へと変化した。

 何度も目にしたことがあるために、彼女が放つ次なる言葉がどのようなものであるのかなど、私には分かっている。

 ゆえに、私は何度口にしたのか分からない言葉を、彼女に告げた。

「きみと復縁するつもりはない」

 そして、私は今日もまた、彼女の部屋を後にする。

 私が去った後、彼女が部屋の中で泣いていることは分かっているが、相手にすることはない。


***


 私が彼女と別れることを決定した理由は、枚挙に遑が無い。

 他者が耳にすれば、それらは些細なことだと感ずるだろうが、塵も積もれば山と化す。

 彼女に対する愛情と、彼女に対する不満を天秤にかけた結果、後者が存在感を放つようになったために、私は別れることを選択したのだ。

 別れを告げた際、彼女が顔面の穴という穴から液体を流していたことを、今でも憶えている。

 その表情を見たことで後ろ髪を引かれる思いがわずかながらも生まれたことは否定しないが、今後の私の精神的な安定のためには、このような選択をするべきであることは、間違いがなかったはずである。

 だが、彼女と完全に縁を切ったわけではない。

 何かしらの相談があれば話を聞き、助言を口にすることに吝かではなかった。

 ただ、二言目には私との復縁を口にすることに対しては、嫌気が差していた。


***


 友人から、彼女に対して愛の告白をするつもりだという話を聞かされたとき、私の心は揺れた。

 私はその動揺を隠しながらも、友人に理由を問うたところ、

「笑顔が、素敵だったからだ」

 恥ずかしそうに答える友人の目の付け所の良さに、私は感心した。

 確かに、彼女の笑顔は素晴らしいものである。

 主観ではあるが、彼女の笑顔を目にすれば、泣き喚く子どもはその涙を止め、人生に絶望した結果、背の高い建物から身を投げようとした人間は思いとどまり、子々孫々争いを続けていた二つの組織の当主は握手を交わすだろう。

 しかし、彼女が笑顔を見せる相手は気を許した人間のみであり、その笑顔を目にしたということは、彼女にとって眼前の友人の存在は大きなものと化したに違いなかった。

 友人いわく、愛の告白についてわざわざ私に対して告げたのは、先日まで私と彼女が交際していたことが理由らしい。

 今や彼女は誰のものでもないために、許可を得る必要は無い。

 それでも、律儀にそのことを伝えることは、友人の良いところでもある。

 私は酒を一口飲んでから、

「きみたちの日々が充実することを祈っている」

 そのように告げようとしたが、私の口から言葉が出てくることはなかった。

 その行動に、自分でも驚いた。

 私は、彼女が別の人間と交際することに対して、否定的ということなのだろうか。

 それが意味することは、彼女が私との復縁を迫るように、私もまた、彼女に対して未練を抱いているということなのではないか。

 心の中で否定しようとしたが、その行動に移ろうとする度に、彼女の笑顔が浮かんできた。

 今の私は、彼女に対して負の感情を抱くようになった言動に触れていないために、私の中に残っているものは、彼女が浮かべていた素晴らしき笑顔のみということなのだろう。

 つまり、彼女に対する愛情のみが存在しているということになるのだ。

 だが、彼女と復縁することで、姿を隠していた負の感情が再び顔を出すことは、分かりきっている。

 それでも、何故私は、彼女に新たな恋人が出来るということに対して、否定的なのだろうか。

 その後、私は黙々と酒を飲み続けた。

 店の前で別れの言葉を口にするまで、私と友人が言葉を交わすことはなかった。


***


 今日もまた、私は彼女に呼び出され、部屋の中に出現したという虫の排除を依頼された。

 常のように虫を逃がし、部屋に戻ってきた私を、彼女は変わらぬ笑顔で迎えた。

 そして、復縁を迫ろうとするのである。

 しかし、私が彼女を受け入れることはない。

 だが、彼女に新たな恋人が出来ることもまた、受け入れることはできなかった。

 だからこそ、私は彼女に対して好意的な人間に向かって、他者が耳にすれば必ずといって良いほどに嫌悪感を抱くような悪癖を捏造して伝え、彼女に近付こうという気分を削ぐことに執心している。

 私がそのような行為に及んでいることも知らず、私に復縁を迫り続ける彼女は滑稽と表現することも可能だが、私が彼女を馬鹿にすることはない。

 おそらく、私が知らないうちに彼女に新たな恋人が出来た場合、私はその相手に近寄り、破局するために尽くすだろう。

 そして、破局したことで悲しみに暮れる彼女を、私は慰めるのだ。

 自身が良い人間ではないということは、分かっている。

 ゆえに、私は自宅に存在する鏡を全て割っていた。

 このような醜い私のことを未だに愛し続けている彼女がこの世界から消失したとき、おそらく私は、自らの手で生命活動を終わらせることだろう。

 我ながら、迷惑な存在である。

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別れたあなたの次なる相手 三鹿ショート @mijikashort

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