Case.59 赤ちゃんになりたい場合


「おい大丈夫かよ!?」


 屋上に急ぎ向かった俺は、体操座りで扉横の壁にもたれかかる氷水をすぐに見つけて声を掛ける。


「な、七海……よかった、来てくれてありがとう……」


 震える身体。大量の汗水。しゃがれた声。

 彼女の凛々しさを見る影もなく、酷く弱っていた。


「どうしたんだよお前……」

「……私ね、今日まで重圧に耐え、多忙な日々に追われながらも文化祭を頑張ってきたの。なのに、何よこの仕打ち……!」

「何があったんだよ、おい……!」

「……育児休暇で声優業休むって」

「…………誰が」

「政宗が」

「おぉぉい、またか!」

「またって何よ!? 一大事でしょうよこれ!」


 氷水が見せた柴崎政宗のツッタカターには、【重要なお知らせ】と題して、文字が並ぶ画像が投稿されていた。

 そういや子供ももういるんだっけな。そういうこともそりゃあるだろうけど、ファンにとってはダメージデカいんだろな。


「育児休暇ねぇ。まぁ、今の世の中、よくある話だろ。特に芸能界とかは率先して取らないといけないイメージあるし」

「ははっ、どうだか。どうせ、私たちから搾取した金で遊びたいだけでしょ。育休してますアピールで好感度稼ぎしたいのよ。あの家には子供が二人になったわけだし、そう、政宗っていう子供がねぇ!? どうせ私の政宗を奪った女に全部やらせてるに違いないわっ! ははっ!! 可哀想ね、そこだけ同情してあげるわよ!」

「お前ファンだよな!?」


 ショックからの精神崩壊で思想歪みすぎだろ。アンチに転生してるけど。

 それに表情まで某地下賭博アニメみたいに歪んで……てか、泡吹き出してきてない!?


「ぐふっ、もう、ダメ……私、無理。働けない。政宗がいない世の中なんて……!」

「勝手に推しを殺すなよ」


 ただ、このままだと会長不在の文化祭となってしまう。屋上まで聞こえる賑やかな声も氷水が頑張ったから存在する。

 彼女には元気になってもらいたい。

 そうでないと、俺がここまでして頑張ってきた努力までも……!


「で、俺を呼んだのには励まして欲しいからなんだろ。どうすればいいんだ?」

「ガバッ、ガッ、グァッ」

「うぉい末期じゃねぇか!!」


 コミュニケーションが取れなくなったために、急遽アドリブが求められることに。

 好きな声で、こいつの求める言葉を……!


「んっん! ──沙希ちゃん。ごめんね、急に僕がいなくなって』

「みゃ、みゃちゃみゅにぇ!?」

『僕は君たちファンを愛している。けれども、家族も同じように愛しているんだ。妻と一緒に愛する子供を守りたい。だから、少しの間だけ待っていてくれないか?』

「ま、ましゃむねぇ……」


 よし、少しずつ滑舌が戻ってきたな。

 後はいつものように抱いて耳元で囁けば──


「じゃあ、じゃあ、私も赤ちゃんみたいにあやして?」

『……ん?』

「私もね、政宗の赤ちゃんになりたいの」


 ……こいつマジで何言ってんの?

 氷水はあぐらで座っている俺の膝と膝の間、すなわち股間に頭の頂点を合わせるようにして寝転がってきた。

 俺の右手を取り、そして人差し指と中指でチュパチュパと吸い出した。

 ……チュパチュパと吸い出した!!


「んふ、んふふ……!」


 虚無。

 嬉しいとか、気持ちわりぃとか、恥ずかしいとか、悲しいとか、もはやそういった感情は一切持ち合わせないよう、ただただ何も考えず、動かずに、息だけした。




 ──人生で一番長かった十分後。

 正気を取り戻した氷水は隅で嘔吐えずいていた。


「おぇぇえぇ!!」


 赤ちゃんプレイ以外にもいつものように胸を押さえつけて抱きついてきたけども、今日はなんだか……うん。

 お互い何かを失った。


「こ、このこと……絶対誰にも言わないでよ……」

「言えるかぁ!!」


 俺も辛かったわあの時間!!

 元気は取り戻してはなさそうだが、仕事復帰できるくらいには氷水は動けるようになった。


「はぁ、アホらし。戻るぞ」

「分かってるわよ。……そういえば七海、最近、日向さんと一緒にいないわね。どうしたの?」

「何だよ急に」

「別に? 二人セットみたいなものじゃない」

「いつも一緒ってわけじゃねぇんだ。なんだっていいだろ」

「そう。まぁ、七海が悪いのね」

「おぉい、何でだ!」

「なんとなく。七海が知ったかぶりだって、私も知ったかぶりしてるから」

「何でそう思うんだよ」

「だって私たちは幼馴染でしょ。昔から何も変わらな──ウッ!?」

「おい、吐くなよ」


 氷水がこれ以上言おうものなら間違いなく何かが出てくる。

 彼女は何とかして現実に戻ろうと、屋上の扉に手をかける。


「とにかくさっさと戻るわよ……何ボサッとしてんの」

「それ俺のセリフだったろ」


 数分前まであんなことあったのに、こいつ何で堂々とできるんだ。これが生徒会長か。

 色々と納得できないが、俺は氷水に続いて屋上を出ようと──


「あら、沙希ちゃん。それに、周一くんも。どうしたの? 屋上に二人きりでなんて」


 ………………沙希母!?

 扉を開けたらそこに立っていた。

 何で学校に!? あ、文化祭だから入れるのか、じゃなくて何で屋上入口そこにいる!? 怖っ!?


「お、お母さん……!?」

「あら沙希ちゃん。とても汗だくだわ。どうしたの? 何があったか詳しく聞かせて? ほら、周一くんも」


 糸目の沙希母が開眼して俺を見つめている。

 誰もいないはずの屋上に息切らした男女が二人。誰がどう見ても逢引きしてたようにしか見えない。

 文化祭だし、そういったこともどこかであるのかもしれないが、今のメンツがもうダメだ。


 娘を溺愛している沙希母から俺は何を任されていたんだっけ……あぁ、そうだ。悪い男が付かないように見張っていろと。

 もし俺が手を出したら、命消えるとかでしたっけ。

 氷水が必死に何もなかったように弁明するが、変わらず見開いた目で俺を凝視している。


 ……え、やだ。死にたくない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る