3 イルマおばあさん
北緯 30度 02分
東経 66度 52分
パキスタン、ジェラム川沿いの小さな山村。午前8時32分
見渡す限りに視界を埋める、荒涼とした山々。斜面にへばりつくように刻まれた細く長い畑地。谷の底を流れ下る川の、涼しげな水音。吹き寄せてくる風は強く、未だ夜明けの冷たさを残している。
イルマは畑の雑草取りの手を止めて、首からぶら下げた懐中時計で時間を確認する。おお、もうこんな時間だ。来客は9時の予定だったね。
今日は、午後から雷雨になるらしい。この季節らしいといえばらしいが、身を守るすべのない場所で雷に遭うのはたまらない。
来客は、まあ1時間くらいで帰るだろう(ちょっと早く帰ってもらおう)。そこからまた畑に出て、この区画だけでも片付けてしまおう。
イルマはぼそぼそと独り言を口にしながら、通い慣れた畑のあぜ道を家へと向かう。東の山並みから姿を現した太陽は、もうだいぶん高いところまで昇ってきている。
日干しレンガ造りの小さな家と、谷筋に2条だけある畑地。何羽かの鶏と2頭の山羊。これが、この谷で人生を重ねてきたイルマの全財産だ。
小さな窓から差し込む光が、ほこりっぽい部屋の中の細々とした物をやけにくっきりと浮かび上がらせている。
数字にすれば豊かとはとても言えないのかも知れないが、イルマは多すぎもせず、少なすぎもしないこの生活を楽しんでいる。
18で隣村から嫁いできて、50年あまり。4年前に夫は病気で亡くなり、娘は結婚で別の町へ、息子は都会に働きに出ているから、気楽な一人暮らしだ。
高級な毛織物の代名詞であり、国と国とが土地の所有権をめぐって争う紛争の名前にもなったこの場所。イルマにとってはそのどちらも、自分の生活とは関係の無い出来事だったし、これからもそうだろう。
気になるのはむしろ、今日の午後の雷雨と、曇りがちの日が続いている空模様だ。
そういえば今日は、あの訓練だか威嚇だか知らないけれどうるさく飛び回るヘリコプターの姿を見ていない。久しく、険しい顔をして国境に向かう若い兵士たちも見ていないことも思い出した。ま、平和が一番だね。
この国の、しかも田舎で生まれ育ったにしては珍しく、両親はイルマが結婚する前に少しばかり教育の機会を与えてくれた。だからイルマは、ちょっとした家電製品の故障くらいなら自分で直せるくらいの腕前を持っている。
おかげで、村では「物知りのイルマおばあさん」として重宝され、身近な人たちからの小さな賞賛を受けている。
女や田舎者こそ、電気や機械の勉強をしておくべきだというのがイルマの考えで、しょっちゅうそれを口にしている。
だって、こんな辺鄙な場所に誰が、ラジオを直しに来てくれるっていうんだい?
今日の依頼人は同じ村に住むグルサンで、頼まれ物は年季の入った置き時計だった。丁寧にばらし、一つ一つの部品を傷つけないように磨き、幾つかのネジを交換してきっちりと動くようにできた。
もともと作りの良い品は、適度に手を入れればうんと長持ちする。グルサン自身の様だね。イルマは置き時計を手に取り、頬に笑みを浮かべて、自分の仕事の出来を確認する。
彼女は気立てが良く、そして働き者で、もう10か15、若ければ孫の嫁にと考えたところだ。
グルサンが持ってくる報酬で(労働が報酬を伴うのは、当たり前だろう?)、今日は美味しいお茶を買おう。いつもは買わないような高いのがいい。
おしゃべりの時間が取れないのは残念だけど、グルサンには1時間くらいで帰ってもらおう。午後から雷雨だからね。長くなるおしゃべりは次でいいさ。
イルマは置き時計の針の動きを眺めながら、コチコチと時を刻むその音を確かめる。
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