夫を祭りに誘うとき
403μぐらむ
短編
「そんな事も知らないのか? ばっかじゃねーの」
そう言ってわたしのことをバカにしているのは夫の雅之だ。
「バカも何も、興味のないものなんだから知らなくても当然じゃない?」
「こんなの常識だろ? ジョーシキ」
こいつの言う常識とは自分が知っているかどうかだけの狭い世界の中でだけのことで世間的な常識とは言えない。
もっとも世間的な常識に当てはめるとこの夫の言動のほうが常識から逸脱しているのは明らかであるが本人がそこに気づいているフシはまったくなさそう。
わたしの夫は数多ある中堅どころの商社の一つに勤めている。営業職ではあるがなんともぱっとしていなくて成績も中の下に留まっているようだ。
そもそも何の変哲もない田舎の公立高校と聞いたこともないような大学を卒業しているので彼の知力学力の程度はたかが知れている。しかも学力以外の能力も特筆すべきようなものはなさそう。
対するわたしは都内の、一応名のある中高一貫の女子校を卒業して、それなりに名の通った女子大学も卒業した。ただ就職に失敗して、地方に本社のある工作機器メーカーになんとか滑り込んでいた。
その会社で納品に来ていた雅之と知り合い、彼の熱烈なアプローチの末付き合うこととなり、なんとなくのような流れで結婚に至る。わたしはずっと女ばかりの環境にいたせいか瞳が曇っていてマトモな識別眼を失っていたらしい。
学生時代の偏差値で言ったら夫よりも10も20も上かもしれないが、言っても仕方ないことなので夫には教えていない。話しぶりからしてわたしが高学歴だとは露とも思っていないだろうしね。
変に教えてつまらないプライドをこじれさせ、これ以上くだらないモラハラをされるのも堪らないので、言わないで済むならそのままでいるのが安寧に過ごす知恵なのだろう。
夫のことは別に人としては嫌いな感じではなかったから結婚したのだけれど、新婚の熱が冷めた頃から本性を現し出したって感じ。
義両親もお義姉さんも普通の善良なタイプの人で嫁としても意地悪をされることもないし、むしろ歓迎して蝶よ花よと丁寧に扱われていた感もある。
しかし残念なことに、当のこの旦那さんが駄目なタイプだったらしい。
まず始めに約束だった家事の分担を疎かにするようになった。たった二人暮らしなのだから家事といっても大したものはない。炊事洗濯掃除にそれらに付随する細々とした雑多な作業。時間にしてもものの数分で終わるようなものしかない。
それなのにそのちょっとした手間さえかけるのを渋るようになり、洗い物はしない、ゴミ捨てには行かない、週1回の掃除機かけさえできないようなダメ夫になった。
「ごめん、やっておいてくれるか?」
「仕事しているのはあなただけじゃないのよ。わたしだって普通に正社員として働いているのだから家事の分担を半分にしたんでしょ?」
「そこをなんとか」
「……今日だけだからね。次からはちゃんとしてよね」
一度こちらが折れると次回からはわたしがやるのが当たり前のようになっていた。大したことでもないのでわたしもいちいち文句を言わなかったのも悪いとは思うが。
しばらくすると、今度は勝手に大きな買い物をするようにするようになった。給料は別々にしてあったし、生活費は互いに出し合っていたので自分の給料をどう使おうと勝手だが限度というものはあると思う。
「じゃーん! 60インチのテレビ」
「いや、じゃーん、じゃなくて。うち狭いんだから40インチもあれば十分だし、そもそもあまりテレビ見ないじゃない?」
「いやいや、テレビと一緒にネトフリも申し込んだから映画もドラマも見放題だぜ」
「そう。興味ないな」
テレビの電源が入るのは平日では朝の1時間ほど。ニュースと天気予報を見るためくらい。夜も互いにテレビを見る習慣がなかったので結局映画もドラマもまったく見ていない。
休日も夫は日曜日だけなので買い出しなどに出てしまえば長くとも1日で2時間も電源が入っていれば長いほうだと思う。ホント無駄遣い。
そうそう。一番ひどかったのは車。知らない間にあのバカは車を買ってきたんだ。しかもそれをわたしに言ったのは納車の日だった。
「じゃーん! アルファード」
「どうしたの、これ?」
「買った」
「そりゃそうだろうけど、お金あったの?」
あるわけ無いと思っていたので驚きもしなかったが、全額ローンだった。夫の貯蓄額など気にしていなかったけど、これはゼロで間違いないだろう。
「7人乗だぜ。乗り心地もサイコー」
「7人って。誰乗せるよ? あなた友だちいないじゃない。わたしだって地元じゃないから友だちはいないわよ?」
「……いや。乗せることもあるだろ?」
「前の車、誰か乗せた? あれも5人乗りだったでしょ?」
確か後席はゴミみたいな物が乗っているだけで人を乗せた形跡はまったくなかったと思う。買い物だってわたしの中古のヴィッツで行っていたわけだし。
他にも細々した買い物も終始こんな調子でこんなやつに家計を任せられるわけがないと思って家の財布だけはわたしがガッチリと握っていた。
まあこんなんでも基本善人だと思っていたし、普段は一緒にいて楽しいのも間違いじゃないので多少のことには目をつぶっている。
誕生日とか記念日とかはちゃんと覚えているし、わたしが嬉しいと思えることもしてくれるので細かいところに目くじら立てるのもわたしもストレスになるしと思い、目を向けることはなかった。
それから数ヶ月。
「あなた最近帰りが遅いわね」
「……そ、そうか?」
「前は遅くても9時には家にいたじゃない。それが偶に11時過ぎとか、そんなに仕事が忙しいの?」
「う、うん。ちょっと立て込んじゃって。ほら、前に一度スーパーで挨拶した石川さんっていたじゃない」
「うん。背も高くて横にもおっきい人だったよね」
「そう、その石川さんのヘルプをしていてさ。ちょっと忙しいんだ」
「ふーん。無理しないでよね」
右のこめかみを人差し指でカリカリと掻いていたので今の話は全部ウソだと思う。夫は嘘をつくときにこめかみを掻く癖がある。それを言うと観察できなくなるので内緒にしてあるが。
要するに何か嘘をつかないといけないような、わたしに対してやましいことをしているってことなのだろう。
買い物やパチンコなどはやましいとは思っていないようで、いくら注意しても平気な顔しているのでそっち線は消えたと考えて間違いないだろう。
ならば、なんだろう。
夫が入浴中に彼のスマホを見たいが、残念なことにロックされているので解除ができない。以前にセットした暗証番号は小癪なことに変更されていたのでロックの解除に至らなかった。
「……酒、飲ますか」
スマホは顔認証ではなく指紋認証のタイプを買わせてあった。もしものときに顔認証じゃ目を開けさせないとロック解除できないから不便だと思ったためだった。
機械音痴な夫なのでわたしの指示通りの機種を買ってくれたのは本当に正解だったと思う。
そして夫は酒が好きなくせに弱いので、ビールを2~3杯飲ませれば酔って寝てしまうだろう。そうしたら指紋認証をしてロックを解除するという手筈。
ビール3本はもったいない気がしたので、少し濃い目のハイボールを1杯飲ませたら案の定30分ほどしたらソファーで横になってしまった。これで2時間ほどは目を覚まさないのが確実。
「さてと。何が出るかなぁ」
まずはラインをチェック。友だちが少ないので確認はサクッと終わった。特に何もなかった。おかしいな……。
「メールは……?」
仕事のメールしかない。あとメルマガが多すぎる。たぶん解除の方法が分からなくて放置しているだけだと思うんだけど。
「じゃ、あれだ。非表示アイコン」
ビンゴ!
出てきたのはいわゆるマチアプってやつ。ご丁寧に既婚者専用のマッチングアプリときたもんだ。
「なるほど。浮気ってわけだね。いい度胸しているじゃない?」
アプリを開くと会話だけしている相手は5人ほど。実際に会っていたのはそれ以外に3人。そのうち頻繁に連絡を取り合っていて、ついでによく会っているであろう女性は一人。
「なるほどね。会話のみと一見さんに凸るのは難しいかもしれないけど、この一人『アヤ』ってのはあいつ同様に潰してあげるのが正解じゃない?」
アプリのデータをまるまる抜ければいいのだけど、そうはいかないのでアプリ画面を自分のスマホで撮り、調べられるだけ調べて後はその道のプロにお任せにすることにする。
夫のマチアプアカウントとパスワードも抜き出して、ついでにパスワードも変えてログインし直しておいた。これでデータを消去しての証拠隠滅もできなくなるって寸法。重要な操作は要パスワードだったからね。夫はわたしに言われたとおりにパスワードマネージャーを使っていたのでそっちも順調に進めることができた。
わたしは心が広いほうだと思うけれど、ここまでコケにされてまで全部受け入れるほどできたオンナじゃない。
そしてやるならば尻の毛までむしり取るほど徹底的に追い込んでやるっているのが筋ってもの。
既婚者用を使っているあたり夫の浮気相手のアヤもわかっていてやっているのだろうから、そいつも夫とは同じ穴のムジナってやつ。ツルツルになるまで脱毛してやろうじゃない。
まずデジタル系に強い探偵事務所を探して依頼する。浮気相手は隣町にいるらしいので夫はほぼ毎日会っているようだった。
セイウチの精力並かよ、とは思ったけど気持ち悪くなったのですぐに思考から排除する。
3日ほどで十分すぎる浮気の証拠は揃ったので、まずは義両親とお義姉さんに事情を話す。3人共畳におでこを擦り付けるほど謝ってくれたけど、この人たちが悪いわけではないのですぐに顔を上げてもらう。
「それよりもですね。反省を促すためにも援助は一切行わないでほしいです」
離婚に際して慰謝料は当然いただくつもりだけど、それの余波を善良なる義両親とお義姉さんに負わせるわけにはいかないので、先に忠告しておくことにしたのだ。
「わかりました。それだけは絶対に守ります。償いはあの子だけにさせます」
「ではそういうカタチでよろしくお願いします」
ある日セイウチはすでに一発はヤッた後であろうにわたしにまでちょっかいを出してきたりした。何かのアリバイ工作のつもりなのだろうか? 気持ち悪いので拒否したし、しばらくレスだったので夫が諦めるのも早かった。
弁護士にこの件は一任してあったので書類が揃うのを待つだけだったが、たった2週間が1年にも感じるくらいに長く感じた。
嫌で、とか苦しくてとかじゃないわよ。
夫の吠え面を見るのが楽しみすぎて待てなかったの。なんだかんだでわたしアイツのこと大嫌いになっていたみたい。
日曜日。夫を助手席に乗せて出かけるのはいつものことだけど。
彼を誘い中古のヴィッツに乗ってわたしの運転で向かうのはとある弁護士事務所。
さあ、
夫を祭りに誘うとき 403μぐらむ @155
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