後編 カネじゃあ、ねえんだよ。
「いいから渡して」
「無理だっつうの。王宮のお上品なお馬さんとはわけが違うんだって」
「馬に上品も粗野もない。自分がごろつきだからって馬まで巻き込まないで」
「てんめぇえ」
つん、と荷台の前の御者台でそっぽを向いたのはアーティカである。
荷台で毛布を身体に巻きつけたロン・ロンが笑い声を立てる。
「渡してやりゃあいいじゃないですか、手綱。ひと月も馬車に揺られてりゃやり方くらい覚えますよ。ねえ、アーティカちゃん」
「俺は信用した仲間にしか手綱、渡さねえんだよ」
「わたしのどこが信用ならない!」
「そういうガキっぽいところですよ、オ・ヒ・メ・サ・マ」
二人がいがみあう後ろで、ロン・ロンが笑いながらけほっと咳き込む。
普段であればロン・ロンが手綱を握り、横にフェイが座るのだが、二日前あたりからロン・ロンは発熱で荷台に寝かされていた。それでも今日は多少、具合が良いらしい。荷台の縁に腕を組んで、その上に顎を乗せてにやにやと二人を眺めているのだ。
「兄貴だって承諾したんだから。ローマ行き。みんな仲間でしょうに」
「仲間じゃねえ。客だ。七倍の金を払うというから請けただけだ。客はおとなしく乗せられていればいい。仕事に口は出させねえ」
ロン・ロンは肩をすくめ、アーティカは頬を膨らませている。
ひと月前のあの夜、三人はローマを目指して出立した。
だがフェイは、最後まで反対した。
アーティカは二人が荷運びも請けると知ると自分を運べと訴えた。三倍、四倍と値段を釣り上げ、とうとう七倍と言ったが、フェイは金じゃねえと首を縦に振らなかった。
危険を冒す仕事はこれまでなんども請けており、中には戦場での商売もあった。が、そういう仕事を請け負う相手は、心から信用し、仲間とも家族とも思える相手だけと決めていたのだ。そうでなければ命を賭けることができない。
月が中天に上がる頃、眠っていた自分とロン・ロンの横で、アーティカが身支度を整えて出ていく気配を感じたフェイは、これを捕らえた。身を捩って逃れようとするアーティカは、一人で行く、と、大粒の涙をこぼしながら叫んだ。
起き出したロン・ロンはしばらく様子を眺めていたが、黙って出立の支度をはじめた。彼女を伴うなら夜のうちがいい、という彼に、フェイはちきしょうと呟いたのだ。
それは、彼なりの承諾の言葉だった。
ササーンとローマの軍勢を避けるため、大きく北に迂回する経路を取ることに決めた。半月ほど行程が伸び、途中の食料の確保も厳しくなるが、やむを得なかった。
出発してしばらくはアーティカはなにも語らず、時折り、泣いた。荷台で背を丸め、膝を抱えて、泣いた。干した肉を齧りながら、なんども鼻を啜り上げた。
それでも七日が過ぎる頃にはぽつりぽつりと語るようになった。
母はローマの地方代官の娘であること、当時ローマとの関係改善を探っていたアルサケス王アルタバノス四世と、そのローマ遠征のおりに運命のように巡り合い、パルティアに移って自分を産んだこと、だが王宮内の争いにより立場が危うくなり、おととし母は一時的にローマに戻されたこと。
ササーン家の叛乱鎮圧の陣に臨む際、父、アルタバノス四世は髪を落とし、路銀と手紙と共にアーティカに託した。
自分になにかあれば野を走れ。走って、ローマに向かえ。王の死後、国は荒れるだろう。間隙をつくローマの侵略で滅ぶやもしれない。それを止められるのは、ローマの中心に繋がっているのは、お前の母さまだけだ。
最後に娘を抱きしめ、父王は、蒼薔薇の娘よ、と呟いて額に唇を落としたという。
「……行ったって、母ちゃんに会えるかはわからねえぜ。俺たちもそこまではしてやれねえ」
「いい。あとは自分でなんとかする」
「なんとかったってよ」
「なんとかする」
なんども繰り返した問答をまた再現して、今回もアーティカは押し黙った。
フェイは頭を掻き、肩に乗った栗色の髪をしごいた。厄介だ、という意思の表明である。
と、そのとき。
荷台でどさりと鈍い音がした。
「おい、どうした」
フェイが声をかけるが、返答がない。
御者台の二人が振り返ると、ロン・ロンは座ったままの姿勢で横に倒れていた。
アーティカが身軽に荷台に移動し、ロン・ロンの首に手をあて、目を覗き込む。
「いけない。身体が冷たい」
「なんだと」
いったん馬を止め、フェイも荷台に上がる。ロン・ロンは意識を失っていた。顔は土色。脈が遅い。手も首も、氷のように冷たい。
高い発熱と身体の痛みをもたらす、よくある流行り病だが、発熱のあとで急に身体が冷えるのは危険な兆候だった。
温める必要があるが、急ぎ医者に見せなければならない。ここに留まって火を起こしている余裕はない。
「ちきしょう。近くの街に走る。急ぐぞ」
フェイは御者台に飛び乗り、馬に鞭を入れて走らせた。アーティカは荷台に残り、ロン・ロンの胸に手を当てている。荷台が砂利道で大きく揺れる。
ありったけの毛布をロン・ロンに巻きつけ、アーティカは身体をさすり続けた。が、呼吸が薄くなってきていることに気がつく。
「フェイ。冷えが止まらない」
「くそっ。荷台で火を焚くわけにもいかねえ。アーティカ、頼む、さすってやっててくれ」
「わかってる」
激しく揺れる荷台でロン・ロンの身体に手を当て続けるアーティカ。しばらくそうしていたが、ロン・ロンの口に顔を近づけ、首に手をあて、眉を顰めた。口を引き結んで、俯き、なにかをじっと考えている。
やがて決意したように頭を振り、彼女はロン・ロンの毛布を勢いよく取り払った。そのまま相手の上着に手をかけ、脱がしていく。
「おい、なにしてんだよ」
フェイは後ろの気配に気づき、振り返って声を上げた。が、アーティカは構わず手を動かし、とうとうロン・ロンの上半身を裸に剥いてしまった。
そうして、自分の外衣も落とした。複雑な紋様が刺繍された一枚着が現れる。これも身動きしながら、脱ぎ去った。
滑らかな白い肌。細身だが、しかるべき箇所は健全に発達をした裸身を、アーティカは荷台の上で晒している。
フェイは振り返ったまま、その驚くべき光景にあんぐりと口を開けた。
「……なにやってんだ、あんた……」
アーティカは胸をかばいながらフェイに振り向き、あっち向け、としかめ面をしてみせた。少し迷ってからロン・ロンの裸の上半身にぴったりと寄り添い、その状態で脱いだ衣服と毛布をふたりの身体に巻きつけた。
彼女の考えを悟ったフェイは、ぼうと開いていた口を閉じ、目を見張った。
アーティカは自分の体温でロン・ロンを温めようとしているのだ。
フェイは、動けない。目を離せない。
が、息を大きくひとつ吐き、首を振って、きっと前を睨んだ。引き結んだ唇をわずかに震えさせながら、馬に鞭をくれてさらに加速した。
そのまま
気安く声をかけてきた町のものに、医者の在処を訊き、駆けつける。フェイが手を引いて馬車まで走らせた初老の医者は、荷台の毛布の山がもぞりと動き、なかから裸の女が現れたから仰天した。
ロン・ロンの処置は間に合った。医者の薬にがほっとむせて、意識を戻した。
戻って最初に述べた言葉は、アーティカちゃん、でっけえわ、であった。
病人の頭をひっぱたくアーティカに、医者は、身体を温め続けたのがよかった、そうでなければ手遅れになっていた、と彼女の判断を褒めたのである。
「……やるじゃねえか」
フェイが声をかけると、アーティカは頬をあからめた。今更ながらに咄嗟の行動が恥ずかしくなったのか、褒められて照れているのかは判断がつかない。
町に宿を取ることになった。
馬を繋ぎ、荷物を整理してから、フェイは食事に出た。が、アーティカに見つかり、ついで寝ていたはずのロン・ロンまでも起き上がってついてきた。
「おまえ、大丈夫なのかよ」
「へへ。楽になったら、腹、減っちまって」
「お酒はダメだよ」
「や、ちょおっと身体、あっためた方がいい気がするなあ。それともアーティカちゃん、またあっため……」
最後まで言い終われずにアーティカに後頭部を叩かれたロン・ロンは、ほんとうに頭痛がするらしく顔を顰めた。ごめん、と慌てるアーティカと、ひどく苦しむふりをして彼女を揶揄うロン・ロン。
フェイは歩きながら呆れたように二人を見やって、それでも東の星が煌めきはじめた夜空を見上げ、ひとつおおきな息を吐いて目元を緩めた。
店に入ると馴染みの顔が並んでいた。いずれも上品とはいえない風体の男女だが、それはこちらも同様であった。よお、と互いに手を上げ、席につく。
なにも言わなくても杯が運ばれる。ふたつの酒とひとつの茶だ。ロン・ロンが酒に伸ばした手を叩き、アーティカは彼に茶を握らせた。湯気の上がる料理が運ばれる。客たちがフェイとロン・ロンの肩を叩きに来る。道中のはなしを町の皆に聞かせるフェイ。肉ばかり食おうとするロン・ロン、諌めるアーティカ。
賑やかでおだやかな時間が流れた。
そのときだ。
「全員、動くな!」
激しい音とともに扉が蹴りあけられた。剣を持った男たちが走り込み、卓に座っていた客たちに剣先を向けた。いずれも鉄の兜を被っている。
盗賊、ごろつきの類ではない。整った装備。胸元には紋章をつけている。
その紋章の意味は、フェイにも理解できた。
ち、と舌打ちをする。
「なんだいあんたら。うちはお天道さまに顔向けできない商売はしてないよ。店、間違えてんじゃないのかい。え、ササーン家の旦那さまがた」
店の奥から出てきた
が、兜に赤い羽根をつけた上官らしき男は彼女を無視してその横を歩き、店の奥の席をとっていたフェイたち一行の前に立った。
男はアーティカの顔を検分していたようだったが、ふん、と鼻を鳴らして声を出した。
「ずいぶん探しましたよ。怪しい三人組が北の街道を進んでいると通報がありましてね、先回りして張っていました」
アーティカは歯を食いしばるような表情で横を向き、黙っている。
ロン・ロンはちらとそちらを見てから、おもむろに立ち上がった。
「あれれ、なんか人違いされてませんかねえ。これ、俺の
砕けた様子で男に話しかけたロン・ロンの腹に、横にいたササーンの兵の拳がめり込んだ。ぐ、という声と共に腹の中身を吐き出して、ロン・ロンは膝から崩れた。
だん、と立ち上がったフェイの喉に、上官の剣先が食い込む。先端が刺さり、血が滲む。
「誰が動いていいと言った、ゴミが。この女が誰か知って
「……な」
「なに」
「やけに朝が来るのが
剣が横に払われて喉が薄く裂けた。同時に腹を蹴り上げられ、フェイは身体ひとつぶん飛ばされた。
アーティカが叫ぶ。その腕を横にいた兵士ふたりが左右から取る。
「やめて! その人たちは関係ない! わたしが巻き込んだんだ!」
「巻き込んだ……どういうことですかな。こいつらはアルサケスの傭兵かなにかですか。あの醜悪な先王、このようなごろつきまで使っていたとは」
「その人たちは荷運びだ、わたしが頼んだ。ただの……ただの、荷運び人だ。わたしとは、アルサケスとはなんの関係もない。手を出すな」
と、上官はぴくりと口角を持ち上げ、顎に指を運んだ。嫌らしく表情を歪める。
「ふん、なるほど、情が移っている。このクズどもとすでに男女のことになっているというわけですな。哀れなものだ、亡国の姫というものは」
アーティカは腕を取られたまま、きっ、と正面の上官を睨んだ。眉を逆立て、目を見開き、なにかを叫ぼうとしたが、口を閉じた。ぽろぽろと大粒の涙がその切れ長の目尻からこぼれ落ちた。
と、そのとき。
「……なあ、フェイ、ロン・ロン。さっきからそこの野郎が好き勝手、言ってくれてるけどよお」
入り口ちかくの席に座っていた大柄な男が声を出した。横の兵士がぐいと剣を突きつけるが、そちらに目もくれない。手に持ったままだった大きな杯をぐいと飲み干して、だんと卓に置いた。
「そこの女、結局、あんたらの何なんだ。ただの客か」
アーティカはその男の言葉に息を呑み、横で身を起こしたフェイに顔を振り向けた。だが、フェイが俯いているのを見て、ゆっくりと目を伏せ、閉じた。小さく息を吐く。すべてを諦めたような表情をつくる。
連れて行け、と上官に告げるために再び顔を上げた。
と。
「……馬鹿野郎。そこの女、なんて気安く呼ぶんじゃねえ」
フェイはぐいと血のついた口元を拭いながら、それでも不敵に笑った。
「仲間だ。こいつは、俺の……家族だ」
「そうか」
声を発した男は、げえふ、と息を吐いて腹を叩き、ゆっくりと立ち上がった。剣がさらに強く突きつけられる。
が、次の瞬間、兵士は床に転がっていた。その腕をだんと踏み、剣を取り上げ、大柄な男はとんとんと剣柄で肩を叩いた。
「おめえの家族なら、俺たちにも家族だ。そうだろ、みんな」
その言葉を合図に、全員が立ち上がった。
兵士たちは反応するまでもなく腕を掴まれ、蹴り上げられ、締め上げられる。取っ組み合いになり、卓が倒れ、杯が飛ぶ。女将までも鍋を振り回している。
上官には複数の男が組みつき、引き倒して兜を脱がせ、頬を何度も張った。上官は鶏に似た甲高い悲鳴をあげて昏倒した。
喧騒のなかで大柄な男はフェイに、行け、と叫んで片目を瞑った。
フェイは腹を押さえているロン・ロンを助け起こし、床にへたり込んだアーティカに手を差し出した。
アーティカは動けずにいる。
暖かい液体が頬を流れるのを止められないでいる。
呆然と見上げる彼女に、フェイは眉尻を下げ、苦笑いを浮かべてみせた。
「おらよ。いくぜ、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます