パルティアの遺花 〜ごろつき隊商と蒼薔薇の女〜
壱単位
前編 やべえ女、拾っちまった。
先に気づいたのはロン・ロンだった。
「ねえ兄貴。あの女、ヤバいっすよ」
酒場、といっても天井がない。
自然石を積み重ねた壁に、雑に低木が葺かれた屋根ともいえない屋根があるきりの店だ。厨房だけはレンガ積みで、その奥で大将が忙しく立ち働いている。
なだらかに起伏が描かれる稜線に、もう陽が隠れつつある。
その女は、厨房の横の奥まった席、この店の常連たちがたむろしているあたりに座っていた。自ら進んでその席を選んだのではないはずだ。彼女を囲んでいるのは人相の悪い大男ばかり。フェイやロン・ロンもごろつきの枠には入るようなものだが、それでもあまり関わり合いになりたくない手合いである。
「あれ、サマ、仕掛けられてませんかね」
フェイはロン・ロンと差し向かいで店の端の席で飲んでいたのだ。質の悪い酒を三杯ほど干したあたりで、フェイの肩越しに店の奥を見やりながらロン・ロンは小声を出した。
女、といっても、薄汚れたフードを目深に被り、表情は窺えない。小柄であること、時折り厚ぼったい外衣の裾から覗く手首が細く白いことから女だろうと見当をつけたまでである。
彼女は小さな札を何枚か卓に並べている。向かいに座った下卑た男も同様だ。なんらかの賭け事をしているらしい。が、ロン・ロンは、男たちがサマ、つまりイカサマを女に仕掛けているというのだ。
「ほっとけよ。商売女が小銭を増やそうって魂胆なんだろよ」
フェイは振り向くこともなく、引き結んで肩に流してある栗毛を左手でしごきながら答えた。めんどくさい、と感じた時の彼の癖なのである。同じ色の太い眉の尻を下げている。
「いや、あれ、地元の女じゃないっすね」
「なんでそんなこと言えるんだよ」
「だって俺、この町の女、全員知ってますもん。ようく、ね」
フェイはしかめ面をし、にひひと嫌らしい笑みを浮かべる相棒を睨んだ。
ロン・ロンは今年二十二になる。フェイより三つ年下だが、細身の長身と端正な顔立ちを武器にその道での経験を積み重ねてきたのだ。商売のつど立ち寄る町では常にフェイより先に女たちに囲まれた。
二人きりの隊商とはいえ、隊長は俺なんだがなあ、とフェイはよくぼやくのだ。
「それに、あれ。たぶんどこぞのお嬢さまですよ」
「……それも長年の経験からくる判断か」
「や、違います。ちらっと見えたんですよ、足首。刺青があった」
フェイはふんと鼻を鳴らした。
足首の刺青は、ここから少し南方の帝都、クテシフォンのあたりで流行していた。豪族や金持ちの娘たちが、想いびとと結ばれるようにと唐草を入れ、叶えば百合や薔薇といった花を足すのである。
「なんでそんな女がひとりでこんなとこ来るんだよ。見間違えじゃねえのか」
「間違いないっすよ。あの女が店はいってきたときからずっと足、見てますし」
「……おまえ、キモいな」
言いながら、それでもフェイは肩越しに振り向いた。うげ、というような声を出して元に戻る。眉根を寄せ、首を振る。
「ご愁傷さまだな。ありゃテルワ一家の
「助けねえんですかい?」
「てめえでやれよ。俺は貴族と金持ちが嫌いだ。知ってんだろ」
と、ばん、という音。女の向かいの男が立ち上がっている。腕をまくって息巻いている。おそらく女がイカサマを指摘したのだろう。
「ほらほら」
ロン・ロンがなぜか楽しげに目を弓形にしながら、フェイの背の向こうを小さく指差す。
フェイは知らぬふりを決め込んで杯を傾け続けたが、背中の言い合う声がだんだん大きくなり、ついに女の悲鳴が聞こえるに至って、大きなため息をついて立ち上がった。店の奥へ歩み寄る。
女と、向かいのいかにも粗野な大柄の男が同時にフェイに振り向いた。フェイの横にある松明の灯りを受け、女の深い紫の瞳がフードの下で煌めいた。
「よお、兄弟。どうしたい。荒れてんじゃねえか」
「なんだ、フェイか」
「色男がまた、女を泣かせてんのか」
身構えていた男はフェイの軽口に肩の力を抜いた。
「そんなんじゃねえ。この女よ、俺の手札に文句つけやがんのよ。サマじゃねえかってな」
「イカサマだ!」
女が鋭い声を出した。思ったよりも若い。二十になっていないだろうとフェイは見当をつけた。発音が帝都なまりだ。ロン・ロンの見込んだとおりらしい。
「なんだとこら、アヤつけやがったらただじゃおかねえぞ」
「わたしの背に立っている男たちが足音で合図していた。手札を動かすたびに身動きしてた。そんな安い仕掛け、わたしには通じない」
「てめえ……」
「まあまあまあ、兄弟。こいつね、町のもんじゃねえよ。どうやら都の偉いさんの
二人はふたたび同時にフェイに顔を振り向けた。女がなにか言おうとしたが、フェイはわずかに目配せしてみせた。通じたらしく、女は口を引き結んだ。
男はフェイの言葉に眉を顰める。思考の回転がそう早くはないこの男はフェイのいうことを理解できていないのだ。
「だったら、どうした」
「やべえって。
「……埋めちまえばバレやしねえ」
こいつは、と呆れながらもフェイは笑顔を浮かべ、相手に寄って肩を組んだ。女に背を向け、ひそひそ声を出す。
「ああ、あんたに手向かう馬鹿は埋めちまうのがいい。だがな、もうちょっとマブい手がある」
「なんだ」
「俺が買うよ。あの女」
「……いくらだ」
「これくらいでどうだ」
右手をぐっと握って相手の目の前に差し出す。意味がとれずに眺めている男の顔に、フェイはそのこぶしを思い切り叩きつけた。男はテーブルに背を打ちつけ、転がって意識を失った。
フェイは即座にかがみ込み、足元の砂を握って、周囲の手下たちの顔にぶつけた。顔を覆って苦しむ男たち。
「ひゃっほう!」
向こうの席でロン・ロンが嬉しそうに叫んだ。こうなることを予期していたのだろう。すでにまとめた荷物を背負って立ち上がっている。
フェイは女の手を引いて地面を蹴った。女はわずかに手を引いて抵抗しようとしたが、引きずられるように足を出し、走った。
二人を走りながら振り返り、ロン・ロンは親指を突き上げてみせた。
「あっはっは、最高! やっぱ兄貴はこうじゃなきゃ」
「……これで三年はこの町、戻ってこられねえじゃねえか」
「いいじゃないすか、どうせもう次の町、行く時期だったし」
三人はしばらく走り、フェイたちの馬と馬車、荷物が隠してある町はずれの小屋までたどり着いた。追手はかからなかった。それでもフェイは注意深く周囲を確認し、二人を招じ入れると、ごろんと大の字に寝転んだ。ロン・ロンも習う。
女も膝に手をついて荒い息を吐いている。頭を覆っていたフードはすでに背に落ち、色の薄い金髪が窓から差し込む残照に輝いている。
「……なあ、あんた。なんであんな奴らと賭け事する羽目になったんだよ」
天井を見ながら言うフェイに、女は額の髪をかきあげながら肩をすくめてみせた。
「……わからない。荷運びを頼んだら、賭けに勝ったら請け負ってやる、って言われたから」
「荷運び? なんであんなチンピラに荷運びなんざ頼もうとした」
「町で教えてもらった。金でなんでも請け負うひとたちだって。なんでもやるなら荷運びも頼めるかなって」
「……なんでも請け負う、の意味が違うな。あんた、いったいどこのもんだ。その様子じゃあ、ほんとにものを知らないお嬢さまなんじゃねえのか」
フェイは相手が反論するのを待ったが、言葉が降ってこないので顔を振り向けた。女は唇を噛み締め、俯いている。
ロン・ロンが慌てたように身を起こした。
「まあまあ、いいじゃねえですか。正体なんざなんだって」
「お嬢さまって、おまえがいったんじゃねえか」
「そうでしたっけ? ねえ、あんた。荷運びって、なにをどこまで運ぶの。俺らさ、二人きりだけど隊商なんだよ。で、そろそろ東の国、行くんだよね。良かったら途中まで一緒に……」
「……ローマ」
「えっ」
「ローマに行く。荷物はわたし」
フェイとロン・ロンは寝転びながら顔を見合わせた。
ローマはこの地から四ヶ月ほどの距離だ。遠いことも遠い。が、いま二人が見合わせたのは異なる理由によるのだが、女にはもちろん伝わらない。
慌てたように懐のあたりを押さえてみせる。
「お、お金なら、ある。決まりの倍、払ってもいい。三倍でも構わない」
フェイは半身を起こし、落ち着けというように手のひらを振ってみせた。
「あんたさ、いまこの国……パルティアがどうなってるか、わかって言ってる……?」
子供にいうような口調で問うと、女は眉を逆立て、フェイを睨んだ。が、すぐに悲しげに目を伏せる。
「……王は……アルサケス王は、前の月、滅んだ。ササーン家の叛乱で。王位を盗んだ偽の王、アルデシールはローマとも戦端を開こうとしている。都から西はローマの先遣隊とササーンの軍勢が睨み合って、互いに動けない。知らずに陣営に近寄ったら平民でも殺されると聞く」
偽の王、というところで女は語気を強め、男二人は再び目を見合わせた。
「わかってんじゃねえか。三倍払っても誰も引き受けなかったんだろう? それが答えだよ。国境は越えられねえ」
「ねえ、それだけ知ってるのに、なんで今、ローマなんか行きたいの? 戦が落ち着いてから改めて考えてみたら?」
交互に声をかける男たちに、女は強い目を向けた。
「……母に会う」
「え」
「母に、渡さなければならないものがある」
フェイは起こしていた半身をどさっと床に落とした。頭の後ろで手を組んで、目を瞑ってしまった。
「やめときな。あんたの里帰りなのか、里に戻った母ちゃんに会いたいのか知らねえが、急ぎの用事とも思えねえ。いま無理に行くことじゃねえよ」
「……いまでなければ、駄目、なの」
「なんでだよ。母ちゃん、急病なのか?」
「……そうじゃない」
「じゃあやめとけ。来年になれば少しは状況が変わるだろ。それから親父さんとでも相談して、ゆっくり……」
「父は、殺された!」
叫んで、女は懐に手を突っ込み、なにかを引き抜いた。薄闇にも目元が濡れているのが見えている。
手に掴んだものをぐい、と前に突き出した。布に包まれた、繊維のようなもの。
「父の……遺髪と、手紙。これを母に、母に渡せって……そして戦を止めさせろって、それが……父の、遺言」
「……あんたの……親父さん、って……」
ロン・ロンが気圧されたように声を出すと、女はすんと鼻をすすり、ぐいと外衣を落とした。肩の一部が露出する。
薔薇の花。蒼い薔薇が、小さく彼女の肩に咲いていた。
「……わたしの名前、あんた、じゃない。アーティカ……アーティカ・イル・アルサケス。父はアルタバノス四世、薔薇の王、太陽の子だ!」
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