公演の前に

 公演前になり、私はパトロンたちを集めたサロンを開催する。

 今回の舞台のためにもたくさん広告を出した関係で、この手のサロンでパトロンたちをねぎらうのは仕様であった。

 食事を並べ、酒を用意し、ホステスとして周りと談笑して回る。私はずっと主催として話をして回っているせいで、食事はほぼ取れてなく、お腹に力を入れて鳴らないように心がけないといけなかった。

 その中、サロンの会場の端に嗅ぎ慣れたオーデコロンの匂いに気付き、顔を上げた。


「ウィル……」

「やあヴィナ。ようやく来られたよ」

「ええお疲れ様。ずっと商店のリカバリーに走り回っていたんでしょう?」


 私はねぎらいも込めて、シャンパンを用意しようとしたものの、ウィルフレッドはそれを手で押し留めた。


「今日は酒を入れたくないから、できればノンアルコールのものを出してくれないかい?」


 酒を入れたくないってことは、よっぽど疲れているかお腹が空き過ぎているんだろう。私は悩んだ末、無糖の炭酸水を汲んできて差し出すと、それを一気飲みしてしまった。私はついでにきゅうりのサンドイッチを差し出すと、それを無心で食べはじめる。本当にお腹が空いていたのだろう。

 ウィルフレッドは新聞に書き立てられたゴシップを埋めるために、各方面に奔走していた。危うくうちの不仲説までぶち上げられそうになったのだから、それはそれはもう、あちこちに駆けずり回らなかったら商売に支障が出るからだろう。

 この間の記者を招き入れての通し稽古のおかげか、私とセシルの不仲説や、私の悪妻報道は出ることがなかった。私たちの仲を書くよりも舞台のことを書き立てたほうがよかったらしく、そちらのほうを書かれることとなった。

 もっとも、ここでウィルフレッドが動き回らないといけなかったのは、新聞が書き立てたゴシップはうちの公演を宣伝するためのヤラセじゃないかと疑われるので、そんなことはないとフォローを入れないといけなかった。

 こうして駆けずり回っていたのに、事業自体は滞りないんだから、本当にこの人は口こそ軽薄なものの、仕事のできる人だわとしみじみと思う。

 私がサンドイッチを進めている中、もうちょっとカロリーのあるものはないかと探していたら、ウィルフレッドが言う。


「ヴィナ、公演がはじまったら、帰りが遅くなるだろう?」

「まあそうね。ちゃんと家には帰るつもりだけれど」

「そうだね……サロンはいつまで?」

「今日は速めに切り上げるつもりよ。それで?」

「君は私にカロリーをあげたがっているみたいだけどね。先に君が欲しい」


 私は思わず目を剥いた。こんなところでなにを言っているのか。ただ、まあ。ウィルフレッドが疲れているのを見ていたら、せめてもの労りくらいはあげたい。

 私は溜息をついた。


「切り上げてからにしてちょうだい。あとちゃんと食事は摂って。あなたもだけれど、私も体に悪いから。舞台でガリガリ削られるのに、食べない訳にはいかないでしょ」

「心配かけて悪いね」

「まあね。まあ……」


 この人は弱音を吐かない上に、私に好きのひと言も格好付けて言えない人だとわかっていると、聞き出さないことにはどうしようもないだろう。

 私は給仕として、彼にサンドイッチ以外にチーズやらプディングやらを食べさせ、他のパトロンたちがいい具合になって帰っていったのを見送ってから、家に帰ることにした。

 クレアにレモンバームティーをいただき、それを飲んで気分をさっぱりとさせてから部屋に向かう。

 ウィルフレッドはシャツを緩めながら「はあ……」と息をしているので、隣に座った。


「お疲れ様。なんだかずいぶんとくたびれたみたいね」

「君はすごいねヴィナ。あれこれと周りがうるさかったのに」

「いいえ。私は公演の心配さえなければどっちでも。スキャンダルで好き勝手書き連ねられても、公演に影響がなかったらどうってことはないのよ。女優だもの、それも込みでの仕事だわ」

「本当に……君は強いよ。私はもう、今回ばかりはくたびれた」

「そう? でもあなたがそこまで走り回っていたのってなに? セシルのこと? あの子が男だとバレたってことは……」

「それはない。もしバレていたら、今頃ディーンが危機として記事を上げて号外でうちの商会も君の劇団も沈めにかかっていたさ」

「……そうね、あれは新聞を売るためだったら義理立てなんて全部捨てるから」


 あれの人間性は全く信用していないため、私たちは頷く。ウィルフレッドは私をぐったりとしたように抱き締めてくるので、私はとりあえず彼の背中に手を回した。


「……君を悪妻として、浪費家のように書き連ねられるのに我慢ならなくなった」

「浪費家だったらよかったのにね。実際はカツカツで劇団回しているんだもの。あなたと結婚するまで、お金に自由したことなんてないわ」

「そうだよ。だから我慢ならなくなった……なんとか全部揉み消した。褒めてくれないかい?」


 そう力なく言ってから、私をベッドに押し倒してきた。

 なんというか、商会をもう少しで潰されることよりも私のほうを心配するなんて。この人も相当にあれね。


「本当に、あなたは私のことが好きね」

「……そりゃね、愛してる」

「はいはい。私もあなたのそんなところ、愛していますよ」


 そう言った途端、ウィルフレッドは顔を真っ赤にして、こちらを見下ろしてきた。この人、どこまでも自信がないな。


「ヴィナ……もう一度言ってくれないかい?」

「愛してますよ」

「もう一度」

「愛してる」


 その夜は、さんざん同じ言葉を繰り返す羽目になった。声が出ないと困るのだからと、私は彼の背中に爪を立てるまで、さんざん言わされたのだから、この人は本当にもうしょうがない。


****


 次の日、クレアはドライフルーツのハチミツ漬けをお湯に溶かして用意してくれた。喉に優しい。その上食事はパンケーキをたっぷりと焼いてくれ、ベーコンとハーブもたくさん添えてくれた。

 私がそれらをたっぷりと食べている中、「おはよう」とセシルが寄ってきた。


「いよいよ公演だね。楽しみにしているから」

「セシル……ええ、わかってる。本当にここまで来られてよかった。頑張るから」

「あとウィルとのだけど」


 そう言われて、私はパンケーキを突き刺したフォークをガッチンと噛んだ。痛い。

 でもセシルはからかう気もなく続ける。


「ウィルは甘えると際限かないから、甘やかし過ぎなくってもいいよ。ヴィナはウィルに好かれてる自覚全くなかったから、負い目があるのかもしれないけど」

「……あなたもどうしてそこまで耳年増なの」

「耳年増ってこともないけど。ウィルは程よく甘やかして程よく突き放したほうがいいよ。ヴィナの舞台に影響したら悪いから」

「……セシル、朝から私の前でそういう会話はやめてくれないかい?」


 パンケーキを同じくたっぷり食べていたウィルフレッドは、気のせいか昨日はくたびれていたのにも関わらず、今日は艶々していた。昨日私がさんざん甘やかした影響だろうけど。それでいいのかと、私は甘ったるいはちみつ湯を飲みながら、息を吐いた。

 私はウィルフレッドと目を合わせると、彼は嬉しそうに目を細める。それに私もにこりと笑った。私は結婚した相手に恋をしているのかはわからないけれど、彼といると少しだけ力がもらえる。昨日は彼を労りさんざん甘やかしたように見えるかもしれないけれど、労られて甘やかされたのは私だったようにも思える。

 今日はそのもらった英気を使って、公演を成功させないとと、朝ご飯を早速全て平らげた。

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