トリークルタルトと正室の事情
ひとまず私はウィルフレッドに宛がわれた部屋を見に行くことにした。
正妻であるセシルは、二階の一番奥の部屋にいる。私はその反対に二階の一番手前の部屋を宛がわれたようだ。
部屋に入ってみると、私がずっと暮らしていたアパートメントよりは当然ながら広い。ベッドに机、本棚、三時のおやつ用のテーブルに椅子が三脚……どうして三脚なのかしら。私の服や靴を置いておくクローゼットも備わっており、なにげなくクローゼットを開けて、思わず「げっ」と声を上げた。
ウィルフレッドは親切のつもりで、私の服を用意してくれたんだろうけれど。
「……これ、没落貴族の売り払ったもの買ってきたわね」
ウィルフレッドは服のセンスが悪かったのか、はたまた輸入業をしている関係で外向きにしか情報が入手できないから王都の流行には鈍感だったのか、ひと昔前の流行りの服ばかりだった。
これは……でも服がもったいないし、どうせ古着だったら、うちの劇団の衣装にしてしまってもいいかもしれない。私は未だにアパートメントの荷物を全部引き上げてないから、服が充実するのはもう少しかかるだろ。
そう思ってクローゼットを閉じたところで、トントンと扉が叩かれた。
「はい?」
「僕だけれど」
「セシル?」
あらまあ。どうもセシルはほぼほぼ身売り同然でウィルフレッドの正妻入りしたし、私のせいでセシルのお姉様は家出したんだから、当然ながら嫌われていると思っていた。
私もこれから社交界にセシルの代わりに出る以上、できる限り仲良くしたくはあるのだけれど。
セシルはネグリジェ姿で、ペタペタとスリッパの音を立てながら、私の部屋に入ってきたのだ。
「さっきのあれ、なに?」
「ないって……パパラッチのこと?」
「窓からずっと見てたよ。あいつ、油断も隙もなく、僕の部屋まで写真を撮ろうとしてたんだからさ。クレアが全部塞き止めてくれたから、写真を撮られることはなかったけど」
「あら……それはごめんなさい」
ディーンは王都一の嫌われ者の新聞記者だ。当然ながら私の側室行きと一緒に、正妻のことも調べようとするだろう。
セシルに対してはいろいろとこちらも罪悪感がある手前、それを言われると強くは出られない。それにセシルは「ふん」と鼻息を立てた。
「まあ、いいよ。ウィルといい君といい、僕のこと、そこそこ丁重に扱う気はあるみたいだしさ」
「その……あなたはウィルの正妻に治まってていいの? やりたいこととか……」
「……正直、貧乏貴族がなにやったところで、あんまりいいことないと思うよ」
セシルはずいぶんと黄昏れていた。
「お父様もお母様も、基本的に体面ばかり気にしていて、領地経営も社交界での活動もガタガタだったからね。だから悲観した姉さんは家出したし、僕は売られたんだ」
「セシル……」
なんと言ったらいいのかわからなかった。彼からしてみれば、駄目な親の子だから自分も駄目だと思っているようにも見えるし、なによりも自尊心がゴリッゴリに削られてしまっている。そんな相手に「勉強すればなんにだってなれるのよ」なんて安易な慰めは、返って彼の自尊心を余計削ぎ落としかねない。
どうしたものか。そう思っていたときだった。
「失礼します。お待たせしました、トリークルタルトです」
「あら! ありがとう!」
クレアがカートに載せてトリークルタルトを持ってきてくれた。焼きたてなのだろう。レモンの香りがプンと漂っておいしそう。そして彼女は紅茶もポットにたっぷりと持ってきてくれていた。
私はひとまずテーブルに移動すると、椅子をパシパシと叩いた。
「とりあえず、お茶にしましょう。いらっしゃい」
「……これなに?」
セシルは怪訝な顔でトリークルタルトを見つめていた。
タルト生地のフィリングが硬くなったパンをすり降ろしてつくられたものなのだから、見栄っ張りの貴族の家だったら知らないかもしれない。私は「トリークルタルトよ」と言いながら、ひと切れ皿に乗せてあげ、紅茶と一緒に差し出した。
そして私はひと切れ、手掴みで食べはじめる。それを見て、セシルは顔をしかめた。
「なに考えてるの?」
「気に食わないことが続いているとき、理不尽だって思うことが多いとき、私はこれを食べて元気を出すの。ものすっごく甘いから、甘いものを食べていると怒りと活力が湧いてくるじゃない?」
「……怒りってなに? 活力はわかるけど」
トリークルタルトはひたすら甘く、手掴みで食べると手が糖蜜でベトベトになる。私はベトベトになった指先をペロペロ舐めながら、紅茶を一気飲みした。
サロンでは当然しない。劇団員の前でなければ、紫のバラを演じているときでなければ、品がないとわかっている仕草はしない。
セシルはそれを茫然と見ていた。
品がなくって下品でも、娼婦と勘違いされる女優であっても、それでも王都で身を売ることなく舞台の上に立ち続けられたのは、私の沸々と湧く怒りと活力のおかげだ。
「世の中にはね、怒りをそのまんま活力に変換できる人間がいるのよ」
「……怒りが、活力……?」
「ええ。私は付き人に裏切られたし、こうして訳のわからない豪商に今まで売ったことのない身を売ってまで、借金をなんとかしたわ。それって、理不尽と呼ばずになんと呼ぶのかしら」
セシルはそれを黙って見ていた。
彼は本当に美しいのだ。深窓の令嬢と呼ばれるほどに、ネグリジェすら、妖精の纏っているドレスのようにしか見えないのだから。
でも。それは期間限定だろう。男の子だもの。いずれは髭が生えるし、背が伸び肉が付いたら、女物のネグリジェなんて着られなくなる。
今はウィルフレッドが庇い立てできるだろうけれど、それがいつまでかはわからないのだから。
私は「だから」と言う。
「あなただって、悲観するよりももっと怒っていいと思うのよ……まあ、優し過ぎる人や体の弱い人には、怒りを活力に変えろなんて言えないけどね。体を本当に壊してしまって、文字通り怒りで身を滅ぼしてしまうから」
「……僕は別に、体は弱くないよ」
「そう。なら召し上がれ」
途端にセシルは、フォークも使わずにトリークルタルトを手掴みで取ると、それをむしゃりと食べた。後引く甘さであり、そのあとに飲む紅茶は格別だ。
手をベトベトにさせ、それをペロペロと舐める仕草は、なにやらやましいものを見ているようで、私は思わず目を背けた。
彼の抱えている理不尽を、私は全て理解できた訳ではないけれど。それでも、一緒に暮らしていくのだもの、少しは仲良くしたい。
私はそう思いながら、彼が手を舐め終えて紅茶をゴクゴクと飲むのを見守っていた。下品なことを教えるなとウィルフレッドは言うのか、はたまた正妻が元気になったと喜ぶのか、私にはよくわからなかった。
****
その日の夜、クレアに呼ばれて食卓に並ぶと、それはそれは豪華なごちそうが並んでいた。普段だったらローストビーフなんて祭日以外では食べたことがないし、サラダに使われている瑞々しい野菜も、ピクルス以外の野菜を王都に来てからほぼ食べたことのない私にとっては新鮮だった。そしてパイ包み。手の込む料理なんてほぼほぼ食べたことのない私にとっては面白く、ついついがっつきそうになるのを堪える。
……さすがにウィルフレッドが見ている手前、ガサツな部分を見せて幻滅させ、離婚されるのも困るのだ。
「ヴィナ、もっと食べてくれてかまわないよ?」
「え、ええ……」
「それで、君との式だけれど」
「あら、するの? 側室が大っぴらに式を挙げるのなんて、あまり聞かないのだけれど」
正妻の場合は、家同士の取り組みがかかわっているため、形の上でも式は重要になってくるけれど。側室の場合は本当に家庭による。
自分の恋人を見せつけたい人は式を華々しく挙げるし、人も呼ぶ。でも愛人や恋人だって割り切っている場合や、そもそも正妻が子供を産める体じゃないとかの場合は、そんな表立って式なんて挙げない。
そもそも私の場合は、お金がなくってほぼ身売り同然の婚約なのだから、式を挙げるという発想がそもそもなかった。
しかし、ウィルフレッドはセシルのジト目を物ともせずにのたまう。
「だって、紫のバラの婚姻ドレスなんて、ものすごく見たよね? ねえ、見たくない?」
「僕はどっちでもー。ヴィナが決めればいいんじゃないの?」
セシルはジト目でウィルフレッドを見るのに、私はなんとなくこの家の力関係を思う。
私はどうしたものかと考える。
「私、パパラッチに追われているから」
「クレアが言ってたね。赤毛の新聞記者を追い返したと」
「……彼女本当に人形なんですよね? やたらと悪知恵を埋めるの上手いですけど」
「彼女をつくった人形師が腕利きなんだよ。で、パパラッチをどうしろと? 金を積んで海に沈める?」
……本当にできそうだから怖い。
でもディーンに対して全くいい印象はないものの、ウィルフレッドの財力を使ってまで消し去るのは違うと思う。
「そこまでする必要はないわ。ただ、彼に絶対にすっぱ抜かれないようにして。それが式をする条件」
「了解。それは手配しよう。で、君の婚姻ドレスはこちらで決めていいかな?」
それはもう、ウィルフレッドはワクワクした顔をするのに、この人本当に気持ち悪いなとげんなりする。
「あんたが着せたいものを着せてちょうだい」
ただ、こちらも養ってもらっている身だ。気持ち悪いとは思うものの、させたいようにさせておくことにした。
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