エルベット編 11,【別離】

エルベット編 11,【別離】



 神殿での儀式は、まず双子の成人の祝言があり、その後婿二人が王族冠を授けられたが、新たに御名が下りることはなかった。

 ライオルは、名を【イオル】と正式に変えた。

 元より、ライオルが名を変えたがっていたのは知っていた。丁鳩ていきゅうは魔国の名前ということで本名を捨てたが、ライオルは全く別の理由だ。

 礼竜らいりょうにその御名が下り、王族の間で【ライ】の愛称で呼ばれるようになった。ライオルの愛称もライだった。それを受けて、畏れ多いと改名を申し出たのだが……その時既に自我があるほど成長していた礼竜が止め、イオルの愛称で呼ぶことになっていた。

 イオルは、御名を受けず、丁鳩を前例に出して御名のみの扱いにして欲しいと言ったらしい。せめて御名を受けないことが、自分にできる精一杯の抵抗だったのだろう。

 もう一人――イザベルシアの婿は、他国出身で、神殿の管理下には入るが宗教は自国の信仰のままでやってきた。ごく親しい者が呼んでいた【ヨセア】を御名の代わりに使うそうだ。臣下は【ニコロイ殿下】と呼ぶ。

 自己紹介の際、丁鳩が名乗ったら、驚いたような顔をして凝視していた。理由は本人に落ち着いたら聞こうと思い、そのまま城で披露宴となり、翌朝――

「恐れ入ります。これはいったい何でしょうか?」

 朝食の席で国王と王婿おうせいの前に出したのは、新聞だ。新聞は入手可能なので取っているが……昨日の披露宴の主役でもない丁鳩がリディシアと踊っている最中の写絵が一番に出ている。無論、丁鳩を撮られている。

「この間、お忍びで城下に出た時のことが話題になってて、需要が高かったのよ。ほら、前にも言ったけど、帰国直後に病気の発表、あの女で、誕生日と婚約の時しか出てなかったでしょ?

 こんないい笑顔、それはこうなるわよ」

「……あくまで主役はアム様とアナ様ですが……」

「問題ないよ。二人にも確認したけど、大喜びで賛成してくれたよ」

 そう。王室が許可を出さないと記事は出ない。つまりは、周りが……。

「貴方、この程度で動揺してどうするの?

 次は貴方とリデが主役よ? もちろん、そういうことになるのよ?」

「……分かりました」

 所詮は国民の望むように生きるしかない。それを思い新聞を下げる。

 それで話は終わったかと食べ始めたら、

「まったく、キスシーンが欲しかったのに、しないんだから……」

「……いえ、したでしょう?」

 写絵にもその瞬間が映っている。

「あのね、頬に接吻なんて普通やるよね? 公務でも。

 そういう意味じゃないの、分かるよね?」

「……」

「ほら、そんな顔しないの。

 自分の披露宴では、どうせ何度もさせられるのよ?」

 ――久しぶりに毒が食べたいと思いつつ、食事を終えた。



◆◇◆◇◆



「失礼いたします。イオル殿下とニコロイ殿下がお見えですが……」

 剣を抱えて床に座っていいと許可が出たものの、結局は見やすい場所しか指定されなかった。それでも許可が出るだけありがたいのでぼんやりしていたら、家令に声をかけられる。

「分かった。通してくれ」

 今日は居間だったので、そのまま壁に剣を立てかける。何故か皆、怖がって触らないので、勝手にどこかに移動されることもない。

 イオル、ヨセアと向かい合ってソファに座ると、侍従が紅茶と菓子を出してくれる。

「挨拶が遅くなってすまない。色々落ち着かなくてな」

 水色の王族服のヨセアは、長い黒髪の美男子だ。魔力は感じるが、この様子では戦う能力はないだろう。

丁鳩ていきゅうさま、今、仕草からヨセアの強さを推し量ってたでしょ?」

 紅色の聖騎士装に、やたらと勲章をつけられたイオルが言う。

「……そんなことができるのか?」

 意外そうに驚くヨセアに、

「丁鳩さまが本気で暴れたら、近衛騎士団は壊滅しますよ?」

「誰も必要もないのにそんなことしない。誤解を招くようなことを言うな。

 ……それよりイオル、お前、かなり寝不足だな」

「ええ、もう……。

 アムがもう、すごくて、毎晩……」

 要は、夜伽か。やたらと人にくっついていたが、そういうことを好んだらしい。

「……まあ、王族でなかったら、魔国の娼館が悪客に使っていた睡眠薬でも使えばいいんだが……俺も今は入手できないし、相手が相手だけに使えないな」

「睡眠薬……?」

 ヨセアが興味を持った。

「ああ、まあ、眠らされたことが分かると客が減るから、娼婦を大事にしていた娼館だけだがな。多くは、利益を追求して娼婦を疲弊させて死なせていた。

 ……摘発しても手遅れな被害者が多かったな」

 ヨセアは紅茶を飲み、改めて丁鳩の顔をじっくり見て、

「……本当に、お前があの、【魔国の王太子】だったんだな……」

「……?」

 言わなくても知っているはずだが、どういうことだろう?

「いや、赤い目とか、身体的特徴は一致するが……初めて見た時は何かの間違いかと思ったんだ。魔国の噂は聞いていたが、それ以上に王太子が恐ろしいと……。

 視線だけで人を殺せるとか、捕らえた罪人を拷問と称して痛めつけたとか……」

「……」

「あ、すまない。悪い意味で言ったのではなくてだな。

 これほど穏やかな人間だとは思わなかったものだから……すまない、噂で判断して」

 ヨセアは、本気で自分の勘違いだと思ったようだが……

 ――概ね、事実だ。

「ところで、銀食器を使っているようだが……エルベットでは滅多にないと聞いたが、お前、大丈夫なのか? 何か危ない連中に狙われているのか?」

 勘違いを放っておくのは楽だが、それは信条に反する。なので、

「俺が毒を口にしないように、色々予防されててな……。

 実際、毒は効かないから口にしてもいいんだが、周りが嫌がるんだ。兄貴に散々心配かけたし……」

「……毒が効かない?」

「ああ、魔国で頻繁に毒が差し向けられて、無理矢理毒の効かない身体にした。……正直、危険な過程を経たから、誰にも勧めたいとは思わんが」

丁鳩ていきゅうさまってば、エルベットに帰ってきてから、毒が手に入らないから食べたいんですよ……」

 寝不足で疲れて口数の少ないイオルが口を挟んだ。

「いや、散々止められたからもうしない。

 ……で、銀で分かる毒は予め分かるから口にするな、ということだ。予見の知がないからな」

 銀が効かない毒の種類を思い出しながら言う。

「ほう、魔国ではそういうことがあったのか……他には?」

「……は?」

「いや、さっきも言ったが、魔国は一段恐ろしいと噂だったからな。色々教えてくれ」

 ヨセアの故国――フォグラオは、王政が六十年ほど前に倒された早期革命の民主国家だ。無論王族出身ではなく、議員として嘱望されていた人物を引き抜いた形になる。

 要するに、お育ちのいい男の好奇心だが、エルベットでこういうことを聞いてくる人間は珍しいので色々話していると、

「丁鳩さま……ヨセアを変な思想に染めないでください……」

 弱々しくイオルが口を挟む。

「そういえば……お前、戦えるなら騎士登録しなかったのか? イオルみたいに剣を持てると思うんだが……」

「ああ、それなら……危ないものを持たせられないって却下された。

 あの剣も持たせてくれているが、抜けないようになっている」

 壁に立てかけてある愛剣に目をやりながら言うと、ヨセアは大いに興味を持ったようで、

「触っていいか?」

 言いながら既に近づいている。

 愛剣を恐れる侍従たちが青ざめる。

「……すごいな……素人の私でも分かる。それにこの無数の傷……」

 抜こうとして、

「本当に抜けないな……残念だ……」

「その怖い炎の魔剣を抜かれたら大変ですよ! 城中大騒ぎですよ!」

「そんなに有名なのか?」

「正確には、丁鳩さまのお兄さまが、これと双子の魔剣を振り回したんですけどね……」

「もう一振りあるのか!? どこだ!?」

「……いや……持っているのは魔国に居る俺の父親違いの兄だ。

 魔国に居た頃に、俺と兄貴では得意な剣の形が違ったから、それに魔力を込めた。だから、見れば分かるが、形は違うんだが……同じに見えるようだな」

「じゃあ、魔国では兄弟で並んでその魔剣を振るっていたのか?」

「ああ、特に重要な時には二人で先陣を切ったな」

「……見たかったな……もうないのか?」

「いや、魔国も安定したし、エルベットに入ってからはそもそもそういうことはしてはならない立場だから、もうそういう機会はないだろう」

「……残念だな……」

「ヨセア。エルベットでそういうことすると最悪封印ですから、真似しないでくださいよ……」

 おそらく、平和な国で育って戦争の恐ろしさを知らない故の憧れだと思うのだが、きょろきょろと辺りを見て、イオルの剣に目を留めた。

「この剣に魔力を込めることはできるのか? やってみせてくれ!」

「ちょ! やめてくださいよ! 俺はそんな恐ろしい炎の魔剣はご免です!」

「……だそうだ。実際、俺も久しぶりにやりたくて頼んだんだが……この通りだ」

「……強そうなのに……」

 話し込んでいると家令が来る。

「ご歓談中失礼いたします。もうすぐ晩餐でございますので……」

「ああ、悪い。そんな時間か。

 二人ともすまん、朝と晩は義叔母おばさまたちと食べることになっている」

義母上ははうえと?」

「色々やらかして、本来なら義叔母さまの邸で安全に管理したいそうだが……こうして食事だけで勘弁してもらってる」

「そうか。また魔国の話を聞かせてくれ。

 イオル、お前にはこれから女性の扱いを教えてやろう」

 イオルもそれなりに手を出していたようだが、ヨセアはもっと慣れた様子だ。二人が去った後、晩餐に向かった。



◆◇◆◇◆



 どうもヨセアに興味を持たれたらしく、夜に一緒に散歩に行かないかと誘われた。

 別に断る理由もないので了承し、邸を出ると、

「……丸腰か?」

 自分は渡された短剣を持て余しながら聞いてくる。

「ああ。昼も言ったが、刃物はもたせてもらえないからな」

「私は護身程度なら扱えるが……正直、これを持たされてもな……」

 夜間の危なさは当然聞いているだろう。と、何かひらめいたらしく、

「そうだ、これに魔力を込めてくれないか? これならいいだろう?」

 余程見たいのか、薄い青の目を輝かせて提案してくるが、横から騎士が止めた。

「……恐れ入ります。丁鳩ていきゅう殿下にそういうことをおっしゃらないでください」

「あ、ああ。分かった」

 夜の中庭に出て、並んで歩きながら、

「しかし、城が一番危ないと聞いたときは驚いたが……」

「まあ、ヨセアは魔力が高いだけで、予見の知も呪いの血もないから、ほぼ狙われないと思うが……ライが心配だな。

 予見の知、遺伝病、風成、魔国の血と、研究材料としては魅力的すぎる。俺は襲われても大丈夫だが……アイツはどうだか……」

 最近はどこで覚えたのか色々勝手に身に着けていることの方が不安だが。

「ああ、義従兄様にいさま義従兄様、って、すごく懐いてきて驚いた」

「アイツは、弟の位置が好きだからな。甘えて許される相手を見つけると喜ぶ。

 ……ここにも彼岸花が増えてるな……」

 妖艶な赤は、本当に引き込まれるようだ。

「……魔力で咲かせているのか……」

「ああ。エルベットの気候では咲かないし、そもそも自然開花では数日で花が終わるらしいからな。

 この魔力からして、ライが植えたんだろ。曇りの日を狙って植えてたんだな……」

 白い王族服を躊躇なく汚しながら、嬉々として花壇を弄る弟の姿がありありと浮かぶ。

「ライのやつは、本当に花も菓子もすごいな。もらって驚いた。専門職にも勝てるだろう?」

「ああ。去年は魔国から引き上げるのが遅くなった関係で出ていないが、毎回お菓子コンテストに一般枠で応募して大賞を取ってる。

 城下に出たら、【ファムータルのメレンゲ人形】ってたくさん並んでるから、見てみろ」

 そういえば、イザベリシアとイザベルシアの婚姻でまた色が変わったかもしれないと思いながら言う。

「ところで、馬の噂を聞いたんだが……なんでもイオルが馬じゃないとか言ってたんだが……」

「いや、馬だ。会うか?」

 向かった先は小さな厩舎だ。この馬は扱いが難しすぎたようで厩舎の人間が根を上げ、丁鳩ていきゅうに話が行き、国王の許可を得て魔国に居た頃の世話係を呼んでもらった。

 その専用の厩舎で、【魔国の厩舎】の仇名で呼ばれている。

「……すごいな……」

 近づく前から分かるのだろう。それ以上前に出ないように行ってから、丁鳩が近づき、

「いいか、こいつはヨセア。俺の仲間だ。仲良くしてやってくれ」

 言い聞かせ、愛馬が分かってくれたところで近寄らせる。

「……噂以上だな……」

 おそるおそる触れながら、観察している。

「お前の紹介なしで触っていたら、どうなった?」

「まあ……蹴られるだけなら幸運だな。もっと酷いことになった奴もいる」

「戦を経験するとそうなるのか……」

 戦だろうとこんな馬は居ないのだが、それに突っ込む人間もいない。

 離れようとすると、丁鳩の王族服の端を咥えた。

「こら、もう駄目だ。また来るから、な?」

「すごい懐きようだな……」

「魔国に居た頃はいつも乗ってたから、ずっと乗られなくて寂しいんだ。他に乗れる奴がいたら頼むんだが……ライ以外にはいないからな……」

「ライは乗れるのか?」

「ああ、魔国に居た頃に懐いた。ライも王族だからもう乗れないし……寂しいだろうな……」

 あの線の細い、女の子のような容姿からは想像できない事実に驚く。正直、菓子と花を持ってきたときに、そういう性格だと思っていた。

 名残を惜しむ愛馬と別れ、城内の見所を巡るうち――

「ヨセア。動くな」

 急に変わった声に驚き身を竦めた間に、丁鳩が場所と人数を騎士に細かく言う。

「あとは騎士に任せよう。さ、戻るぞ」

「……?」

 訳も分からずついていくと、しばらく歩いた後、

「ここまで来れば大丈夫だろう。

 分かると思うが、狙われていた。まあ、俺を狙ったんだと思うが。ヨセアはリスクの割に研究対象としては魅力が落ちるからな」

「……どうして分かったんだ? 騎士も気づいいてなかったようだが」

「悪意や殺意は慣れてるからな。丸腰でも撃退できるんだが、そういったことになると責任を取らされる奴が出てくる。だから騎士に任せて終わりだ」

「魔国に居た頃ならどうした?」

「供述を取れる程度に攻撃して捕獲、あとは吐かせたな」

「見てみたいが……エルベットでは無理か……。魔国の頃に行ってみたかったな……」

「いや、勧めない。今は変わってそういうこともないが……人狩りが好みそうだ。お前は」

「……? 普通は女性だろう? 狙われるのは。……ああ、身代金か?」

 ――これだけお育ちのいい美青年。加えて女性の扱いに長けた紳士的所作。要は、自分が男に侵されるなど考えもしていない。男色家が好んで買う。

 それは伏せた。

 つくづく、異常な環境だったのだと思った。



◆◇◆◇◆



 新しい邸の場所は聞かされていたが、数日前に見に行こうとすると止められた。希望は出しているし、荷物も国王と王婿に贈られた本などはもう移動したが、あとは数少ない私物だけなので、明日直接持っていけばいい。

 自分の邸で過ごす最後の夜に、兄に話しかけたら返事があった。

『最初に言っとく。こっちの状況は見るな』

「……あ、ああ」

 鳥の視覚を介して向こうを見ることはできるが、サティラートはこちらを見ることができないので、予め見ない方向で約束していた。それを今更念を押される。

「それより、祝いが届いた。ありがとうな。まあ、やっぱり馬しかないのかって言われそうだ」

 手紙もなしに贈ってこられたのは、銀の馬蹄のネックレスだった。

『ああ、それな。お前さんが欲しがりそうな物騒なものは全て検閲で通らないって言うから……まあ、苦肉の策だ。本物の馬蹄も考えたんだが……』

 と、言葉を切り、

『これから先、お前さんが一言でも喋ったら二度と話さない。黙って聞け』

 そう言った後、急に口調が変わった。

『金の方が身分的に会うと思ったんだが……お前さんが着けるのが嫌だった。銀で妥協した。

 お前さんは知らないだろうが……馬蹄は開いている方を上に向けると、輪の中に幸せを貯めこむって言われてるそうだ』

 ひどく優しい口調で言われ、王族服に隠れて見えないネックレスに触れる。

『……で、お前さんに謝ることがある。

 オレがよく怒っていたのは、お前さんのせいのときももちろんあるが……王族になっちまったお前さんを直視できず、勝手に怒りをぶつけてた。

 ライオルが言ってた、オレが愛想を尽かしたって話だが……オレがお前さんの変わりようを受け入れられず、逃げたんだ。

 ……ごめんな』

 これは……別離の言葉だ。口を開きたかったが、言えばもう話さないと言っていた。黙って優しく紡がれる言葉を待つ。

『オレが勝手に、一緒に戦ったお前さんだけが絶対だと思って、色々やった。

 お前が幸せだって聞いて、本当に安心した。

 でもな、お前はもう、『レヴィス』じゃない。オレの勝手だが、受け入れられない。

 だから、話すのは今夜が最後だ。もう、オレとお前さんじゃ道が違う。

 この鳥は、放せばそっちに帰るって言うから、放す。手紙ももう受け取らない。オレは勝手に、受け入れられないってだけで、お前を捨てる。

 幸せになれ。……丁鳩ていきゅう

 服の上からネックレスを握り締め、

「……ありがとう。兄貴」

 せめて一言届くならと、言葉を紡いだ。


 鳥を放つと、夜空に飛んで行った。

「ごめんな……レヴィス……」

 泣く夫を、黙って横に居たジュディが抱き締める。

 話す間、ずっと涙を流していた。

「声を出したらもう話さないなんて脅して、どうせもう話さないのに……。

 オレが勝手にアイツを捨てたんだ。見ていられないってだけで……。

 最後の言い逃げに、ありがとうだとよ……どこまで分かってないんだ、アイツ」

 そっと、奥に引き込む。このままでは鳥が去った夜空を見続けるだろう。

 泣き続ける夫に、薬草茶を飲ませる。かつて丁鳩が、彼女たちを助けてすぐに、落ち着くから飲めと渡した調合だ。

 それはすぐに分かったのか、

「本当に、自分には効かねえのに、他人には効くからって色々準備してたな……」

 涙を流し続けながら、

「とことん、ああいうヤツだ。きっと、泣かないんだろうな」

 黙って泣き続ける夫に、そっと寄り添った。



◆◇◆◇◆



 朝食の席で、どれだけ弄られるか覚悟していたが――何事もなく終わった。

 肩透かしを食ったような感じで邸に戻り、見回す。

 ――ここにも、もう戻れない、か……。

 家令が控室に行くように促してくる。婚礼衣装となれば、また別格で自室では着られない。ヨセアのものを見ているので分かっていた。

 控室に行き着替えが終わった頃、訪問者が来る。

「……ライ。雪鈴ゆすずも」

 二人並んで立っているところは久しぶりに見るので気づかなかったが、礼竜らいりょうの身長は雪鈴を追い越していた。

 雪鈴が、侍女に持たせていたレースをひとつひとつ手に取って着けてくれる。

 ――濃紺。

 レースというのは、黒に近いほど難しい。『レースメーカー泣かせ』と呼ばれるほどだ。特に目の消耗が激しく、やりすぎれば失明にも繋がる。

「……目は大丈夫か?」

「やっぱりご存じなんですね。レースを織らない人は普通知りませんよ」

 カフスや付け襟だけでなく、色々と飾り付けながら言ってくる。

「せっかくの日なんですから、色々作ろうと、予めお義兄様にいさまのご衣裳を借りて採寸させていただきました」

「ちょっと待て、何日でこれだけ織ったんだ?」

「ええ、大変でした」

 レースを飾り終えて満足そうに頷く雪鈴に、

「……ありがとな」

「はい、ここでごめんって言ったら、レースを破いて帰るところです」

 雪鈴の肩を抱き、礼竜が、

「雪鈴がやりたいって言うので……目は、僕がちゃんと診たので安心してください」

「ああ、ありがとう」

 連れ立って控室を後にし、

 ――もう、僕だけの兄様じゃない……。

 雪鈴の肩を抱き寄せ、そっと頬に口づけた。



◆◇◆◇◆



 神殿での行事は我慢し、王族の結婚証書にサインしてから披露宴となり、やっと新しい邸に帰ってきた。

「…………」

 まず案内された自分の私室は――なぜこういうことになっているのだろう。希望を出したし、リディシアも一緒に居たはずだ。

 リディシアが主となるため、その続き間が私室になる。広さ、調度品――広すぎる。贅沢すぎる。そもそも掃除に無駄に手間がかかることしか浮かばない、豪華な絨毯という時点で違う。

 寝室も同様だった。

 出ようとすると前の邸からついてきた家令に止められる。

「恐れ入ります。お邸のどこに行かれようと、同じでございます」

 ――準備中の邸に入れてもらえなかったのは、こういうことか。

 諦めて無用に華美な机に僅かな荷物を置くと、後ろに誰か来た。

 この突然現れる気配――風成かざなりだ。

 振り返れば礼竜らいりょうが、大量の花を持ってきている。

「兄様、お祝いです!」

「いや、レースくれただろ?」

「それは雪鈴ゆすずからですよ。僕からも持ってきました」

 風成で来たのは、この大量の花を一緒に運ぶためだろう。どうしようかと思っていると、リディシアが来て一緒に勝手に飾り始める。

義姉様ねえさま、この辺の物、全部入れ替えていいですか?」

 リディシアの許可の元、礼竜が手当たり次第に調度品を撤去させて花を飾っていく。寝室も、まだ見ていない丁鳩ていきゅうのプライベート空間も全て花で埋めてから、気が済んだ礼竜は去っていく。

 改めて部屋を見回す。これでは、少々違うが礼竜の邸だ。

 ――まあ、豪華な調度品よりマシか……。

 そう思って触れたソファも、絹なのは勿論、織り込みから装飾から滅多に見ない類だ。

 疲れて、花の様子を見ていた侍従を呼び止める。どうやら花の飾り具合を見ていたようだが、礼竜が本気で設置すれば玄人でも勝てない。

「すまん、レースを外してくれ。俺じゃ破くから」

 そのまま脱ぐのも手伝ってもらい、

「こちらのご衣裳は、お手入れの後、レースを着けなおしてお部屋に飾らせていだだきます。もし、お召しになりたいときはお申し付けください」

 侍従が衣装を回収して去っていく。

 婚礼衣装だけでも残してくれるとは意外だった。

 身を清めて出ると、鏡台の前に座らされる。

「失礼いたします」

 髪は普段何もしなかったが、丁寧に艶を保つように手入れされる。香料が入っていないだけいいだろう。

 ――兄貴が見たら、本当に人形だって言われるな……。

 散々兄が自分の物だと言ってくれた髪すらこれだ。兄がもう会ってくれないのは、却って幸運だろう。

「落ち着きまして?」

「嵌められたよ。リデ」

 そう言うと、妻となった女性は嬉しそうに笑った。

 翌朝の新聞は――覚悟はしていたが、痛かった。



◆◇◆◇◆



「ああ~、前のお邸が落ち着いたのに……」

 来るなり溜息を漏らしたのはイオルだ。

「そうか? 何もなかったからちょうどいいだろう」

 ヨセアが当然のように言う。感性はイオルが一番まともなようだ。

 邸の丁鳩ていきゅう用の居間だ。大量の花はここにもあった。

 イオルとヨセアの都合が合えば、男性王族の溜まり場と化していた。イオル単独の時は愚痴を聞いている。

 すぐに汚れて取り替えられる寝台の上まで無用に豪華で、おまけに天蓋まであった時、流石にもう諦めた。

「……で、寝不足はだいぶいいみたいだな。眠らせてもらえてるのか?」

「普通、男が眠らせない方なのにな……」

 ヨセアは、祖国では所謂プレイボーイで有名だったらしい。色々教えてやったそうだ。

「……まあ、毎晩だからな……」

「……? 普通毎晩だろう?」

 イオルの心情を憐れんで言うと、ヨセアが普通に返してくる。

「毎晩じゃないのか?」

「……いや……その……」

「リデ様は、アムやアナのような色欲は低いですし、丁鳩さまもほどほどですから、羨ましいです……」

「そうなのか。それで満足ならいいんだが……」

 今日の茶菓子は礼竜らいりょうが大量に持ってきた菓子だ。それを一つ食べ、

「城下を見たが、やはりライは有名だな。特に菓子屋ではあのメレンゲ人形だけじゃなくて、かなりがライのレシピだと聞いたが……」

「ああ。アイツは菓子コンテストに出したレシピは無料配布してるからな。でもまあ、再現率は低いが」

「そうだな。本物の後に食べると物足りなかった。それをライに言ったら、すぐに大量に持ってきてくれた」

 喜んで菓子を運んでいる礼竜がすぐに浮かぶ。

「本当に、義従兄様にいさまが増えたって懐いてくれて……まあ、女の子のような外見だが」

「それ、言うなよ? 本人気にしてて、滅茶苦茶怒るから」

「ああ、兄様みたいな身体になるにはどうすればいいか聞かれたが……ハッキリ言って、遺伝子的に無理だからな……。丁鳩ていきゅうも母親似なんだろう?」

「丁鳩さまも丁鳩さまのお兄様も母親似です。礼竜は、ずっとお二人のようになりたいと思ってて……」

 もはやこの口調は矯正不可能と諦められたらしい。イオルが言う。

「俺も散々聞かれて困ったが……まあ、雪鈴の背を追い越したから、どうやったら背が伸びるかの質問はなくなって良かったな」

 紅茶より菓子がすごい勢いで減っていく。ヨセアが大量に食べている。

「ああ、そうだ。ライにあまり変なことは教えないでくれ。アイツ、どこで覚えるのか、すぐに変なこと覚えて困る。

 俺が封縛陣ふうばくじん使った時も、一回で覚えたし……」

「それ、かなり難しいだろう? 使えるのか? ちょっとやってみてくれ!」

 思わず立って言うが、こういう会話が伝わっているのだろう。すぐにヨセアの騎士が割って入り、

「恐れ入ります。お立場をおわきまえください」

「あ、ああ。すまない」

 席に着きなおし、

「まあ、風成かざなりが見られただけでもいいか……。

 あれ、エルベット国外で使わないようにすぐに協議されたが……」

「そうなのか?」

「ああ、フォグラオも連名でエルベットに要請したからよく覚えている。何しろ、本人は花や菓子を運ぶだけだが、使おうと思えば大軍隊だって一瞬で敵地に送り込めるしな。エルベットも無条件で飲んだ」

 知らなかった。ということは、礼竜らいりょうがサティラートのところに行ったのはそれを破っていたのか。

「まあ、エルベットが本気で魔力を使って戦争を仕掛けたらそれどころではないが……丁鳩ていきゅうなら分かるだろう。あの女の件」

「……思い出したくない女だな……」

「必死に講和を画策して無理だったからな。戦争にこそならなかったが、その隙に周りの国に攻められて領土を分割されて消えたぞ?」

 それは、滅ぼしたと同義ではないだろうか。

「本当に、エルベットは普段おとなしいが、絶対に怒らせるなと皆言っていた。だから、こうしてやってきたら異様に平和で驚いたな」

「あまりよく思っていなかったのなら、何で婚姻を受けたんだ?」

「ああ、単純に、故国が得る利益が大きかったからだよ。政略結婚はそういうものだろう?」

「な、イオル。こういうのが王族では普通だ」

「……分かりません……」

 見る間に菓子がなくなり、侍従が新しい皿を出す。

「そういうお前こそ、縁談全部蹴ったじゃないか」

「……は?」

 さも当然とヨセアが言った言葉に思わず疑問が漏れる。

「あの女は別として、魔国を九年間で変えた実績や単純に戦闘力としての評価から、あちこちが良い女性と条件を出して申し込んでいたんだが……お前、まさか知らないのか?」

「……初めて聞いた」

「まあ、婚約発表で、予約済みだったと皆納得したが……かく言うフォグラオも申し込んでいたな。それが縁で逆に私に話が来たんだ」

 知らされない立場だとますます痛感する。

「しかし、子どもを作れないのに欲しがるか? 下手をすれば魔国の呪いが広がるぞ?」

「代議士も今では一代で終わることも多い。子どもが親に似ずに才能がない場合も多いし、その辺は大した問題じゃない。

 まあ、戦乱の多い国が一番獲得に必死だったな」

「ところでヨセア。お前、紅茶は苦手なのか? 別のものがいいなら変えるが……」

 ヨセアは大量に菓子を食べる割には紅茶に手をつけていない。

「ああ、実は酒が好きなんだが……強い酒じゃないと酔えなくてな。丁鳩は遺伝的に下戸だったな」

「ああ、あの時イオルにそう言ったが……実は毒が効かない影響で薬も酒も何も感じないんだ。

 義叔父おじさまに、飲まされる前に下戸だと言って飲むなと言われた。樽を空けかねないから」

「樽を空けられるのか!?」

 またヨセアが立つ。

「飲んでも全く何も感じないから、紅茶の方が好きだが……飲めば飲めるな。

 騒ぎになるから絶対にやめるように言われたが」

「おい、樽を持ってきてくれ! 実際に見てみたい!」

 自分の侍従に言うが、そこで家令が出てきて、

「恐れ入ります。ニコロイ殿下。致死量のお酒も飲ませないよう、重々国王陛下より言われております」

「ああ、死ぬものは毒じゃなくても駄目か。分かった」

「サティラート様に知られたら、炎の魔剣で焼き殺されますよ……」

 兄は本当に何をしたのか、ますます謎が深まる。

 現に、侍従たちも顔を強張らせている。

「お前の兄とやらに、結婚披露宴で会えないか期待したんだが……来ていないと聞いてがっかりした。呼ばなかったのか?」

「ああ、もう来てくれないそうだ。祝いだけ送ってくれた」

 来てくれないどころか、二度と話すこともない兄を思いながら言う。

「誰に聞いても話をごまかされるから、本人に直接聞きたかったんだがな……。エルベットに来た以上、出られないし」

 相変わらず菓子を口に運び続ける。

 ちなみにヨセアの王族冠は魔力を吸い上げるが、イオルのものは形だけだ。魔力が一般人並みなので魔力を吸い上げることはできない。

「お前、そんなに甘い物ばかり食べると糖尿になるぞ?」

「いや、故郷フォグラオでもこんなに良い菓子はなくてな。飽きたらやめるから安心してくれ」

「俺みたいに食生活から睡眠まで管理されないように気を付けろよ……」

 沢山喜んで食べてくれたと知ったら、絶対に礼竜らいりょうは追加で持っていく。ただでさえ、丁鳩ていきゅうの食べる量が減ったと嘆いていたのだ。

「まあ……ずっと見られてるっていうのも、馴染むのに時間がかかるな……」

 ヨセアも育ちが良くてもこれは初めてだったらしい。とはいえ、事前に説明を受けて合意の上で来たので干渉しない。

「失礼いたします。丁鳩殿下。鳥が帰ってきましたが……」

 家令が鳥籠を持ってくる。兄のところに送った鳥だ。

「すまん、寝室に天井から吊り下げてくれ」

 兄を懐かしんで眺めるのもいいだろう。

「ところで、今日も晩餐は義母上ははうえたちとか?」

「いや、一人じゃなくなったからもういいそうだ。まあ、治療は相変わらず多いが」

 自傷の確認も礼竜が行うだけで済んでいる。

「どのくらい治療にかかるんだ?」

「一生かかると言われてるが……ライが俺を治すって息巻いてるからな。期待してる。

 治療中も寝てるから、起きたら終わってるしな」

「眠らされて、何かされないか不安にならないか?」

「その辺は信頼だな。あと、頭を起きたまま弄られるのは、はっきり言って嫌だ」

 実際、【洗脳】があったのだが……それは言わなくていいと思い避けた。

 そうしてどれだけ経ったか――

「と、こんな時間か。アナが待っているから帰る」

「ヨセア! 俺をまたアムに引き渡すつもりですか?」

「ほら、教えただろ? 上手くリードすれば負担は減る」

 柱時計の音に二人が立ち、去っていく。それを待っていたようで、

「丁鳩。夕食になさいません?」

 リディシアが顔を出す。

 応じて向かった先には、見覚えのある料理が並んでいた。

「……練習したんだな……」

「ええ、雪鈴ゆすずに習いましたの。味見もきちんといたしましたわ」

 雪鈴に習ったので、似たような料理になっている。要するに、家庭料理の味だ。

「……ん。美味い。

 指とか怪我してないか?」

「ええ、気を付けましたわ」

「そうか……ありがとう」

 邸の使用人は、丁鳩に個人的につくのは男性侍従だが、侍女が主だ。

 ヨセアは宗教上男性侍従なようで、丁鳩もそうなのかと聞かれたが、正直に最初の邸のお嬢様集団のことを話したら、同情の目で見られた。

 銀食器とはいえ、もう食べられないと思っていた家庭料理に舌鼓を打った。



◆◇◆◇◆



「すまん。ライの奴、起きてるか?」

 すぐに準備に出てしまうだろうと早めに行った。

「兄様?」

「早くに渡したくてな。誕生日おめでとう」

 色とりどりのガラスでできた、花かごだった。

「お前さん、花は好きだが……生きてるものじゃお前さんに敵う奴はいないからな。こういうものなら新鮮なんじゃないかと思ったんだが……」

 透明なラッピングだけなので、中は開けなくても見える。それを暫く礼竜らいりょうは見詰め――

「兄様がまともなもの持ってきた……。まさか、また洗脳されたんですか?」

 ひどく驚いている。

「……気に入らないか?」

「いえ……初めてまともなものくれたので……嬉しいです。ありがとうございます」

「実は、リデに選ぶのを手伝ってもらった。俺が目をつけるもの全て、駄目だった言われてな」

「どうせ危ないもの持ってこようとしたんでしょ?」

 弟の目は半眼だ。今までにもらったものを思い出しているのだろう。

「……そっか、義姉様ねえさまが……」

「リデに、一緒に渡しに行こうって言ったんだが……一人で行って来いって言われてな」

「ええ、義姉様からは昨夜いただきました」

 祝賀会で会おうと言って去っていく兄の後ろ姿を見ながら、

 ――本当に、僕だけの兄様じゃなくなったな……。

 少し寂しく、花かごを抱き締めた。



◆◇◆◇◆









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