魔国編 最終節,【帰国】

ファムータルの章 6,【帰国】



「……どうした? 珍しいな」

 弟が来たと聞いて、鎧を脱いでから会いに行った。当然、一番安全な自分の私室で待たせていた。

「……会いに来ないんですから、こっちから来るしかないでしょう……」

 不満そうに弟は言う。少し前までの笑顔がないのは、やはり辛い。

「会いたくないって言うから行ってないんだ。行っていいなら、暇を見つけて行くぞ?」

「ダメです」

「だよな……」

 ファムータルとしては、『王太子権限』を使ってくると思っていたら、来ないので仕方なくこちらに来たというところだろう。

「……で? 何の用だ?」

「式典の日なんですけど……」

 ああ、しまった。と思った。こちらから話しに行かなければならない重大案件だ。

 ファムータルの誕生日――裏を返せば、義母ははエリシアをはじめ、エリシア邸で出た犠牲者の追悼日だ。毎年、幼い頃から、これだけはやりたいという弟の言葉をのみ、公務としてやらせていた。

 だが、廃嫡してしまった以上、状況は変わる。廃嫡したことは後悔していないが、その辺りを忘れたのはいけなかった。

 ――というより……。

「ごめんな。お前さんの誕生日だってのに……」

 公務にかまけて忘れていたなど、これでも弟が大事と言えるのだろうか。

 もう定番となった、頭を抱き締めるという行動に自然に移り、ぽんぽんと頭を撫でてやる。

 だが――腕の中の弟は、とんでもないことを言い出した。

「……なんでそうなる?」

 我ながら、弟に向ける声ではない自覚はある。脅したいわけではないのに、つい、黙らせようとしてしまう。

 だが、弟は怯まない。

 すぐに典医を呼び診てもらう。当然、逃げないように彼が魔力拘束したが、予測していたようで無抵抗に気の済むまで診させている。念のために服まで剥いで徹底的に調べたが、一切抵抗しないのは、こうなると分かっていて言ったのだろう。

 どこにも異常はない。その報告の後、話し合いという名の応酬が始まる。

 サティラートが来てくれればと思ったが、異父兄あにが状況を知っていて放置していることには気が付かなかった。

 ――殴るな。殴ったら死ぬ。

 必死に自分に言い聞かせて、弟と話し合う。まさか、一時の怒りで弟を永遠に失うわけにはいかない。

 ――やがて……

「……分かった」

 折れた。これ以上言えば、それこそ娼館に行きかねない。

「……じゃあ、そういうことでお願いします。

 あとこれ」

 弟が出してきたのは、一つの封筒だ。

 ――『気持ち』。

 日付と宛名の書かれたそれを受け取りながら、

「お前さんが死ぬまで、ひとつも開封しないからな?」

 頭を撫でて言う。

 護衛に囲まれて去っていく弟の姿を見送り――全ての責任は、弟を薬漬けにまで追い込んだ自分にあると、言い聞かせた。



◆◇◆◇◆



 晩夏。魔国では一応夏の終わりだが、エルベットは既に冬の入り口だ。

 今日は、普段ならエリシア邸にて、十四年前の犠牲者の慰霊式が行われる。

 だが――今年は違う。

「……ライ、大丈夫か?」

 普段の王族服ではなく、王族用の礼装に身を包んだ弟が、馬車の向かい側に座っている。細やかなレースの装飾は、鈴華に織ってもらったらしい。

 魔国に来てからエリシア邸から出さなかった弟が、よりによってこの日に、魔国の貴族を集めた場所で第二王子として挨拶をする――要するに、王族としてのお披露目をすると言い出したのだ。

 無論、弟の第二王子籍は廃嫡したこと、そもそもそんなことをすれば弟も魔国の政治に本格的に巻き込まれることなどで脅し、やめさせようとした。だが――聞くような状態ではなかった。

 いつかサティラートが言ったように、尊厳もなく思い通りに操れればとも思ったが……大事な弟に、いくらなんでもそれはできない。

 勝手に何処かに行かれて永遠に会えなくなることも思慮に入れ、自分の目の届く範囲から出ないことを条件に、受け入れた。

 馬車でとはいえ、遠くに出るのが初めての弟は、度々来た道を振り返って見ている。魔国の風景が珍しいのかと思ったが……

「もしかして、この格好のせいか? 悪いが、お前さんを守るためにも、これは譲れん。見たくないなら目を逸らしてろ」

 久しぶりに見る鎧姿が嫌なのかと思って言ってみるが、そわそわとした様子は変わりない。

「おい、どうしたんだ? やめるってなら大歓迎だぞ?」

「いえ……邸が気になって……」

「……?」

「鈴華が……いえ、エルベットの王家の勘は、大事な人には的外れですから」

「……おい」

 身を乗り出し、思わず弟の襟首を掴む。

「詳しく話せ」

「エリシア邸……鈴華に、何か起こりそうで不安で……」

「馬鹿か!!」

 言って馬車を停止させ、周りに居た騎士たちに指示を出し始める。

「兄様! エルベットの勘は、身内には……」

「だから! それを『何でもない』で受け流した時点で、既に墓穴掘ってんだよ!!」

 怒鳴られ、ようやく気付いた弟は、顔を青ざめさせる。片手でカフスを握り締める。鈴華が織ってくれたものだ。

 すぐに丁鳩ていきゅうの愛馬が来る。遅い馬車の進みに合わせて歩かされ、欲求不満なご様子だ。何があってもいいように二人用の鞍に変えておいて正解だった。

「ほら、鳥は飛ばしたが、こいつが一番早い。行くぞ!」

 弟を後ろに乗せて、馬の嘶きと共に駆け出す。ただでさえ速い馬を、魔力で増幅して更に速く走らせる。

 ――危ない……のかな……。

 淡い感覚は、兄の後ろで速度を感じるたびに確信に変わっていく。馬車で来た道のりは長くないが、エリシア邸に向かうには遠すぎる。

 ――助けに行く!

 そうして、高速で走る馬ごと【風に成って】消えた。



◆◇◆◇◆



「鈴華」

 いきなり声をかけてきた前国王に、言葉を返すより早く。

「総員、逃げなさい。先に出たものは近衛騎士の残りを呼ぶように」

 真剣な声に、すぐさま皆動き出す。

 避難順は、弱いものからが鉄則だ。皆が逃げたのを見届けて、前国王が鈴華と共に避難しようとしたとき――

 ――爆炎と共に、形容しがたいものと白い影が現れた。



◆◇◆◇◆



 ――これは……!?

 あまりのことに、丁鳩ていきゅうは愛馬を止める。

 いきなり、風景が見慣れた邸の前に変わっている。何が起きたか考える前に、愛馬を落ち着かせようとする。

 人間もついていけないこの事態では、普通なら馬は大パニックを起こす。だが、流石愛馬というか、宥めるまでもなく落ち着いている。

 それを見て、後ろの弟に顔を向けたが――

 ――爆炎が、エリシア邸を襲った。



◆◇◆◇◆



 ――しまった!

 ファムータルは、目の前の状況を見て、重大なミスをしたことに即座に気づいた。

 ――兄様を忘れてきた!!

 あちこちに割れた花瓶やプランターが落ちた自分の邸で、初めて見る禍々しいものと、鈴華と祖父の間に割り込む。

 鈴華は、祖父が張った結界に居るが……この禍々しいものは、まさか――

「そうだ。礼竜らいりょう

 これがお前たちの父親だ。死んだはずなのだが……」

 そう、見ているだけで、鈴華のレースを纏っていても傷が疼く、これは――呪いの権化。

 ――兄様を取りに帰ったら……

 何度も風を、来た時同様に使って兄を引き込もうとしているが、どうやらファムータル自身がそちらに行ってから戻る必要があるらしい。

 つまり――兄を回収に行ったら、その隙に鈴華が死ぬ。

 覚悟を決めた。兄が来るまで持ちこたえよう。

【エリシア……エリシア……】

 【呪い】は、ファムータルの姿を見て狂喜する。

【エリシア! やはり生きていた! 皆の言うとおりだ……。

 さあ、帰ろう。エリシア……】

 【呪い】がすべての【眼】を自分に向けて、自分を誘おうと触手を伸ばす。

 おそらく、これに触れただけで呪いは浸食する。

 指を食い破り、血を風に流し、呪いを相殺し、

 血を乗せた風の刃で、【呪い】を切り裂く。

「僕は母様じゃない……。

 お前の息子の、ファムータルだ」

 事切れた【呪い】にそう言い、鈴華のほうを振り返る。

「大丈夫!?」

 だが――

【ファムータルの傍女! ファムータルの子を産み果てよ!】

 【断末の呪い】が、鈴華の方へ向けられる。

 ――!

 傷の痛みは今までにない。おそらく、同様の、格の違う呪いだ。

「鈴華!!」

 風に血を乗せ、呪いを止めようとするが間に合わず――

 鈴華の胸元に咲いた、銀色のエルベット・ティーズが呪いを弾いて散った。

 すぐさま、風圧を高め、血で封じ――

 自らの呪いの炎が内側で爆ぜ、呪王は灰になった。

 念入りに、残っているのが灰だけで、呪いがないことを確認してから鈴華に駆け寄る。

「鈴華!!」

 ファムータルが撒き散らした血で汚れているが、本人はきょとんとしている。

「命に別状はない」

 祖父の言葉に安堵し、その場にへたり込んでから、

「胸に何か入れてたの……?」

 エルベット・ティーズが咲いた胸元を見ながら言う。

 鈴華が探ると、炭になった銀糸が出てきた。エルベット・ティーズの紋の留め具がついている。

「僕の髪の……お守り?」

「……礼竜らいりょうの髪でも、呪いを消せたのか……」

 要するに、身体の一部なら何でもいいのか? とぶつぶつ呟く祖父。その時――

 エリシア邸は崩れた。



◆◇◆◇◆



 側で邸が崩落しても、全く動じない愛馬を頼もしく思いつつ、魔力の反応を追ってエルベット・ティーズの花畑に入る。

 エリシア邸が崩れる直前、弟の魔力が動いていた。

 やはり――

 血に塗れて、弟と鈴華と祖父が居た。

「兄様! 遅い!」

「お前さんが俺を置いていくからだ!」

 拗ねた顔で理不尽なことを言ってくる弟の頭を撫でる。

 しかし――この呪いの気配、もしや……

「呪王が生きていました。

 貴族たちが隠していました」

 弟は、信じがたいことを口にする。

礼竜らいりょうをエリシアと誤認し、やはり生きていた。皆の言うとおりだ、と言っていた。

 おそらく、貴族たちは何らかの手段で呪王を生かしたまま封じたのだろう。エリシアに会えると騙し……」

 それで、貴族が集まった――要するに封印が手薄になった時に、エリシア邸にやってきた、と。

「なるほどな……これは利用させてもらうわ」

 エルベットに貴族たちが突きつけた要求が、根底から覆る。

「さて……」

 丁鳩は弟の指の傷口を塞ぎ、

「よく頑張った。……呪法なんて教えたくなかったが……役に立ったな」

 衣類を汚す血の量からみても、かなり失血しているだろう。すぐに医者に見せなければ……。

 死んだはずの呪王が生きていた。これは、彼にとって好都合だった。

 エルベット・ティーズの花弁が舞う。

 ――【風成】

 各国王家の伝承を辿っても稀にしかないその名前を、ファムータルは後で知った。



◆◇◆◇◆


「……で、結果から言う。

 お前さんをわざわざ貴族連中に見せるって危険を冒してでも、貴族連中が呪王を封印していた場所に案内してもらったが……」

 エリシア邸は崩落したので、丁鳩邸ていきゅうていの居間で食事を取りながら話す。鈴華が作れる量は限られているし、時間もなかったので、ファムータルだけ、鈴華の料理を食べている。

 エルベットの予見の知を持つだけでなく、魔国の呪いの血を引く廃嫡王子の証言は、覆せなかったようだ。貴族たちはファムータルが王宮本殿の一角の場所を突き止めると、あっさりと認めた。

 魔国の貴族たちは『前国王に呪王が討たれたせいで国家元首が居ない』とエルベットに交渉したのだ。呪王が生きていたなら、そもそも根底が虚言だったということになる。

 あとは簡単だ。普通ならもっと大きな問題になるところを、丁鳩ていきゅうが、命だけは助けることを提案し、一切の権利を放棄させた。無論、財産も地位も失うが、ここまで腐った連中には目の前の蜘蛛の糸の方が大事だ。

「……なんとか、聖祭節までには間に合うように頑張る。それで、魔国が俺の手を離れたら……一緒に帰ろう」

「――!!」

 無邪気にファムータルが笑顔を浮かべる。

「お、その顔、久しぶりだな?」

 二度と見られないと思っていた笑顔が見られた。

 こんな状況にならなくても、『一緒に帰ろう』の一言を言えば易々と見られたのだが……それに気づくなら弟を追い詰めたりはしない。

 喜ぶ義弟おとうとの皿から鈴華の料理を掠め取ると、一瞬嫌そうにして、次に我慢の表情に戻る。気を取り直して笑顔で鈴華の料理を頬張ったところで、また横から掠め取る。弟二人の様子が面白くて続けながら、サティラートは心中で爆笑していた。



◆◇◆◇◆



「いいか、この範囲だけだ。特に赤く塗ってある場所は危険だから絶対は入るな。騎士に、入りそうになったら止めるように言ってあるから、分からない時は聞け」

 丁鳩は、邸の地図をファムータルと鈴華に見せながら説明する。

 エリシア邸が崩落した今、二人をそこに匿うことはできない。おまけに、ファムータルは必要があったとはいえ、多数に姿を見られている。

 よって、一番安全な自室に二人を置き、邸で行っていい場所とそうでない場所を教えている。

「お前さん……まず物騒なものを片付けたらどうだ?」

 サティラートが指摘するのは、やたらと不必要に転がっている武器の類である。質素――言い方を変えれば殺風景な部屋に、こんなに転がっていては落ち着かないだろう。

「ライも鈴華すずかも、無闇に弄るような馬鹿じゃないから大丈夫だ。

 だいたい、ライの力じゃ持ち上げられん」

「兄様、ひどい!」

「じゃあ、それ持ってみろ」

 言われてファムータルは剣を一振り手に持つが――動かない。

「な? 危険はねぇよ」

 一生懸命持ち上げようとしている弟を見ながら言う丁鳩に、

「躓いたらどうするんだよ……切れるぞ……」

 見切りをつけたサティラートが物騒なものを回収し始める。

「で、鈴華はそっちの続き間な。まあ、織り台とボビンはもうないが……取り寄せるから」

「早めにお願いします」

 実際、ファムータルの肌着は、織るのに時間がかかるだけでなく、肌が敏感すぎて絹しか受け付けないため、非常に脆い。しかも、エリシア邸が崩壊したことで、今ファムータルが着ている一着しかないのが現状だ。

「ああ、着いたら頼む。

 で、ライ。お前さんは寝るときはこっちな」

 言って寝室に連れて行く。

「寝台の上のものは、大至急絹に替えるから」

 兄の寝台はかなり広い。体格からいえば納得の大きさなのだが、ファムータルと鈴華が横になってもかなり余裕がありそうだ。

「兄様はどこで寝るんですか?」

「俺は近くの空き部屋に行く。あくまで、ここが一番安全だからってだけだからな」

 言って、邸の地図の一部屋に印をつける。

「何かあったらいつでも来い。……まあ、俺が居たらだが。

 聖祭節までに帰りたいから、かなり邸を空けるだろうから……その間は兄貴、頼む」

 頷くサティラートを見ながら、不安そうになった弟の頭を撫で、

「大丈夫だ。一緒に帰るから。な?」

 にっこりと弟が微笑んだのを見て、次は浴室に案内する。

 弟は、洗髪剤の匂いが気になるようだ。

「ああ、お前さんたちのは回収できなかったからな。新しいのが届くまで、何か探してくるが……どんなのがいい?」

 予想通りの花の香りという言葉に、かつてここから巣立った元使用人たちが置いて行ったものを集めてもらう。

「使いかけばかりで悪いが、適当に選んでくれ」

 ファムータルと鈴華すずかはそれぞれ香りを嗅ぎ、好きなものを決める。

 ――礼竜らいりょう。それ、高級娼婦に人気のヤツ……。

 サティラートは気づいたが黙っていた。丁鳩ていきゅうに、そういうことに気づく資質はない。

 ともあれ、当面の問題は片付いた。

「じゃ、早速だが行ってくる」

「兄様、今、夜ですよ?」

「今からだってできることがあるんだ。……お前らが寝る前に終わったら顔出すが、帰ってこなかったら先に寝ろ」

礼竜らいりょう。レヴィスなりに頑張った結果なんだから、我慢しろ」

 なら、少しお菓子を焼いておこうかと思った。兄が帰ってきたら食べてくれるだろう。



◆◇◆◇◆



 夜と言えど、勤務の者は起きている。

 夜間なので声での挨拶は控え、新しい自室に入ると、まだ見慣れない部屋に何か置いてある。

 魔力で明かりを灯すと、

『兄様、先に寝ます。おやすみなさい。

 食べて元気付けてください』

 手の込んだ日持ちしない菓子が置いてある。

「……久しぶりに食うな……」

 微笑と共に、もう食べられないことも覚悟した菓子を口に運んだ。



◆◇◆◇◆



 サティラートが自分を強制的に眠らせに来るかと思ったが、それもなく、眠りにつく前に部屋を出る。

 弟たちに貸している自室に入り、気配を消して寝室を覗く。

 ――危機感も何もないな……。

 レースの肌着がないのだから当然だが、鈴華に背中を抱き締めてもらって、絡み合うように眠っていた。

 この状況で妙な気が起きないのは、やはりまだ子どもだからだろう。

 ――第二性徴が来るまでの、一時の平和か……。

 もしその時が来たら、自分と同じ苦しみを背負うことになる。そうなって欲しくないが、まさかどこかの馬鹿のように薬で成長を抑えるわけにもいかない。

 手を触れないように注意しながら、弟の無邪気な寝顔を覗き込む。

 しばらく見詰めて気が済んだので、側に手紙を置いて出た。

 ――ご馳走様。明日も早く出る。多分帰れないから、その分明後日の夜に頼む。

 少し寝て起きたら、まだ弟も起きないうちに邸を出た。



◆◇◆◇◆



「……レヴィス……謝れ。お前のせいだ」

 夕刻。早く弟に顔を見せようと帰ってきたが、邸に着くなり、待っていたサティラートに深刻な顔で切り出される。

 愛馬を預け、話を聞くと……

「お前さん、なんでアレを止めなかったんだ?」

「……アレ?」

「……夜中にやってくる被害者……」

 一瞬で理解した。これまでは自分が説得するつもりで無条件で通すように言ってあった。そして、ファムータルと鈴華が住むようになった時に、それを変えなかった。

「運悪く、お前さんは昨夜居なかった。

 更に、厨房が遅くまで使われてて、鈴華は夜中なのに翌日の準備をしてた。

 礼竜らいりょうのヤツが、眠ってたら……」

「……すまん……」

「礼竜は、またお前さんが寝顔見てるのかと思ってほっといたらしい。だが、灯りがついた時点で違うと気が付いて目に入ったのが――はっきり言うぞ。豊満な女の裸体」

「――!!」

 鎧姿なことも忘れ、自室の扉を開く。途端――

「いつもこんなことしてたんですか?」

 冷めきった弟の声が聞こえる。

 見やると、わざわざ部屋の隅で鈴華にしがみつき、泣き腫らした目で――半眼で、

「穢れてるんですか。なんだかんだ言って、魔国の穢れですか」

 その半眼は、今までに見たことのない、弟がこんな目をするとは到底思えない目だった。

「……あ……ライ……」

 慌てて、言い繕うように説明する。

「……つまり、来る人みんな、『王太子権限』で男女問わず手にかけた、と……」

 鈴華にしがみついて泣き始める弟に近づくと、いきなり手を掴まれて移動させられる。辿り着いたのは、寝室だった。

「穢れた兄様は穢れた寝台でお勤めしてください!!」

 言うなり、封縛陣ふうばくじんが被せられる。

 教えていなかったはずだが……自分がやったのを見て覚えたのか……。

「ライ。お前は今日から、鈴華の部屋で寝ろ。絹に替えてもらえよ?」

 無言で弟は鈴華の手を引いて続き間に入ってしまった。

 弟が張った封縛陣を見る。見様見真似を差し引いても良い出来だ。しかも、弟の魔力容量の高さが作用して、完璧なまでに仕上がっている。

 破るのは簡単だが、弟の気が済むまでこのままにするべきだろう。

「おい、ライ。着替えたいんだが……」

『どうせ全裸になって色々するんでしょ? 脱げばいいじゃないですか!』

 風の魔力で声が届けられる。仕方なく、重い鎧のパーツを分解し、脱いだものを寝台の横に転がす。

「……ライ、お前、食事は摂ったか?」

『すみません、昨夜のことがショックみたいで……食べてくれないんです』

 申し訳なさそうに言ったのは、鈴華だ。

「なら、俺を監視しながら食べろ。俺も腹減ったし……」

 丁鳩ていきゅうが出した打開策に、ファムータルは丁鳩のところに寝台用のテーブルを持ってきて、所狭しと料理を並べる。ファムータルが体調を崩した時に使うだろうと準備していたテーブルを、まさか先に自分が使うとは思っていなかった。

 ファムータルは、距離を取った場所に小さなテーブルと椅子を持ってきて、陣取った。近づきたくないらしい。

 それでもいいか……と、テーブルの上の料理に手を伸ばす。

「……?」

 催陰剤。強壮剤。……これはスッポンの生き血か?

 健康に害はないという範囲で、とことん色々入れられている。

「……もしかして、お前さんが作ってくれたのか?」

 笑顔で言うと、

「穢れた兄様には穢れたお食事をお作りしました。穢れたお菓子もありますよ」

 ……まあ、健康に害はないという範囲にこだわる辺りが可愛い。毒の効かない丁鳩になら、毒を入れても不思議はないと思った。

 ――というか、毒どころか、酒も薬も効かないんだが……。もちろん催陰剤も。

 それを言おうかと顔を向けると、ファムータルは、物凄く汚いものを見る目で見詰めているばかりで、目の前の鈴華の料理に手を付けていない。

「ほら、お前さんも食え。太らないぞ」

「兄様がこれ以上淫行をしないか見張ります」

「…………」

 ファムータルが頭に流し込んだ資料には、もっと過激で残虐なことが満載だったのだが……どうやら、自分が弟をそこに分類したくないのと同様、自分もそこには入らないらしい。

 困っていると、鈴華が料理を一口分ずつ、ファムータルの口に運び始めた。

 ようやく食事を始めたのにほっとしながら、鈴華に礼を言っておいた。



◆◇◆◇◆



 目を覚ますと、慣れた寝台の上だった。だが、肌触りが絹に変わっている。

 視線を巡らせると、相変わらず離れた場所に置いたテーブルについて、ファムータルがすごい目でこちらを見ている。血走っており、徹夜したのは明白だ。

「……ライ……お前、寝なかったのか?」

「穢れた兄様が淫行しないか見張っていました」

 もう、抑揚がない。これ以上何を言い訳しても無駄だろう。

「じゃあ、俺はもう行くから……封縛陣、解いてくれ」

 ファムータルは素直に解除してくれたので、鎧を着て、頭を撫でて出て行った。

 その後も、邸に帰ると寝台に封縛陣で閉じ込められ、弟の作った『意味ありげな』料理を食べて過ごすことになったのだが……言い訳は無理だと甘んじて受けた。



◆◇◆◇◆



「ライ。これ」

 祖父の元に神殿から送られてきた書簡だ。今日は、ファムータルが何かする前に居間でそれを見せた。

 隣の鈴華すずかに視線を送り、

「紋章は『鈴華』。色は淡い黄色。

 ……で、名前が仮じゃどうしようもないから、早く決めろってさ」

 ファムータルと鈴華は顔を見合わせる。神殿から……ということは

「認めてもらえたんですか!?」

 エルベット王室のみならず神殿が、鈴華をエルベットに迎え入れる決断をしたということだ。

「身元不明って時点で、かなり苦労したけどな」

 エルベットには奴隷という概念がないので、その辺りはただ『被害を受けて育った』という生い立ちになったらしい。

「ありがとうございます! 兄様!」

 久しぶりの無邪気な笑顔で言う弟を、そっと落ち着かせ、

「二人でちゃんと名前を決めろよ?」

 記憶が戻れば思い出すかもしれないが、その時はその時で、どちらを取るか決めればいい。

 幼い恋の成就に、公務で必要でも理由をつけて滅多にしないが、そっと頬に口づけた。

「ところで、聖祭節にはギリギリ間に合いそうなんだが……すまん、お菓子コンテストは無理だ。レシピだけで参加するか?」

 『先に帰れ』、『置いていけ』が言ってはいけない言葉だったとサティラートにようやく教えてもらえたので、言い方に気を付ける。

 なぜ、こんな重大な情報を教えてくれなかったのか、分からない。

「いえ、今年はいいです。

 来年頑張ります!」

 その一言に、また頭を抱き、

「言質取ったからな?」

「……?」

「お前は、少なくとも十五までは生きてるって言ったんだ」

 いつ生命が終わるとも分からない弟が、たった一年先とはいえ、生きていると言ったのだ。

 その横で、にやにやと笑いながらサティラートが見ていたが、特に気にしなかった。

「さ、食事は部屋か? また寝台じゃないだろうな……」

「ええ、それはもう! よりをかけて僕がお作りしました!」

 自分は鈴華の料理を食べるので気楽に言ってくれる。せめて、封縛陣はやめてほしいが、弟の気が済むようにしようと思った。



◆◇◆◇◆



 ――だいぶ安全になってきたから、町を歩いてみるか?

 そう兄に言われ、ファムータルは飛びついた。

 もう魔国も冬である。エルベットの冬に比べれば雪もなく、暖かい。

「兄様……」

 手を繋いでくれている兄の手をぎゅっと握る。街並みは普通なのに、嫌な視線を感じる。ひとつやふたつではない。

 エルベットとは雰囲気の違う石造りの建物と木造の建物が混在する街は、何かを隠しているようだ。

「……気づくようになったか。色々教えたからな……」

 言って兄が顔を動かさず視線だけ向けた先を見ると、とても嫌な感じの男がいる。

「闇競売で儲けてたヤツだ。もうそういう商売はできないから堅気のふりをしてるが……お前さんみたいな『獲物』を見ると、つい昔に戻りたいって思うんだよ」

 ――僕を、売ろうと……

 次いで、兄の視線が向かった先を見る。

「元貴族だ。なりふり構わず身分と財産を放棄したが、無一文で放り出されるって意味をひしひし感じてるとこだな。……で、あの二人は、いわゆる『極上』を玩具にしてた連中だ」

 呪いの傷が悪寒のあまり疼く。つまりは、自分を……

「まあ、こうなったら何もできない。せいぜい、物陰から指を咥えて見てる程度だが……って、おい!」

 怖い。自然に涙が出て、震えが止まらない。

 兄は自分の外套を外して、包んで持ち上げてくれる。

「こうすれば誰にも見えないから……ごめんな。最後まで見せないのも卑怯な気がして連れ出したんだが……。

 よしよし、帰ろう」

 邸に帰ると、兄がようやく顔だけ外套から出してくれる。

「ごめんな。痛むか?」

 涙が止まらないまま、頷く。背中が痛い。

「悪かった……さ、行くぞ」

 その様子を見ていた使用人が、そっと声をかけてくる。ファムータルと親しくなった使用人だ。

「丁鳩殿下。こんな小さな子なんですから、いくら気を付けても過ぎることはありませんよ?」

「ああ、すまん。俺は気が付かないから、そう言ったことは教えてくれ。

 コイツが俺に言いにくいことがあったら、頼む。ありがとうな」

 ファムータルと仲がいいので、無礼承知で言ってくれたのだと、礼を言う。自分の気遣いが甘いのは事実だ。そして、娼婦出身の女性から見ても、自分の弟への思慮の足りなさは酷いのだろう。

 大事に弟を抱えて歩き出すと、何故かサティラートが爆笑している。

「……兄貴? ライが大変な時に何笑ってんだ?」

 かなりツボに入ってしまったであろう異父兄あにからは情報は聞き出せなさそうだと、自室に戻る。

 すぐに鈴華すずかに弟を渡すと、しっかりとしがみついて泣き始める。

 経過を話し、後を頼んだ。

 概ね片付けは終わった。残っているのは……



◆◇◆◇◆



「なんだ? この残留希望人数は……」

 執務室にて。渡された書類は、最後の後片付け――丁鳩邸で保護している使用人の希望だ。

 当然、皆、邸から出て最終的には自活できるよう、生活訓練施設などを紹介してあるのだが……ほぼ全員が、エルベットに付いていきたいと言っている。

「あ~、レヴィスには分からんか……」

 笑いをこらえながら言うのはサティラートだ。この異父兄あには、どうも最近隠れて――というか、あからさまに笑っている。

「兄貴……いい加減、何が面白いのか教えてくれ」

 例の『宿題』も、『麻薬の影響』でダメ出しを食らったままだ。このまま教えてくれないのかとも思ったが……

「じゃあ、遡るぞ?

 あれは、お前さんが礼竜らいりょうを部屋に置いて、邸を空けたあの夜だ……」

 サティラートが語った内容に、ただ唖然とするしかなかった。



◆◇◆◇◆



 丁鳩ていきゅうが、洗脳の濃い被害者が部屋に来ると、必ず説得して返していた。

 その晩、一人の元娼婦が、やはり『ご奉仕』の相手と誤認し、寝室を訪れる。

 眠っているのであろう『ご主人様』に奉仕すべく、夜着を脱ぎ、そっと掛布をめくった瞬間――

 そこに居たのは、まだ幼い、掛け値なしの美少女だった。そういえば、絹など使う人間に見えなかったのに、寝台の上も掛布も、少女の極薄の夜着もすべて絹。

 これだけで、どれほど大事に扱っているか分かった。

 高級娼婦が愛用する花の香りが染みついたヴェールのような銀糸の髪の間から、赤い瞳が開き――

 少女は大いに混乱した。

 この容貌、極薄の絹の夜着に包まれた幼い身体は胸の膨らみ具合からしても子どもを産めるほどまで成長しておらず、そして、間違いなく『手折られていない』。

 すぐに、これは『ぎょく』だと察した。


「待て待て待て! なんでそうなるんだ!?」

「状況証拠が全部そうだ」

「だいたい、『極薄の夜着』って、男物の寝間着だろ!」

「『補正』が入ったんだよ」


 あの貴人が優しいとは聞いていたが、このような『ぎょく』が好みだった。そして、手にしてなお『手折らない』。

 その事実を胸に、元娼婦は自室に戻り、翌朝その話を別の元娼婦の使用人としているときに、厨房にあの『玉』の美少女がやってきた。

 着ているものも、肌を出さないどころか体型も見せない、豪奢な絹。真っ白というのは貴人の好みか……。体型すら隠すのは、今までのような邪な目が決して向けられぬよう、貴人が気を遣ったのだろう。

 すぐに料理を始めたが、あちこち探しているようだ。見かねて声をかけると、「催陰剤とか、強壮剤とか……兄様の穢れた本性を引きずり出すのが欲しいんです」。

 ああ、貴人は『兄様』と呼ばせているのか。確かに、十二にもならないこの少女には合うかもしれない。

 名前はもらったのかと聞くと、「ファムータルです」と答えた。貴人の故郷の感じの名前ではないが、何か意味があるのだろう。

 すぐに周りに声をかけて、色々持ち寄ってやったら喜んだ。きっと、この少女は、貴人の気遣いが心苦しく、早く『手折って』ほしいのだと、そう思った。

周りで手伝っていると、不意に、「背中は傷があって痛いので触らないでください」と言った。誰が傷をつけたのか聞くと、父親だという。

 『ファム』と皆に呼ばれながら、少女は料理とお菓子を抱えて戻っていった。



「……おい……」

 確かに、ファムータルに『名前を言うな』とは言わなかった。

「俺は、普通にみんなの前で『ライ』って呼んでたが……」

「エルベットじゃ御名があるって噂くらいには聞いてるからな。お前さんだけが『ライ』て呼んでいいんだと思ったんだろ? 実際、御名だし」

「鈴華が側にいるんじゃねぇか?」

「んなもん、『補正』が入れば消える」

「……鈴華は、『ファムータル殿下』って呼んでるが……『殿下』は流石に耳に入るだろ?」

「だから、『補正』だ」

「何なんだ! 『補正』って」



 翌朝、皆の前に現れた『ファム』は、明らかに眠っていなかった。

 眠らせてもらえたか聞けば「穢れた兄様のお相手で精一杯でした」との返事が。ああ、やっと少女の想いは通じたのだと皆が祝福した。

 食事は、「口に運んでもらいました」と言ったので、きっと、ひとつひとつできるたびに、ご褒美に入れてもらっていたのだろう。

 貴人は満足にぐっすり眠って出掛け、遅くまで帰らないというので、先輩として、昼間ゆっくりと食事を摂って休むよう言い聞かせた。

 最初に貴人の部屋に行った、目撃の発端の元娼婦は、何かあればいつでも来てくれと自分の部屋を教えた。



「…………」

 もう、どこから訂正すべきか分からなくなって、ただ話を聞く。



 ある日、その元娼婦の部屋に『ファム』が来た。手に抱えた本を泣きそうな目で差し出しながら「捨てても捨てても返ってくるので、処分してください」と言ってきた。

 なるほど、ゴミ出しも自由にできない立場なのだと、本を受け取って安心させて帰らせた。

 中を見てみれば、ごく初心者向けの、優しい本だ。貴人なりに、魔国の腐った本の中から選んで渡したものだろうが……『ファム』はそれ以上に初心だった。

 この本は、使用人仲間で回し読みされ、貴人の、欲望がありつつもあくまで優しい心根を皆で感じていた。



「いや、あの本、男向けだったろ!!」

 確かに、エリシア邸崩壊で本がなくなったので、同じものを取り寄せ、悪乗りで反応を楽しんだが……

「お前さん、知らないのか? 初心者向けって、大体男女で書いていること変わらないぞ?」



 度々、貴人が『ファム』を人前でも強く抱擁していたのは知っていた。

 ある日、貴人が嬉しそうに書簡を見せていた。王家の者に与えらえる色と紋章が決まったから、正式な名前を決めろ、と。

 神殿からの書簡は、すなわち、『ファム』が妻となることが認められ、貴人と手を取り合って郷里に帰れるということだ。

 そうして、貴人が『ファム』の手を引いて出掛けて行った。楽しんできてくれればと思ったが、すぐに貴人の外套に包まれて泣いている『ファム』が帰ってくる。

 なるほど、貴人は出先で感情が抑えられなくなり、大事に着せた豪奢な衣装を破り、『ファム』に無理をさせたのだ。必死に痛むかと謝っていた。

 貴人の外套に包まれた『ファム』は、まだ十二だ。貴人が初めてで唯一の相手で、必死に受け止めようとしているが、血気盛んな貴人が愛情を抑えなければ耐えられないだろう。

 『ファム』はまだ幼いが、大きくなれば貴人の子を産み、暖かい家庭を築くだろう。貴人の愛を一心に、受け止められるだろう。



「……………………

 ……俺が悪かった……」

 弟が美少女と見間違えられるのは知っていたが……。

「そういえば、そんなことになって嫉妬とかなかったのか?」

 ふと我に返って、もっともな疑問を口にする。鈴華の時は、ジュディなどの例がある。

「ああ、ジュディにも確認したが……『玉』っていうのは、娼館で最上級と言われているが、娼婦たちにとっては一番可哀想な『奴隷以下』なんだと」

 言われて丁鳩も納得する。

 『玉』は、外界から隔離されて、客が好む一般教養を叩きこまれて大事に育てられるが、『手折る』瞬間の愉しみのため、一切そういう知識は与えられないらしい。名前も、買い手が付けるので、それまでは名無しだ。

 一般に『玉』は十二になる前に買い手が決まるが、それまでは何も知らず、買い手が決まっていきなり『永遠にお仕えするご主人様』の前に引きずり出され、自分の運命を知るのだという。酷すぎる名前をつけられ、手折られ踏みにじられて自分の状況を知る。もちろん、すべて『ご主人様』の意に沿うよう、嘆き悲しむ様も詳細に記録され、『嫁入り』の後は殊更地獄だ。

 しかも、傷のある『玉』となると、大抵は買い手は『性欲』と『幼女趣味』に加え『嗜虐趣味』に振り切れている。向かう先は言わずもがなだ。

 よって、娼婦たちは皆、『玉』には同情的だ。幸せを掴もうとしているなら、精一杯背中を押すほどに。

 ましてや、この傷のある『玉』は、優しい貴人に助け出され、『手折られる』こともなく、自ら願うまで手つきとならなかったのだ。

 そうして、皆知っている。貴人の故郷では徹底した一夫一妻で、妾などにはならないと。


「要するに、最近になって崩壊した魔国の奴隷制度、貴族制度……そう言ったものも含めて、父親に虐待されて傷を負った可哀想な『ぎょく』が貴人の愛で幸せを掴むっていう、娼婦たちにとっては希望の『シンデレラストーリー』になったんだよ」

「……これ、俺がエルベットに帰ったら消えるのか……?」

 いつになく情けない声で丁鳩ていきゅうが呟いた声に、

「話を聞きつけた出版社が使用人に聞き取りしてるし、皆、それぞれの『補正』を大いに盛って、希望を込めて話してる。

 多分だが……舞台にはなるだろうな。なんたって、希望の象徴だからな」

 最後にいい仕事したな! と、サティラートが褒めてくるが、嫌味にしか聞こえなかった。

 結局、『ファム』を見届けたいという理由でエルベットに付いてくると言っていた全員を、魔国に留めることにした。

 弟だと言おうかと思ったが、『希望のシンデレラストーリーが魔国の穢れた男色話に墜ちるだけだ』と、兄に止められた。

 ――エルベットに帰ってかなり経ってから、その『ファム姫伝説』関連の本が女性を中心に識字率を大きく上げたと聞いたときは、自己嫌悪に浸るしかなかった。



◆◇◆◇◆



 明日、魔国を発つという時がいよいよ来た。

 皆が出立の準備をしている中、丁鳩ていきゅうとサティラートに連れられて遠乗りに出た。

 エルベットに帰ってしまえば、王族は滅多に王都から出ることもできない。最後に思いきり駆けようという兄の言葉に、是も非もなくついて行った。

 速い兄の愛馬の後を追い、自分の馬を走らせる。

 靡いた髪が風に舞い、景色に溶ける。

 兄弟三人で駆けた、大事な思い出は、決して忘れることはないだろう。


◆◇◆◇◆









  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る