9 同じ痛みがわかるから


 何を考えられたわけでもない。うるさい鼓動が全身に血を送っていて、勝手に体が動く。

 扉に立ち尽くしていた男の隣を抜ける。

 そのままフェリシカは奥へと跳びかかった。ナイフが部屋の明かりを反射して、鈍く輝いている。


 その光を目の端で捉えたのが最後だ。

 男とロイの間に割って入る。少年の体に覆いかぶさる。

 と、後肩を鋭い痛みが貫いた。


 フェリシカは目をつぶって、その痛みに堪えた。ぬるいものが背中に広がっていく。


「ひっ……」


 喉の奥から引きつった声を出したのは、男の方だった。

 狼狽したように後ずさる音。


「ちがう、そんなつもりじゃなかった、この女が勝手に……っ」


 早口でまくし立てる男。

 フェリシカはそちらに視線を向ける。男は目を見開き、動揺の表情を浮かべている。

 振り向きざまに脚を伸ばし、払う。男の体は簡単に床へと倒れた。派手な転倒音が小屋の中に響く。


「く、この……!」


 もう一人の男が拳を握り、跳びかかって来た。

 フェリシカはそちらを見据えて立ち上がる。

 迫りくる拳。体を傾け、それを避ける。


 男の腕は宙を切った。その腕を抱える。走りこんで来た勢いを利用し、体を投げる。


「ぐっ……」


 男はもう一人の男の上へと落下した。

 2人の姿を見下ろし、フェリシカは口を開く。


「君たちは元騎士だ。その誇りが少しでもあるのなら、子供を人質にするなんて卑怯な真似は、二度とするな」


 凛と響く声から逃れるように、男たちは目線を逸らした。

 部屋の中にわずかな静寂が満ちる。

 フェリシカは極まりの悪そうな男たちから視線を外し、部屋の奥を見る。


 ロイは呆然として、フェリシカを見上げていた。


「アンタ、それ……大丈夫なの……?」


 少年の目はフェリシカの肩を向いている。

 腕を後ろに回して触れる。


「ああ。大した傷ではないよ」


 答えながら、ナイフの柄を掴んだ。ゆっくりと引き抜く。生暖かいものが服の下で広がっている。だが、傷は少年からは見えないだろう。

 だから、フェリシカは何でもない顔をしながら、少年の元へと近づいた。


 引き抜いたナイフで、両手を縛っていた縄を斬る。腕にわずかな跡が残っているものの、それ以外の怪我はなさそうだ。フェリシカは息を吐いた。


「立てるか?」


 そう問いながら手を差し出す。

 ロイは目を伏せながら、素直に手を取る。少年の手は温かく、自分の体が冷え切っていることを知った。

 ロイを立ち上がらせ、その両肩に手を置いた。


「なぜ、あのようなことを口にした!」


 語気を強め、問いただす。少年はフェリシカの方を見ない。


「本当に死んでしまったかもしれないんだ」


 鋭い声が部屋の中に響く。その声は後を引いて消えていく。

 数秒の沈黙の後、


「そしたら……」


 ロイがうつむいたまま言う。


「そしたら……家族の元に帰れるんじゃない…………?」


 こちらを見上げて、笑う。

 フェリシカの胸を鋭い痛みが襲う。言葉よりもその表情に苦しくなった。

 この少年が初めて見せた笑顔は、とても悲しいものだった。その笑顔がフェリシカの胸を締め付ける。


 切ないくらいに――その気持ちがわかるのだ。


 先ほどのフェリシカもそうだった。自分がロイの代わりに人質になると口にした時。不思議なくらいに気持ちは落ち着いていた。先ほどのことだけでない。戦場に出る時、フェリシカはいつもそうだった。数年前に「彼」を亡くしてから、ずっとそうだった。


 本当は……自分は死にたがっていたのだろうか? 彼と同じ場所に逝きたかったのだろうか?


 フェリシカは気付いた。

 普段通り過ごしているようでも、本心はそうではない。誰にも他人の心の中はわからないものだ。どれだけ傷だらけでも、血を流していても、悲鳴を上げていても。表面を取り繕うことは簡単だ。一枚の布をかけるだけでいい。それで何も見えなくなる。

 でも、それで傷は癒えるわけではない。誰からも見えないところで血を流し続けるのだ。この背中の傷のように。


「ずっと、つらかったんだな」


 喉元に何かがこみあげてきて、声を出すのも苦しくて、フェリシカはやっとの思いで言葉を紡いだ。


「だけど……君にはそういうことは言ってほしくない。……私は……」


 フェリシカはロイの肩に手を置いたまま、その場に膝をついた。


 心が、顔が熱い。

 苦しさが全身を巡って、弾け飛びそうだと思った。

 目をつぶる。すると、真っ暗闇の中に一人の人物が浮かんだ。


 魔法士に奪われた彼。姿が、声が、彼と過ごした時間が。フェリシカの脳裏に蘇った。

 そうだ、彼のことを忘れてしまったわけじゃない。思い出さないようにしていただけなのだ。

 熱い。その思いが目からあふれ出し、頬を伝っていく。


 失ったものをすべて取り戻すように、フェリシカは目の前の少年を抱きしめた。


「君までいなくなってほしくない……」


 その声には嗚咽が混じる。

 人の体は温かい。それが生きているという温もりだ。

 なくさなくてよかった。今度は間にあってよかった。心の底からそう思った。


 自分の命は軽く考えられても、この少年の命は大事だ。強くそう思った。先ほども怖くてたまらなかったのだ。この少年が死んでしまうかもしれないと、そう思っただけで、心臓がうるさく鳴り出した。

 ロイが抱きしめられた姿勢のまま、フェリシカの服を掴む。


「……何それ」


 ぽつりと呟いた声は突き放すようで。

 わずかに震えを帯びた。湿り気のある声で少年は告げる。


「そんなの……アンタの勝手だよ……」


 だけど、それに気づいてしまったらこの少年はまた怒るだろうから。

 フェリシカは少年の顔を見てしまわないように、腕に力をこめるのだった。




 数年前、「彼」が死んだ時、周りはフェリシカに同情の目を向けた。そして、フェリシカが普段と変わらない態度でいるために、次は軽蔑の目を向けた。


 この少年はそのどちらでもない――フェリシカと同じ痛みを抱えているから。切ないくらいにその気持ちがわかるから。


 だからだろう。フェリシカの心の底から温かいものがあふれて、空っぽだった胸を埋めていくのだった。

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