6 眠れない夜に


 帰り道。

 市壁の向こう側から夕日が差しこむ。オレンジ色の光は人々の影を長く作り出していた。


 並んで歩いていても言葉を交わさない。2人の間には気まずい沈黙が落ちる。

 しばらく進んで、城門が視界に入って来た時、ようやくフェリシカは口を開いた。


「あの子をかばったのか……?」


 ロイはずっとふてくされた面持ちをしている。


「別に、何だっていいだろ」


 フェリシカは歩く先に視線を落とす。


「なぜだ……君は」


 その言葉を口にするのは、胸がきつく締め付けられるように痛むことだった。


「魔法士を、恨まないのか……」


 ロイがハッとしたようにフェリシカを見る。

 それから意外にもしっかりとした声音で告げた。


「うらむって、俺の家族のことを言ってるの?」


 苦しさはフェリシカの首の方まで張り付く。

 何も言えなかった。

 遅れて「何てことを口にしまったのだろう」と後悔が襲う。


 家族のこと。それはこの少年にとってはきっと禁句だ。騎士団に保護されてからまだ1カ月足らず。この少年はずっと仏頂面で過ごしていたけれど、寂しくないはずがない。つらくないはずがない。

 そして、魔法士を恨まないはずがない。


 ――自分がそうであったように。


 ロイが視線を逸らして、城門の方を見る。そして、何気ない口調で言った。


「そのことと、あの子のことは、何の関係もないんじゃない?」


 フェリシカは歩みを止めた。

 ロイが少し先を歩き、「どうしたのか」といった様子で振り向く。街の住人たちがフェリシカを追い越していった。

 子供のはしゃぐ声。城門の向こうから差しこむ夕日。夕餉の匂いが通りまで漂ってくる。

 すべて遠いものに思えた。置き去りにされたのはフェリシカだ。


 そう。そうだ。と、フェリシカは思った。


 この子の言っていることは正しい。この子の考え方は正しい。


 本当は心のどこかで思っていた。ロイとの関係がうまくいかないのは、この子の方に問題があるのではないかと。

 でも、そうではなかった。この子はまっとうな子だ。読んだ子育て本が悪いのではない。ロイが悪いわけではない。


 間違っているのは――。




 宿舎へと帰ると、セレステが外に佇んでいた。手にはジョウロを持っている。宿舎前の花壇に水をやっているところだった。


「おかえりなさい、2人とも」


 セレステは顔を上げて、にっこりとほほ笑む。


「セレステ姐さん」


 その笑顔をちらりと見上げて、ロイが口を開く。


「それ、ただの雑草だから」

「あら……?」


 ロイはそれだけを告げると、宿舎の中へと入っていってしまう。

 セレステが視線を落とす。花壇には緑色の草しか生えていなかった。


「道理で……いつまで経っても花が咲かないと思ったわ」


 セレステはジョウロを持ち上げて、首を傾げた。


「それじゃあ今度、何かの種を植えようかしら。何がいいと思う? フェリシカ? あれ。おーい、フェリシカ?」


 フェリシカは固まっていた。

 先ほどの言葉に唖然としていたのだ。


(せ、セレステ姐さん……?)


 ロイはそう言った。

 セレステの名前を普通に呼んだ。今までフェリシカの名を呼んでくれたことはないのに。


「ロイとは、よく話すのか……?」


 セレステの方を向くと。

 彼女はきょとんとした表情をしている。


「たまに見かけた時に、声をかけているけれど」

「たまに……?」

「最近はあいさつもしてくれるようになったのよ」

「あいさつ……とか、するのか……?」

「こないだ飴をあげたらちゃんとお礼も言ってくれたわ」

「甘い物が嫌いなわけではなかったのか……」


 力が抜ける。眩暈を覚え、フェリシカはその場にへなへなと座りこんだ。


「ど、どうしたの……どこか具合でも悪いの?」


 セレステが慌てたように顔を覗く。

 フェリシカは何も答えられない。


 黙るフェリシカに何を思ったのか、


「そうか、何かお話があるのね?」


 セレステはぽんと手を叩くと、フェリシカの前に腰を下ろす。正座である。


「さ、何でも話して? フェリシカ」


 何故かやる気になっているセレステ。

 フェリシカは頭を抱えながら、弱々しい声を出した。


「セレステ。すまなかった」

「えっと、何が?」


 夕日も弱まり、辺りは暗くなりかけている。通りかかった騎士たちが不審そうな表情で2人を見やった。

 外で座りこむ女性2人(しかもセレステは正座)。しかし、周りの視線も気にせず、2人は真剣な視線を交わす。


「私よりずっと、君の方がふさわしかった」

「何のお話かしら……?」

「始め、ロイのことを君が預かるという話が出た時に、口を出したりしてすまない」


 そのままフェリシカは俯いてしまう。

 セレステは穏やかな口調で、


「そんなことないわ。フェリシカは十分やっているじゃない」

「十分ではない……」

「そ、そんなことないってば」


 セレステの声に焦りが混じる。


「ほら、ロイくんは事件のこともあるし、心を閉ざしちゃっているのよ。普通の子より扱いが難しいと思うの」

「ちがう」


 フェリシカはきっぱりと断言した。


「あの子が悪いわけじゃない。あの子はいい子だ。私が思っていたよりも、ずっと」

「フェリシカ……」


 セレステは気遣うように名前を呼ぶ。

 フェリシカは顔を片手で覆って、考えた。


 自分が預からない方がよかったのだ。セレステならもっとうまくやれていた。本に頼らずとも、ちょうどいい距離で子供と接することができたはずだ。


 セレステでなくても、女性にはそういう本能があると聞く。幼い子を慈しみ、守ろうという気持ちが。だが、フェリシカにはなかった。セレステは子供を目にすると「まあ、かわいい」と口にするが、その感覚がフェリシカにはさっぱりわからない。


 ロイのことを世話するのも、団長の命令があったからと、彼の過去に同情したからだ。それだけの理由に過ぎない。

 うまくいかないのは全部、フェリシカのせいだったのだ。


「フェリシカ、泣いているの?」


 セレステが心配そうな声を出す。


「――いや」


 その言葉にフェリシカは顔を上げて、


「知っているだろう、涙は出ない体質なんだ」


 と、静かにほほ笑んだ。




 その日の夜。

 フェリシカは自室でベッドに突っ伏していた。

 顔を上げて、ベッドサイドを見る。小さな額縁が飾ってある。そこには1枚の似顔絵が入っていた。


 優しげな表情でほほ笑む男性だ。

 その絵を手に取り、フェリシカは仰向けになった。


 天井から明かりが落ちている。光に背を向ける絵には、瞬く間に影ができた。

 彼の顔を、声を、思い出そうとしてもうまくいかない。それよりも先にフェリシカの脳裏に浮かんでくるのは魔法士の姿だった。


 彼を奪った憎き相手。彼は魔法士に殺されたのだ。今でもその瞬間ははっきりと覚えている。


 いつもの休日。彼と街に出た。買い物をして、食事をした。穏やかな1日だった。

 『魔法士が暴れている』そんな情報を耳にしたのは、もう日も暮れかけた頃合いだった。彼もフェリシカも騎士団に所属していた。休日とはいえ、無視するわけにはいかない。


 向かった先で出会った魔法士。戦闘になった。その時、フェリシカをかばって、彼は致命傷を負ったのだった。

 最期の言葉を交わすこともできなかった。掌から砂が零れ落ちていくように、フェリシカにはどうすることもできず、ただ息を引き取る彼のことを見守ることしかできなかった。


 最期の彼の顔を思い出せない。フェリシカの脳裏に焼き付いたのは、魔法士の姿だった。

 歪んだ顔。歪んだ声。彼の姿をかき消すように、それはフェリシカの記憶にこびりついた。

 それからの日々をフェリシカは変わらずに過ごした。


 彼がいなくなってもいつもと変わらない日常。いつもと変わらない朝が来て、夜になる。

 上司から休暇をとってはどうかと提案されたが、それをフェリシカは拒否した。

 次の日からもいつもと同じように働いたのだ。始めはフェリシカに同情的だった周囲も、あまりに彼女が普段通りと変わらないので、逆に不気味がった。


 ――彼女、普通に出勤しているけど。

 ――彼のことも笑顔で話題に上げる。

 ――葬式でも涙1つ流さなかった。


 つらくないのか。悲しくないのか。本当はそこまで彼のことを好きでなかったのではないか。そういう感情を持っていないのではないか。

 人としてどこかおかしいんじゃないのか。


 そんな陰口は、やがてフェリシカの耳にも入った。


 忘れていた、とフェリシカは思った。周りからそんな風に言われた自分は、欠陥品であったということ。


 子供相手に愛情が持てない。彼がいなくなっても悲しみを持てない。

 人として欠陥があるのは自分の方だ。そんな人間に子育てなんてできるわけがない。今さら気が付くなんて。

 小さく笑って、フェリシカは彼の絵をベッドサイドに戻した。


 目元を腕で覆う。今の時刻は夜更け。眠気はなく、むしろ頭が冴えていた。


 フェリシカにとって夜は長い。1日1日は長い。

 その長い夜をどのように過ごすのかが、彼女にとっての難問だった。

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