詩作

孵化

第1話

『試作』


 遮光カーテンに遮られた光が、恨めしそうにカレンダーを睨みつけている。どうやら、いつの間にか七月になったようだった。赤ペンで殴り書きされたバツ印が、期限厳守の文字を消している。今年の初めに受けた詩作の仕事の期限が、あと三か月に迫っているらしい。


 私はどうして詩を書いているのだろうか。この詩作に意味なんてあるのだろうか。思索と苦悩の倍音に、一体どんな意味があるのだろうか。死んだ父のギターをぶっ壊さんとかき鳴らすその行為に、どうしたら意味を見出すことができるのだろうか。意味がなければ言葉にはならない。意味を言葉にできなければ、それは詩にはならない。音楽としてメロディにしても、そこに孕む意味に気付ける人なんて、ほとんど存在してくれない。ずっと知りたかった。私のこの思索には、一体何の意味があるのか。


 言葉にならない事こそ言葉にするべきだ。そう思えばそう思う程、私自身の言葉にならない事が、もうあまり残されていないということに気付いてしまう。




 ***


『注釈 題意』


 机に開かれた原稿用紙を睨みつける。もう何時間もこの姿勢のまま、シャーペンを無駄にかちかちと鳴らしては、幾度となく芯を殺し続けている。いっそ、今私に殺された芯の気持ちを代弁する詩でも書いてやろうか。そんなことを思った。

 自暴自棄というやつか。400字詰めの原稿用紙は未だ一枚程しか埋まっていない。書かれている言葉は単語の域を出ず、まとまったところで意味なんて孕んじゃいなかった。当たり前だ。ただそれっぽい言葉をつなげて、そこから連想されるものをまたそれっぽい言葉で連結させているだけなのだから、そんなものに題意なんて存在しない。

 そこまで考えて、もう一度シャー芯を折った。鳴り響く蝉噪はいつの間にか音を増して、アブラゼミのじりじりした声が私の脳内を占拠する。不思議とミンミンゼミの軽快なリズムは聞こえず、夏の暑さを代弁するような、陽炎に揺れるみたいな不安定が安定した声が頭の中を掠め取る。イライラする。アイツらはただ交尾するために鳴いているのだ。発情した、セックスしたいと騒ぎ立てるだけのセンシティブで保健体育な声を延々と響かせて、なんで蝉の声を聴いてエモを感じなければならないのだろう。そんなインモラル的なエモなど、否定しぶっ壊して然るべきではないのか。

 街に出れば自然と耳に入る、某動画サイトで流行りきりの音源や、無駄に褪色したセピアを背景に少女が躍るだけのよくわからない動画が脳裏に浮かぶ。時代は常に前に進み、利便性が上がるにつれて孤独が深まるこの世の中で、人々はさらに人同士のつながりを求め始めたらしい。

 本命が別にいるクズの男に耳元で「好きだ」とか「愛してる」だとか囁かれただけで、「自分は彼の一番になれたんだ」と思い込みクズに献身する馬鹿な女が好き好んで聴くような音楽が、街に飽和して感情を運んでいる。

 私にとってそれは、蝉の声とほとんど大差ない。セックスしたい、発情したとわめくだけのアイツらのけたたましい声と、街を溢れる「私はかわいそうなの!だから肯定して!」と言わんばかりの承認欲求馬鹿女が好きそうな音楽なんて、ほとんど同じような物だ。されど、それを欲しがるのが世の人間なら、私は世の人間のためにインモラルエモの詩を書かなければならなかった。そんな生活を長く続けて、インモラルエモやエロ売りした歌詞を綴ることで飯を食っている今の私には、商業作家としての矜持はもうどこにもない。初めはどこかで灯っていた、自分の文章で人を殺してやるんだという熱意は、いつの間にか冷めてどこかに溶けていた。私の文章で最初に死んだのは私だったのだ。胸の中で何か薄ら赤い感情が湧いていく。

 何かを書き、作り上げる。そうでもしなければ、私は私の人生に価値を見出すことができない。そんな焦燥が、腰のあたりを薄く刺激する。全部蝉のせいだ。アブラゼミが発情しているからだ。私が怠惰なせいでも、夏が暑すぎるせいでもない。

 手にしていたシャーペンを投げ捨てて、ベッドに身を投げた。シャーペンを失って自由になった右手が、されど自由を持たぬふりをしながら伸びていく。何かを考えているわけでも、何かがしたいわけでもない。強いて言うなら、夏であることが問題だった。私には、蝉の声が全てセックスに聞こえるのだ。じりじりと揺れる陽炎がちょっとだけ淫らに見えてくるのも全然不思議じゃない。

 うつぶせになる。ない胸が圧迫されて、なぜか泣きそうになった。気管が狭まったからだ。泣いている時苦しくなるのと似ている。脳に酸素がいかなくなる。何も考えられなくなる。何も考えられないけど、なぜだか少し切なかった。下腹部に伸びた指が誰かに見られることはないというのに、妙に緊張する。酸欠に陥っていると、催眠状態と同じ効果があり、快楽が増すという話を聞いたことがあった。

 頭の中が徐々に、蝉に支配されていく。蝉、夏、エモ、発情、セックスetc……

 連想ゲームは次第にあらぬ方向に進み、もう止まることはできない。体温が上がり、息切れを自覚した。下だけでも脱ごう。どうせ脱いでも、暑いからだと言い訳すれば不審がられることもない。一人暮らしの20代前半女性にとって、他人の目や言い訳なんて考える必要もないが。

 時計に目をやる。時刻はまだ11時になったばかりだった。こんな真昼間から何をしているのだろう。という焦燥より、名状しがたい背徳感に余計興奮する。されどそのすぐ後ろ側を虚無が追いかけてきている。焦ったようにパジャマ代わりのジャージに手をかけた。うつぶせのままズボンを脱ぐ時、少しだけ腰を上げなければいけない。その姿勢が官能的で、これまた少しだけ興奮する。腰のあたりが涼しくなって、山場は超えたのだなと思った。変に疲れて、脱ぎ切らないまま腰を落とす。

 こんなことしている暇なんてないのに、意識も思考も、あるものすべてが何かに乗っ取られているような感覚だった。もし仮に、本当に乗っ取られているのだとしたら、それはおそらく蝉だ。蝉に思考を乗っ取られているのだ。だからこんなにも交尾をしたいと願っているのだ。蝉が交尾を生の対価と目標に掲げているように、私は交尾に準ずるこの行為を、自身の焦りの対価に据えているのだ。自傷気味に、自らを痛めつけるように鳴きだす蝉のように、私も私の体を痛めつける。お前にはこの程度がお似合いだと、蝉時雨が半裸に叩きつけられる。内臓を抉りだすみたいに、暴力的に。しかし蝉は無情で、何の前触れもなく不意に飛び去っていく。私を乗っ取っていた蝉は消えて、自由を取り戻した脳で自身を客観視する。何かとてつもなく死にたいような、えも言えぬ虚脱感を覚えた。


 もう、詩を書く気力などどこにもない。人が求めている薄ら寒く気色悪い曲を書くことでしか生きられないなら、いっそ死んだ方がましかもしれない。そんなことを思い始めた。最初に仕事として詩を書いたのは、中学三年の時だ。あの頃の私にはまだ青さがあった。自分の思う世界を描くという目的があった。私の詩を好み聴く人もまた、私の描く世界に共感してくれる人が多かった。私は、そういう人たちに向けて詩を書いていく。あの頃はただ、それだけで良かったのだ。

 曲を書けば書くほど、私の事を好きだという人が増えた。私も、詩を書くことが好きだった。詩にならない言葉をメロディに込めて、誰かに届けることが好きだった。私の思う世界が人に認められていく感覚が、その時は何より心地よかった。

 そんなことを数年続けた。私の儚い十数年の人生には視点が足りない。自分の視点も他人の視点も、何もかもが足りなかった。自分が何を描きたかったのかを忘れた私は、ただ人が望む物を描いていくだけの巨大な偶像になった。それは、いつしか影を作るようになり、気付けば私の周りは、広大な盆地のような構造が広がる荒野に変わっていた。もう逃げることはできない。学も無ければ人もいない私には、もうこれしかない。音楽をやるしか生きる道がない。そう思い込むようになった。


 この世界の数多は文章で構成されている。人は土地に住まず、言語にこそ住むといったのは誰だったか。偉人がそんな言葉を残すほどに、人間は言葉に依存しているらしい。

 言葉を見て何を思い何を考えるか、を限定的に捉えた物が詩だとしたら、詩を読むことは言葉に対する解釈を作り出すことを言うのだろうか。よくわからなくなってきた。数分前に美人な店員が持ってきたおしゃれなパンケーキを一口だけ頬張る。するとすぐに二口目を含みたくなる。いつの間にか手が止まらなくなり、気付いたら全部食べ終えていた。脳が糖分を欲していたらしい。暴力的な甘さが舌を絡めとる。それは、一種の自傷のように思えた。冷静になる。いっそ世界そのものを爆破してやりたい。エモは世界の進むべき方向だという話がある。だとしたら、私は世界とは逆の方向に進んでいるのだ。大衆食堂に置かれているブラウン管が、少しくぐもった音をしたアナウンサーの声を押し流す。都庁に爆発物を投げ入れたたという20代前半女性を非難するその内容に、民主主義の崩壊を謳う左派が集い暴動を起こす。それは詩ではないのだろうか。まるで詩的なニュースではないか。

 デモクラシーを訴える政治家が演説する中、青年が槍で彼を刺し殺すというショッキングな事件が起きたらしい。民主政治を訴えた彼をその主役足る青年が刺し殺すなど、まさに詩ではないだろうか。誰かを大義のために殺害するという思想は、行動に起こせば耐え難い痛みを孕む。が、ただ計画するだけなら、その計画書は詩ではないのだろうか。もし意図を持ち小説にしたならば、それを文学と読び差し支えあるだろうか。

 人を殺したいという価値観など、誰かに対して覚えた明確な殺意を、死ねという言葉にして相手に突き刺すことと何が違うのだろうか。感情について語る、昔の文学者が浮かばれる。


 感情について論じ、自らの感情を目の前の相手に突き刺そうと思った時、手にしているのが刃物か言葉であるかの違いは、些細な間違いに他ならない。仮にそれが刃物なら、その人間は人殺しに、言葉なら文学者になるのだ。


 だとしたら都庁に爆発物を投げ入れた反社派の女も、政治家を刺し殺した青年も、あるいは二人とも、詩の一種なのだろうか。

 詩という言葉で括られたものに意味を求めることが間違っているのかもしれない。詩はそれを詩だと思った時、全てが等しく詩に変じるのかもしれない。

 なら、一体、詩とは何なのだろうか。もう何もわからなかった。


 気づけば周りの景色は、大衆食堂からいつもの喫茶チェーンに変わっていた。押し流されるだけだったニュースも、いつの間にか流行りのなよなよとした恋愛ソングに変わっている。これもまた詩だ。この世の全ては詩だ。詩になり得ないものは存在しない。ならもう、なんだっていいじゃないか。


 私は詩が書けない時、他人が書いた詩を読むようにしている。参考程度にも、趣味の一環としてもだ。

 特に最近は、幾つかの詩を読んでいくにあたって、その題意を読み取るように心がけた。特段伝えたいこともなく、かといって殺したい人間もいない。良くも悪くも影響を与えたい人間がいない私は、言葉を詩にしてまで高尚化して伝える必要もないのだ。半ば盗作のように、他人が練った言葉を我が物にしていく。その過程が、今の私にとっては、思索であり詩作だった。それ以上もそれ以下もなく、他者の冒涜こそが私の詩だった。

 だから思ったことがある。詩的と呼ばれる物の共通点として、言葉や感傷を湾曲的に伝えている、という特徴がある。これはおそらく偶然ではない。湾曲表現にすることに、何か意味があるのだ。日常を切り取って物を考えた時に、湾曲的な表現を使うことにはどんな意味があるのか。例えば、伝えたいことを遠回しに伝えることで、自分の意志がそこまで強くないことを表現したい時などがあるかもしれない。あるいは、直接言葉にするのは恥ずかしいから、相手の自発的な思考で自分の綴る言葉に含まれた意味に気付いて欲しい、とか。

 もしかしたら、ここが詩の本質なのかもしれない。

 詩は、読んだ他人が自らの感じた苦悩や感傷、感情に、自発的な思考で気付いてくれるような書き方をしているかもしれない。詩を読み感動した人が、「私に寄り添ってくれるような言葉たちに」という表現をしているのを度々目にする。あれはもしかしたら、詩が言葉を湾曲的に伝えていることによる自発的な解釈により、あたかも自分に寄り添っているように思わせているのかもしれない。

 もし、それが答えだとしたら、答えだとしたら何なのだろうか。私たちは詩を、どう分解して読み解いていけばいいのだろうか。

 普段考えないような事を考えると、だんだんと気持ちが憂鬱になっていく。蝉噪は未だ止まず、世界のどこかではミサイルが飛んでいる。蝉の声も、ミサイルの滞空音も、大して変わらないのかもしれない。不意に凪いだ蝉の声に、なぜだか少し死にたくなった。それは周期的な物で、月に一回か二回はあるような、人間ならしょうがない希死念慮だ。ただそれを、アブラゼミのせいにしてはいけないだろうか。野暮だろうか。アブラゼミの発情した声が、狭い部屋の中いっぱいに満ちている。

 今の私に寄り添ってくれる詩はあるのだろうか。もしなければ、自分で作ってしまえばいい。でも、詩を作るとはどういうことなのだろうか。自分に感情を、どこから切り取って、どこから表現すれば、自分に寄り添ってくれる詩が作れるのだろうか。

 考え疲れた。もうわからなくなった。他人がやけに高尚ぶって錬成した言葉の塊など、読むに堪えないと思っていた。けれどもしかしたら、高尚ぶっていたのは自分自身なのかもしれない。

 言葉を練っていくという行為そのものは平易な物でも、いざ人に寄り添えるような湾曲的な詩を作ろうとすると、上手くいかない。私は勘違いしていたのかもしれない。私は間違っていたのかもしれない。蝉の声全てがセックスに聞こえてしまう様に、ヒグラシの声が死ねに聞こえる人間がいるかも知れない。けれど、そのヒグラシが死ねと言っている事を直接伝えても、「何言ってんだ」と嘲笑されて終わるだろう。

 私が蝉の声を発情セックスだと断じているのも、ある人が見れば嘲笑の対象かもしれない。もしそうなら、私は蝉の声が発情セックスであることを、その人の内側にある感性を刺激して、納得させられるような表現を取らないといけないかもしれない。

 その過程が、詩的を形作っていくのかもしれない。



 八月になった。孤独である私は自由だった。例えば今ここで全裸になり父の遺物であるギターを片手に窓から身を乗り出して世界を破壊する詩を語って聞かせようが、誰も私の事を責められないのだ。

 蝉の声が窓を貫通して部屋を満たす。腹が立ち、そのままの勢いで窓を開けて、蝉に向かってCコードをかき鳴らす。メジャーコードである分、まだ蝉の方が有利だと言えた。家に誰もいない分、簡単に静寂が壊れてしまった。イヤホンを付けても、ヘッドホンを付けても、蝉の声は聞こえてくる。先ほど私が鳴らしたCコードと同じ音で、アブラゼミがじりじりと夏の日差しを照り付けている。まるで脳内に直接響いているみたいに、ずんずんと私を焦らせている。

 頬が上気する。体温が上がっていくのを感じる。焦る気持ちとは裏腹に、焦れば焦るほど自暴自棄になる。自暴自棄になればなるほど、自傷に走りたくなる。そして、私にとっての自傷は、自慰行為のようだった。内臓をえぐり取るような行為であり、多少の痛みを伴う以上は、仕方のないことなのかもしれない。背徳的なその行為が、本来であればどういう時に得られるものなのか、私にはわからない。焦る時、死にたい時、私は無性に自慰に耽ってしまう。それが言葉通りの自慰であるのか、自傷を孕んだ慰めであるのか、私にもわからない。

 わからないままシャーペンを投げ捨てて、ベッドへと転がった。


 うつぶせになる。胸が圧迫される。呼吸が苦しくなる。脳に回る酸素が少なくなる。意識が遠のいていくのを感じる。それはまさしく自傷だ。世のメンヘラが自傷行為で快楽と安心を得るのと同じように、私はきっと、自慰行為と自傷を同列にしているのだ。そんなことを言っても、「お前は何を言っているんだ」と言われそうだと思った。

 上手く伝えようとして言葉を尽くしても、それは言い負かそうとしているのと大差ないように感じられる。

 腕が腰へと至る。快楽を求めて伸びた指が下腹部をなぞる。呼吸が苦しい。頭が痛い。視界が蒼い。眠たい。具象化した焦燥が音を立てて室内に満ちる。狭まった器官で必死に呼吸をする。痛い、苦しい、辛い。

 呼吸が浅い。息を吸う度にひゅと、過呼吸のような音が漏れる。意識しなければ息を吸えないのに対して、反射的に息が吐かれていく。どれだけ吸い込んでも、結局全て吐き出してしまう。まるで摂食障害のようだと思った。

 レースカーテンから差し込む薄い光が部屋を灰色に染めている。昼下がりの様相で、天井が私を見詰めている。段々と頭が回らなくなっていく。意識が沈んでいく。灰色に落ちていく。

 何かがわかった気がした。やはり、この世の全ては詩なのだ。詩になり得ない感情も感傷も行動も、この世には存在しない。

 だとしたら、もし仮にこの行為そのものを詩と表現してもいいのなら、私はきっと空っぽだ。空っぽだった。空っぽだから、何かを求めるから、詩を書くのだ。そこに意味があると信じているのだ。あるいは、最初はそうだった。空っぽを埋めるための空っぽな詩で、私の空っぽは埋まってしまった。もう二度とこの空虚が埋まることはない。

 なら、私にできるのは、精一杯の搾取だ。

 あの夏の蝉噪が煩わしく思える程の、拙い昨日を飼いならすような今日を。未来の自分が俯瞰しているようなその錯覚を。その全部を詩にするのだ。

 いや、詩にするという感覚こそ間違っているのかもしれない。これは搾取だ。詩になりうる全ての物から、私は詩を奪うのだ。劣悪も美醜もモラルもインモラルも、何もかもを奪うのだ。全ては私の物だ。この世のすべては、私の詩になるのだ。


 詩を書く人間は総じて空っぽだ。肉付けされることのない言葉を、受け取った人に補完させることで完成する文章など、全て空虚で空っぽで冷たくて。

 でも、少しだけ暖かい。それはきっと、詩そのものが持つ空虚さに、自らが入れ込んだ体温を自覚するからだ。中身のない空っぽな言葉は、対流により流れ込む自らの血液の温度を教えてくれるのだ。

 私は詩が好きだ。詩を読んでいる時だけ、自分が蝉ではなく人間であると思い込んでいられる。詩を書く時だけ、自分が人間になったのだと妄信できる。

 私が人になれる日など来ることはないというのに、私は人になることを渇望している。だから思う。決して全ての人間が等しく同じ感傷を抱く必要はない。同じ感想を抱く必要も、同じ感情を伝達させる必要もない。中身のない空っぽに何を入れるかなど、人により万別されて然るべきだ。平熱は、全ての人が平等に持つ者の中で、最も簡単で最も単純な、それでいて最も異なった物だ。


 焦燥は摩擦にして、現実と空想を隔てる巨大な壁だ。その壁に立ち竦み、私たちは回り道をしようとする。その壁が巨大であればあるほど、私たちは先の見えない道程に思いを巡らせては、嫌になり来た道を引き返す。しかし、壁は常に私たちの行く先々をついて回る。その繰り返しの中で巡った壁は、引き返すことでは決して乗り越えることはできない。破壊しなければならないのだ。

 そして、閉塞を破壊した時、部屋に差し込んだ光に何を思うかもまた自由だ。


 空っぽだから、何かが必要だから、他人を求めるから、詩を読む。

 私はその行為を、自傷と呼ぼう。

 全ての音楽は、詩にならなかった言葉だ。全ての詩は、音楽にならなかった言葉だ。

 ならば、言葉にならない音色は何と呼べばいいのだろうか。あの夏の蝉噪を、なんと形容すればいいのだろうか。

 それは自傷と、一体何が違うのだろうか。あの夏に住む亡霊を殺して、その亡霊が残した影を半紙に塗りたくることを人生と呼んではいけないのだろうか。

 そんな詩を書いた。私はまた一つ、世間からの評価を得た。

 街に出れば、私の書いた詩が、綴った音と共に、飽和せんと流れ続けている。わざわざそれに耳を傾ける人はおらず、私もそれに耳を傾けることはしない。ただ、衆生の中を流すにはあまりにもモラルに欠けた歌詞を、それらしいエモーショナルなメロディと組み合わせているだけなのに。耳馴染みの良い言葉通りの歌詞を揶揄するように、詩の中に孕ませたインモラルがエモを借りて街を包んでいるのだ。大人も子供も、あらゆる民がインモラルを好み伝染させ、自らの置かれた環境を呪いながら、それに縋り、あたかも感傷的であるかのようにふるまい、それを喧伝して回っているのだ。少年少女のうろつく雑踏を転がるように生きている中年浮浪男性を想起させるようなアンダーグラウンドを、きらびやかな音色で装飾しては殺しているのだ。恋人に遊ばれているだけだとわかっているにも関わらず、好きだからという理由だけで一途に彼を愛し続ける騙されやすいメンヘラを称賛する詩を書いて、私は金を貰っているのだ。

 一体何をしているのだろうか? そんな問いが数多浮かぼうが、知ったことではない。何故なら、そのインモラルもまた詩だからだ。インモラルエモは死ぬべきだ。そう思うが故に、インモラルエモは消えず、絶え間なく蠕動を続ける。私の全ての名声は、インモラルの風上で消し飛ばされた胎児の産声に違いない。そう考えると途端に、私自身の思索に意味があるように思えてきた。


 深夜の歌舞伎町で、ホストクラブを前に泣き叫ぶ若い女を横目に思った。

 次は彼女のような女を称賛する詩を書こう。ああいう女は、金を持っている。

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詩作 孵化 @husihara

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