3:孤独と子供
幽霊の少女はまた現れる。路上ライブの頻度は一週間に一度くらいだ。学校に行こうとしている日もあるし、実際通っている。気が向いた時、余裕があるときしか歌いに行くことはない。
ただ、もしかするとまた会えるかもしれないとの期待があって、駅前に足を運んだ。会えなくても、音楽には価値がある。個人的かもしれない価値が。
歌い終わっても、彼女はすぐには姿を見せなかった。明るい駅前ではなく、ちょっと暗い路地まで探しに行った時に、ひょっこりと物陰から出てきたのだ。そういう約束で存在しているのかもしれない。
また、黄色い服だ。着替えることは出来ないのだろう。
「やあ」と、挨拶。
「こんにちは!」と返ってくる。
元気だ。死んでいるとは思えない。
生きていないから元気なのか。なんだって、疲れることばかりだ。しがらみから自由になった姿、という連想もする。
ただ、駆け寄ってくる少女の様子を見るに、人との関係は疲れるだけではないのだろう。むしろもっと、人を幸せにしてくれるもののはずだ。
「俺以外に、会っている人はいる?」
「おじさんだけ。初めて話せた」
おじさん、か。妥当な評価だ。
「どこか、行きたいところはある?」
「かべのむこう」
「どうかな。行けると良いな」
壁までは少し歩く。俺たちは横に並んでそこを目指した。
夜の散歩だ。冷たい風が傍を通り抜けて、体温を調節してくれる。空気は澄んでいる。今日は月が綺麗な日だ。
少女は急に駆け出したり、戻ってきたりする。そう、子供とはそういうものだ。大人とは、違う時間を生きている。彼女はずっとその時間に取り残されているのだろうか? 幽霊も成長するのだろうか?
「なあ」
「なに?」
「寂しい? 幽霊って」
「幽霊なの? わたし」
「さあ。幽霊って呼ぶんじゃないか」
「じゃあ、幽霊」
「そうかもな」
「さびしいよ」
「そうか」
寂しいなんて状況は普通はあまり起こらない。少なくとも、子供のころは。どこかで見守ってくれる大人がいたし、学校に行かされると人がいた。寂しいって言葉がようやく理解できたのは大学に入ってからだ。
「もっと遊びたい」
「それは、俺とか? それとも、誰かと?」
「誰でもいいけど、おじさんがいい」
求められるのは悪い気がしない。
子供が急に走り出したので、試しに追いかけてみることにした。前回の邂逅では、ギターやら何やらを持って走っていたのだ。あれは後から筋肉痛になった。今日は全部ロッカーに預けている。
彼女は楽しそうに走る。子供のころ、体を動かすことが特別だったのを思い出す。走れるようになったばかりだったから、走るだけで楽しかったのだ。
靴音が家の合間に反響して、それも面白い。ガレージなんかがあると、その空間に音が良く響く。その音に気づいているだろうか?
しだいに遠くから、白い壁が見えてくる。子供はうつむいて足を止めてしまう。良くないな、と口に出して呟いた。
「なあ、通れないなら通らなければ良いよ」
「うん」
「公園でも行って、けんけんぱして遊ぼうぜ」
「うん」
少女は返事をしているけれど、その顔はぐしゃぐしゃになって、今にも泣きそうだ。壁の向こうに何があるのか。何かがあるから、ってわけでもないのかもしれない。死んでしまったとたんに、出来ないことがたくさん増えて、それがとても悲しいからなのかもしれない。
幽霊は人と話せない。俺はどうやら例外なのだ。人と話せないまま、どれくらいの時間を過ごしてきたのだろう。それはどのような体験なのだろう。俺がいきなり金持ちになって、何でも通販で届くようになって、でも誰とも結婚していなくて、そうしたら人と話さなくなる。いや、それは自分で選んだ孤独だ。話そうと思ったら誰とでも話せる孤独と、話す手段がない孤独はわけが違う。
少女は壁に手を触れて押してみるけれど、壁はびくともしない。これ以上強く押したらきっと彼女は泣いてしまうのだ。だから、我慢して、手を触れるだけにしているのだ。どんな言葉をかけたとしても、それはこの悲しみに満ちてしまった空気のバランスを崩すことに繋がって、心から涙があふれてしまう。
俺は黙る。ただそこにいることに注力する。人がいるということは大切なことだ。やがて水は引いてゆき、彼女は壁から手を放す。
夜は深い。でも、日の出までにはあと五時間ある。今は夏だから日の出が早い。けれど今の時間は夜の勢力の方が優勢だ。
前回は眠たくて、少女が泣き止んだ時に帰ってしまったから、今回は出来るだけ彼女といてやろうと思う。先輩との話は聞かなかった振りをする。泣きそうな子供がいる。それが、人間だったとしても幽霊だったとしても、関係がない。
壁の向こう側に何があったかを俺は答えることができない。このあたりの地理を知らないからだ。前回子供と会った時に、初めてきた場所になる。地図を見れば分かるけれど、簡単に得られた答えに意味はないような気がする。
自分の行動範囲を思い返すと、狭いものだ。家と、家の近くのコンビニに行く。大学に行くから、その途中の道は覚えている。よく行くショッピングモールはあるけれど、よく考えたらその建物以外の商業施設にあまり行ったことはない。駅の路線だって、降りたことがない駅がたくさんある。大学の一つ隣の駅は、桜で有名だ。一度も、見に行ったことがない。
幽霊の少女との夜の散歩は、そんな俺の世界を広げてくれるだろうか。ひょっとしたら、夜中に出現する白い壁みたいなのは、本当は世界に沢山あって、その時間まで起きて歩き回っている人がいないから気づかれないだけなんじゃないだろうか。幽霊に連れてきてもらえないと、気づけなかったものだ。
「なあ、この辺の場所ってよく知ってるの?」
「ときどき来たことがある」
「公園とかある? そこで遊ぼうか」
「かべのむこう」
「ああ、すまん。それ以外は?」
「たぶん、こっち」
ゆっくり歩いて公園に向かう。マンション付属みたいな小さなものじゃなくて、しっかりと広さのある公園だ。夜だから蝉は鳴いていないけれど、昼になると騒がしいに違いない。
子供と遊ぶのは久しぶりだ。自分が子供だった頃まで遡らないと、子供と遊んだことはないかもしれない。親戚も、年上ばかりだった。複雑な構造をした滑り台が公園にはあって、女の子はまずそれに走りよった。
「きゃー」
滑り台を下から上へ駆け上って、階段で降りてくるという遊びを今はしている。俺も一回滑り台に上ってみたが、大人が遊ぶと壊してしまいそうな気がして、ベンチに座って見守ることに決めた。
「のぼれた!」
逆走に成功するたびに、こちらへやってきて笑うのだ。そのたびに、「すごいな」と言ってやる。ただそれだけのことが、どちらも楽しいらしい。今まで俺の中に存在しなかった父性が芽生えつつある。
たまに、滑り台の正しい使い方をして、きちんと滑ってくるときもある。降りるところにある砂場に足をつけて、急にでんぐり返しをする。普通の子供だったら親がびっくりするところだが、幽霊の彼女の服が汚れた様子はない。
いろいろな悲しさをひと時忘れているみたいに、遊んでいる。はしゃいでいる。それを見守っているうちに俺も嬉しくなったり、悲しくなったりする。そのそれぞれの感情にはまだきっちりとした理由はなくて、その純粋な感情だけの状態が、一番大切なのかもしれないと思う。
「はしって!」
そう言われたので、追いかけて走る。健康遊具の隙間を通っていくのを、俺は通れないので迂回してついていく。公園を二周くらいして、二人とも疲れてしまって、ベンチに腰を下ろす。特に女の子の方は、疲れ切った様子だ。さっきからずっと、遊んでいたのだ。
「大丈夫?」
「うん」
「疲れた?」
「つかれた」
「眠くない?」
「ねむたい」
俺が眠いのは昼から起きているからだけど、彼女が眠そうなのはお昼寝の時間みたいなことなのかもしれない。公園のベンチの、仕切りで区切られた一人分の区画にぴったりとおさまるようにして、丸まって眠ってしまう。じっと見ていると、その姿がだんだん透明になって行って、最後には消えてしまう。
公園が、途端にがらんどうになって、夜も少し冷たくなったような気がして、俺はぶるりと震える。しばらく待って、起きてこないのを確認したから、俺は帰る。駅のロッカーでギターとスピーカーを回収して、家で寝る。
公園で最後に吸い込んだ夜の空気が胸に残ってしまって、次の日は一日中寂しくなる。
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