2:先輩とカスミ

「幽霊に会いました。それと、世界の終わりの壁を見ました」

 俺が言うと、先輩は眉をひそめる。肉を一口大に切って、口に運び、もう一度怪訝な顔をする。酒を飲む。今日飲んでいる赤ワインは出てくるときに何かの説明が付加されていたが、その意味するところを理解できなかった。

「なんだ、お前。ついに幻覚でも見始めたか?」

 もっともな反応だ。今のところ、それを否定する根拠はない。実際、自分でも信じているわけではない。次の日の昼に、壁に塞がれていた場所を見に行ったが、目立つものは何もなかった。

「世の中、不思議なことがあります」

「変な薬に手を出したんじゃないだろうな? 俺の知り合いにも何人かいるよ。実のところ」

 先輩と俺は、中高一貫校に通っていた頃の柔道部で一緒だったという関係性がある。先輩は若くして起業し、成功した、まさに時の人だ。カリスマ的だとの評判もあるし、時流に乗ったという人もいる。とにかく、脚光を浴びているのは間違いがないだろう。本当は、俺なんかと話をしている場合ではない。奇妙な縁だと言える。

「もう一度言いますか?」

「言ってみろ。にわかには信じられん。繰り返して、何か矛盾があれば嘘だと分かる」

「信用、ないですね」

「誰だって信用ならん。裏切ったり、嘘があったりするのを前提としたシステムを作るのが正攻法だ」

 彼にもう一度説明する。歌い終わったころに現れた黄色い服を着た幽霊の少女。体がすり抜けて触(さわ)れないこと。夜の散歩。最後に出現した途方もなく大きな壁のこと。

多少、熱が入っていたかもしれない。こういった時に作り話はあまりしないことにしている。そんな僅かな誠実さは、あるいは怠慢であると先輩に指摘されるところだ。裏表がないこと、真っすぐなことは、自分の醜さを隠さない点において怠惰だと彼は言う。成功者の意見だから、きっとそれは正しい。

 ただ、先輩はそんな俺が好きだと言って、関係性を続けてくれている。

「うーむ。信じるとするなら、何かのトリックだなぁ」

「自分の感覚では騙されている感じじゃないですけど。騙して、何の得があるんです?」

「得は、あるだろう。想像もしないことで利益を得る人がいる。それは、金銭だけじゃない。例えば、霧が濃かったとか、あったか?」

「いや、気づかなかったですけど」

「霧をスクリーンにして、映像を投影する。暗いから少々ぼやけていてもわからない。どうだ?」

「数キロくらいは歩いた気がします。セッティングが大変ですよ」

「そこは、ドローンとかだ。うん」

 肉料理の皿は下げられて、次の皿が並べられる。実際のところ、先輩に連れられて入ることになる高級料理店の味は、よく分かっていない。美味いことは分かるが、それ以上は何とも言えない。さっきの肉だって、ラム肉だと言われても納得してしまうだろう。

「でもなぁ、霧。うん。カスミか」

「なんですか? 先輩」

 彼はワインを一口飲んで続ける。

「お前、そりゃ、カスミだよ。カスミを食っているようなもんだ」

「霞を食うって、仙人の」

「意味、無くないか。その幽霊」

「意味って、何のですか」

「お前の人生にとっての意味だよ。なんでそんな物に付き合って夜更かししているんだ。次の日、起きられなかっただろ」

 次の日は確かに、学校を休んだ。痛いところを突かれた、と思う心がある。でも、意味だって? 少女の幽霊が与える意味。果てしない壁が与える影響。泣いていた子供が俺にとって意味がないって?

 それに、俺を騙すことに意味があるかもしれないと言っていたばかりだ。矛盾している。

「意味がないことをするなとは言わないが、それってカスミだと思うんだ。何かって言うと、パンに対するカスミ。栄養がないんだ。人はパンを食わないと生きていけない」

「子供を助けるのは必要なことじゃないっていうんですか?」

「俺だって助けるよ。普通の子供は。でも、なんだかな。幽霊の子供って助ける必要あるのか? この世に存在しないんだぜ。ちゃぶ台返しみたいで悪いけどさ」

 幽霊少女の顔を思い浮かべる。触(さわ)れなかった手。子供を助けるのは子供と、探している親を助けるためだ。それは二つとも現実にいるから助ける必要がある。幽霊の子供にも親がいるだろうけど、その親たちは自分の子供の死をきちんと受け入れようと今頑張っている最中なわけで、俺なんかが出ていって子供に会いましたなんて言っても迷惑なだけだ。

 幽霊の少女が見えるのが俺だけだったり、それかごく少数だけだったとしたら、それは現実に存在しないも同じことだ。助けても助けなくても影響がない。幽霊がいるなんてニュースは聞いたことがない。

「自己満足じゃ悪いですか」

「悪かないけどさ、カスミなんだよ。それって生きる役に立たないんだ。お前の音楽だってそうだよ。大学行くならそれはパンだ。役に立つし、金になる。お前のやってること、カスミばっかじゃねえか?」

 先輩の言葉に俺はうつむいてしまう。料理が急に味がしなくなる。今までやってきたこと、練習した音楽だったり夜の街並みだったりが一挙に心の中にやってくる。その中に、大学の講義の内容はない。

 意味がないこと。意味ってなんだ。人はパンのみで生きるのではない、とよく言うけれど、パンを食べることはきっと必要なのだ。それを最低限の意味だと先輩は言っていて、今の俺にはそれが欠けている。

 でも音楽だって俺に必要だ。意味がある。それは勘違いかもしれないけれど、その勘違いを胸に抱いて今まで続けてきたんだ。

 皿が下げられて、デザートのプレートが出る。ケーキのように見えるが、凝った装飾だ。これも、無意味か? パンをたくさん食べた先輩には、ケーキを食べる権利がある。

「すまんな。言い過ぎた」

 コーヒーを飲みながら先輩が言う。

「でもな、心配なんだ。お前の行く末がさ」

「分かっていますよ。俺、やばいですよね」

「未来が決めることだけどな。客観的に見て、うん。経営者の観察から言っても、ちょっと危険だな。なんか堕落して引きこもり、みたいなこともありうるかもしれん」

 大学行けよなんて月並みな言葉、と先輩は続ける。言いたかないけど。

 ケーキの味は俺にでも分かる。少し酸っぱくてほのかに苦い。レモンの味だった。

 その日はそれで解散になった。先輩は最後に色々と俺に言う。また幽霊を見たら聞かせてくれよ。新しい曲も楽しみにしている。けれどそれが社交辞令なのか、俺には分からなくなっている。

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