砕日

白内十色

1:夜と幽霊

 疲れた顔のサラリーマンがいるな、と思う。駅前の、俺から真っすぐ見える位置に段差があって、そこに座りこんで缶の酒を飲んでいる。体形は少し中年太り、でも小汚いと言うほどのことではない。その座標に届くと良いな、と思ってギターを弾く手に力を込めるが、彼はゴミ箱に立ち寄った後に帰ってしまう。

 あたりを見回しても、政治家のポスターが空虚な笑顔を飛ばしてくるだけだ。通行人にはアイコンタクトを取ろうとしているが、ほとんどの人間はこちらを見てはくれない。歌う歌が、夜の隙間に消えてゆく。奏でるギターも頼りない。

 すっと背を伸ばし、声を張り上げて、ある種の魂なんかも込めてみるつもりで演奏をすると、ふとした瞬間に手元から良い音が鳴った。おっ、と思う。聞いてくれない観客のことなんかも忘れてしまう。再現したくてそのフレーズを弾きなおすと、確かに何かが良いもののような気がする。もう一度繰り返そうとして、他人の目が気になってしまう。演奏に失敗して、やり直しているように見えるんじゃないか? 音楽の神ミューズは帰ってしまう。

 俺の作る音楽と歌う歌が、はたして創作活動なのか破壊活動なのかは判然としない。大学の工学部に昼は通い、夜はギターの練習をする。たまには街に出て人前で演奏することもある。夜間の睡眠不足がカーペットの汚れみたいに染みついたせいで、最低でも一年の留年が確定している。

 ただ、続けることが大事だというのは世間の共通認識だろう。いずれ実になると信じて懲りずに演奏していると、今日も作業着のようなものを着た男が近づいてきて、「兄ちゃん、頑張れよ」と声をかけてくる。それだけのことが俺にはたまらなく嬉しい。男はすぐに立ち去ってしまうが、きっと遠くから曲が聞こえていたのだろう。涙なんかも、出ちゃったりする。

 路上ライブに用意してきている曲は三曲だけ。つまり、自分で作った曲はそれだけだ。あとは、有名な曲なんかをカバーして誤魔化している。休憩を挟みながらそれを演奏して、他のライブ野郎が場所を欲しそうにしているときは代わってやる時もある。お人好しで気弱なラインナップなのだ。

 曲の一つは恋の歌。恋なんてしたことがない。残りの二つは夜の歌だ。それも、通勤の騒がしい夜じゃない。誰もいなくなった夜、歌い終わった後の人通りのないころの夜だ。俺は夜に魅了されているが、夜のことをいまだにつかめずにいる。


 駅に人が少なくなってきたので、俺は歌うことを止める。これから深夜にかけて、街は本当の夜へと近づいてゆく。つまり、水の中を魚が泳ぐような、粘性の高い闇が町を覆って、誰もがその中で黙るしかなくなるような、そんな時間だ。そんなどうしようもない時間がどうも好きなようで、歌い終わった後も町に残留していることが多い。

 そんなもんだから、夜更かしをして、次の日には起きられなくなることが続いている。今歌っているのはあまり人の多くない駅の広場だから、夜更かしを責めてくれる人もいない。観客もほとんどいない。それくらいがどうもちょうど良くて、観客は音楽の本質的なことではないと思っている。音楽とは内面に向かうおこないだ。

 ギターとスピーカーはケースに収納して、駅前の段差に腰かける。そして夜がゆっくりと更けていくのを眺めることが、大事な楽しみの一つだ。ひょっとしたら、音楽より大切な行事かもしれない。作った二つの夜の歌は、そんな時間帯に着想を得たものだ。

 おひねりの箱を確認した。路上パフォーマーにしばしば与えられるいわゆる投げ銭、おひねりの類については噂には聞いているが、あまり実感したことはない。けれど形式上、箱は置いている。何も求めずに音楽だけを発信するという行為があるとして、それは他人から見たら怖いのではないかと推測している。だから、自分の所属を明らかにする、優しさのつもりだ。ポーズだけ、金銭を求めてみる。

 ところが箱の中には五百円玉が一枚、入っていた。びっくりして、あたりを見回してみる。何かの金銭を音楽で得たのは初めてのことだ。左手を気づかずに握りこんでいて、手の中には汗が溜まっている。

 不思議なのは、硬貨を箱の中に入れた人物に心当たりがないことだ。いかに曲を演奏することに集中したとしても、そんなに近くに接近されたら気づいていたような気がする。

 もう一度、左右を確認する。カメラがあったりして。まさか、とは思うけれど。人は、全くいない。コンビニエンスストアの灯りだけが夜を支えている。頼りない街路灯の光と、さらに矮小な自販機も、その仲間か。

 ぴん、と硬貨を指で弾いて、キャッチする。この金は、すぐに使ってしまうのが良かろうと考えた。感謝を覚えているうちに、それを確かなものにするべきだ。俺は孤軍奮闘する自販機の前に行く。炭酸飲料に指が伸び、がちゃんと取り出し口から落ちてくる。

 その時、自販機の後ろ側から、黄色い服を着た子供が飛び出してきた。ばね仕掛けみたいに勢いよく飛び出して、地面に着地して手を横に広げる。

「君?」

 声をかけるとにっと笑ってこちらを見る。爆発的な笑顔だ。俺はもうその笑い方を忘れてしまった。

「おじさん、こっち」小さな手をこちらへ振る。そして走り出す。

「待ちなさい」おつりとジュースを回収して追いかけた。

 さっきの観察が確かならば、この付近に人はいない。保護者がいるとするなら、コンビニの中、あるいは別の建物の中か? 仕方がないので追いかける。いずれにせよ、捕まえたほうが良さそうだ。

 迷子なら、交番に連れていかなければ。

 子供は住宅街の奥へ奥へと走っていく。町の周りの商業施設はすぐに終わってしまうから、ちょっと走るとあっという間に住宅街だ。子供の足だから、すぐに追いつけそうなものだけれど、不思議な力が働いて追いつけない。どうも妙だと、頭の片隅で考える。

 夜の暗さのさなかで、子供の黄色い服だけが、道しるべのようにはっきりと見える。小学校に入ったころくらいの背丈だ。服装の細部から、女の子だろうか。

 どんどんと狐に化かされているような気がして、何度も追いかけるのをやめようかと思う。子供の姿が、それを取り巻く世界が、ゆらゆらとうごめいているような錯覚がある。

 そして女の子は十字路の向こうで立ち止まる。信号は赤く光っているが、この夜だから構いはしない。女の子のところへと大人の顔をしながら近寄った。

 女の子は足元を指さしている。

 そこには、一束の花束が置かれていた。白とピンクの花が中心となっていて、かなり色あせてきている。誰かがここに置いたことは明白で、その意図も、一般的なものがすぐに推察できる。

 そういえば先ほどの信号は赤かったなと、冷や汗が流れた。ずいぶん、現実的な可能性の提示だ。もちろん、子供が交通安全協会の職員だったわけではないだろう。

足元を見ると子供はいなくなっている。区画が一つ離れた道の先に移動していて、またも手を振っている。妖精のような無邪気さと神秘性。今度は信号を見てから追いかける。

 夜風が気持ちいいので散歩をするのは悪くない。現実的でないことは起こっていそうだが、悪意を持っての出来事ではないように見える。

 ふと、自分の親ならこう言うだろうと、脳が推測していることに気づく。

 幽霊なんて追いかけずに帰りなさい。

 親の言葉は常に耳に痛い。


 幽霊の子供はずんずん進む。俺が疲れて走るのをやめると、彼女も合わせて歩いてくれた。手や肩を掴もうとしてみたけれど、俺より一歩前を進んでいて触(さわ)れない。

 声をかけると、返事をしてくれる。たどたどしいけれど、言葉は上手だ。

「お名前は?」

「ないみたい」

「無い?」

「わかんなくなっちゃった」

「じゃあ、好きなものは?」

「りんご! それと、ビー玉」

「そっか」

 夜道の旅は突然終わる。なぜなら十字路の真ん中に大きな壁がそびえ立っていたからだ。少女は座りこみ、俺もその壁に圧倒される。

 壁は夜でも白くて、上にも左右にもどこまでも広がっている。こわごわ触れたところ、表面はざらざらとしていて、少しだけど生き物のような予感もある。だけど叩いても手ごたえはない。それは広く、壮大で、道をどこまでも遮っている。

 登れるようなとっかかりはない。

 大きな、白い壁。

 幽霊なんかより途方もない現象が俺たちの前にある。

 こんな建造物を人間が作ったとは思えない。それは、人が通行できるべき道路を通せんぼするように広がっていて。名前を伝える看板なんかも見当たらない。

「ここ、とおれないの」

 子供が言う。なるほどな。これは、通れない。こんなの、どうしようもない。

 壁には果てが見えない。空のどこかで途切れているというわけでもなく、空の上、下手をしたら宇宙まで繋がっていてもおかしくないくらいに見える。

 ひょっとして俺は世界の終わりに来てしまったのか?

 本当は、世界はここで最後って決まりになっているんじゃないか?

 悲観的な気持ちに襲われていると、子供が泣き始める。子供の扱いなんて、分からないから、髪の毛のあたりに手を置いて様子を見る。ついに触れるかと思ったけれど手は彼女をすり抜けて、やはりこの世のものではないことが分かる。それは、俺にとっても彼女にとっても残念なことだ。

 ただ、頭の付近に手があると安心するらしく、彼女は泣き止む。手を掴もうとして、悲しい顔をするけれど、その悲しさは慣れてしまった悲しさのようで、泣きはしない。目の前には壁。絶対的な行き止まり。

 絶対なんて概念は、この世の中で最も悲しい概念だ。

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