第五話 エメラルドの瞳。


玉森翠葉との出会いは、小学一年生の一学期の頃だった。

僕らは団地ではすれ違っていたものの、実は別々の幼稚園に通っていて、園児の時期は話した事はなかった。


卒園し、小学校に上がり、入学式に行ったその日から僕は学校に行かなくなってしまった。

理由はシンプルで、いじめられたわけでもなく、ただ馴染める自信がなかっただけだ。


一日行かなかったら、そこからもう一日、また一日と学校に向かう自信はどんどん失っていき、一ヶ月丸々休んでしまった。


そして五月になり、僕に転機は訪れる。




ピンポーン。


転機は家のインターホンの音から始まった。


「母さん、インターホン鳴ってるよ。」


その日、僕は平日の昼間から家でテレビを見ながらラーメンを食べるという、それはもうぐーたらな生活を過ごしていた。

当然、インターホンが鳴ったからといって、条件反射で「はーい」と言って玄関に出ていく事も知らないくらいのぐーたらぶりだ。


しかし、今日は違った。


「お母さんいないのー?」


ピンポーン。


またインターホンが鳴る。

お母さんはどうやら買い物に行っているらしい。

僕は立ち上がって、急いで玄関へと向かい、ドアを押し開いた。


「はい?」


目の前に立ってたのは緑のランドセルを背負った女子だった。

服から髪、目の色、ランドセルまで全身緑ずくめで、ピーマンってあだ名でもつけられてそうな格好で、表情は何故か不機嫌そうな気もする。


「あんたが白嶺刹李?」


「え、うん…。」


そのピーマン女は一歩僕に向かって近づき、


「あんたが来ないおかげで私毎日プリント配られる時、わざわざ席立ってあんたの机の下にプリント入れてあげて後ろに回してあげてんの。もう机の下プリントでパンパンだし、いちいち席立つのめんどいんですけど。」


僕に面と向かって思いっきり愚痴を吐いた。


「迷惑かけてるとか思わないの?」


「あ、その…、ごめん…。」


「迷惑かけてるとか思わないの?って聞いてんの。」


「…思う。」


「思うんなら何で来ないのよ。」


「…、行きたくないから…。」


「…明日来なかったから、あんたの席無くすから。」


そう言ってピーマン女はスタスタと風のように僕の前から去っていった。


ボッコボコに言われた…。

今にも泣き崩れそうだ…。

初対面の女子にこんだけ真正面からこっぴどく言われる体験なんてこの先あるだろうか…?

あんな怖い人間が、僕のクラスにいたんだな…。

ますます学校に行けなくなってきた…。


あれ?でもなんかあの見た目…、見た事あるような…。

エメラルドの瞳…、翠緑色の髪…。

確か名前は…、




「ルゥダちゃん?」


「お、目が覚めたみたいだね。」


ブラウンの髪を左右にだんご状に結った、白衣姿の女性が僕を見下ろす形で見つめていた。


「落ち着いていい。私は君の味方だよ。ルゥダから聞いている。少しゆっくりするといい。」


女性は透明なフレームのメガネをクイッと上げ、優しい口調で僕にそう言ってくれた。

その女性と目を合わせていると、すぐ違和感に気づく。


「おっと。それは取らない方がいい。」


僕の手が動いた瞬間、その手がどこへ向かうかわかっていたように女性は忠告する。

僕は、右目の近くまで伸ばしていた腕を戻した。


「傷が開くとか、見ない方がいいとか、そういうんじゃない。視神経と脳を接続するなんて神業した事ないから、視力がまだ安定していないんだ。少しの光でも入れてしまえば一発で失明する。やはりニアは天才だったんだねえ。」


女性はブツブツとそう言いながら部屋を練り歩く。

部屋を見渡すと、どうやらさっきまでいた病院の手術室に似ている事がわかった。


「ここは…、病院ですか?」


「ああ。ここは私の病院だ。私の名前はプリオリティ。君がさっきまでいた病院ではないよ。」


「僕の目、どうなっちゃったんですか…?」


「んー、知りたいかい?」


まるで塾の講師が、最初から問題を知っているのになかなか教えず、生徒の机のそばをブラブラと徘徊するように、ベッドの周りを歩く。


「と言っても、実は私にも何が起きているかよくわからないんだ。わかる事は、君についている右目は君の右目ではない事と、ニアから相当好かれていたと言う事くらいかな。」


「そんな…。」


やっぱりなんだ。

あの時、はっきりと見えた。

あの特徴的な色の瞳。

忘れもしない。

僕の右の眼窩から飛び出た目玉は、僕のではなく、翠葉の目玉だった。

僕の右目には眼帯がつけられ、右目では何も見えない状態だ。

右目の違和感は、あまり無い。

今思えば、病院に辿り着き、ルゥダちゃんと話していたあの時から、僕の右目には翠葉の右目がついていたということになる。

全く気がつきもしなかった。

それくらいに、違和感がないのが逆に恐怖だ。


「今の僕の右目は、ニアという人の目玉がついてるって事ですよね。」


「そうだね。」


女性は落ち着きのある言い方をしながら、近くにある椅子に座り、床頭台に置かれているカニのイラストが書かれたマグカップを手に取り、啜る。

フワリとコーヒーの香りが部屋に漂った。


「プリオリティさんが…、治してくれたんですか…?」


「ああ。落ちている目玉をルゥダが拾ってくれてね。泣きながら私を呼び、まるで泥団子のように両手に閉じ込めていた目玉を私に見せてきたよ。その目玉を見て私はすぐ勘付いた。ニアが君の目に自分の目を移植したんだなってね。」


女性は桃を器用に剥きながら、更に話を続けた。


「ニアは恐らく君をここに連れてくる際、自分のパンペルシェラを渡す為に、網膜認証の鍵である自分の目玉を君に移植したんだ。全く恐ろしい女だよ。」


「できるわけがない…。」


「ん?」


「翠葉にそんな事できるわけがありませんよ!自分の目玉を人に移植するなんて事!!医者だってできるわけがない!!角膜を移植するならまだしも、目玉を丸ごと移植するだなんて、そんな事、現代の医学で可能なんですか!?」


「翠葉、そっちでの彼女の名前はそういうのか…。まあ、君のいた世界の医学がどれほど進歩してるかはわからないが、こっちの世界と実はあまり変わりはない。しかし、ニアはそれをやってのけた。まさに天才としか言えないな。」


「十二年も近くで過ごしてきたんです!彼女と僕の偏差値なんてそこまで違いはなかったし、医学の道に進むなんて一言も聞いた事がない!!ありえませんよ!!」


「君は、彼女の事何も知らないんだねえ。」


その言葉を言われた瞬間、息が詰まった。

その通りなのかもしれない…。

僕は、彼女の事をどこまで知っていたんだろう。

今までの彼女の行動を、一つでも理解できた事があっただろうか…?

死神と自称し続け、突拍子もない行動をとり続けて、僕はそれを近くで見て、ついていっただけに過ぎない。


玉森翠葉は、本当に死神だったのだろうか?


その答えにさえ、僕はわかっていないままだ。


「お、綺麗に剥けたぞ。」


足元にある、ベッドと一体化しているテーブルに剥かれた桃が置かれた。


「食べな。」


「…ありがとうございます。」


「あ、忘れてるかもしれないが、君の鎖骨も治療中だ。専用のコルセットを取り付けてはいるが、体を起こす時は注意するんだ。」


「わかりました。」


僕は痛む肩に耐え、ゆっくり体を起こし、爪楊枝が刺さった桃を掴み、口に入れた。


「うまっ!」


僕は久しぶりにありつけた食べ物に感動し、次々と桃を頬張り、気がつけばあっという間に完食してしまった。


「腹減ってたのか?」


「朝から、何も食べてなかったんです…。」


「おー。桃持ってきた甲斐があったよ。」


女性はそう言うと、白衣のポケットから取り出したタバコに火をつけ、プカーっと吸い始めた。


「あの、ここ病院…。」


「ああ、私の病院だな。」


「ここの院長なんですか…?」


「そうだよ。」


女性は立ち上がり、タバコの箱とライターを僕のベッドに放り投げた。


「それ、最後の一本だからあげるよ。」


「いいんですか…?ここで吸っても?」


「ああ。もうすぐしたら私の部下がここを訪ねてくる。ルゥダも一緒だと思う。」


「わかりました。」


ルゥダちゃんが来たら、ちゃんとお礼しないとな…。


「腹、減ってたみたいだからちょうどいいな。」


「何がです?」


僕はタバコに火をつけ、吹かしながら訊いた。


「今夜、君の歓迎会がてら呑み会だってさ。」


謎の言葉を言い残して、プリオリティさんは部屋を出ていってしまった。


「え…、何の歓迎会だって…?」


ガラガラ。


プリオリティさんが出てすぐ、また扉が開かれた。


「お、起きてるじゃないか!どうだ調子は?」


キリッとした少年のような目。

全体が黒に黄色のラインが入ったつなぎを着た三十代くらいの男性が、病室に入ってきた。


「うわ!!タバコ吸ってる!!」


男性の後ろからトコトコとやってきたのは、ルゥダちゃんだった。


「病院はダメ!禁止っ!!」


「わわっ!」


ルゥダちゃんは僕のベッドに上がり込み、摘んでいたタバコを手に取り、灰皿に揉み消した。


「タバコなら、今から行くとこでたっぷり吸わせてやるよ。」


「え…どこへです…?」


ルゥダちゃんを抱き抱えながら男性に訊くと、前に突き出した拳を、弧を描きながら口元へ持ってきてこう言った。


「お前の歓迎会だぜ。」


「…だから何の歓迎会…?」

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