第6話 はじめての経験

 目の前に小川が横たわり、ジークが歩を止めた。どうやら休憩したいらしい。

「ふは、水が飲みたいのでしょうか」

「俺たちも休憩しよう。そら」

 言うが早いか、ジュノはさっと降りてしまい、エルシャに向けて手を差し出す。

 エルシャはこう見えて、普段は踏み台を使わずともしっかり一人で乗り降りできる。馬に乗って戦場を突っ切ったり他国へ秘密裏に足を運んだりしたのだ。

 エルシャが乗馬に不慣れなわけではなく、ジークが大きすぎて人族はきっと誰でも踏み台なしで乗り降りは無理なはずだ。

「……俺、いつもの馬ならちゃんと一人で乗れますからね……!」

 そう言いながらも、ジュノにひょいと抱え上げて降ろされると自分が幼児かなにかに思えてくる。もはや、威厳とはなんだろうと考えてしまう状態だ。

「馬体は軽い方が速いはずです。

 俺は自分の馬でサライと銀狼国を三日で往復したこともありますからね!」

「ほう、俺とジークに勝つつもりなのか。

次回は遠乗りだな、楽しみだ」

 ジークは小川の水を飲み始めて、エルシャとジュノも小川の傍の岩べりに座り休むことにした。

「エルシャ殿、足先だけでも浸けてみるか?」

 ジュノが呼ぶ辺りを見ると、川底が見えるほどに浅く、岩に座って足を小川に降ろせそうだった。しかし、暑いわけでもなく、王として大人として川遊びに興じるのが果たして良いことなのか、しばらく小川を見つめて考える。

「どうした、怖くないぞ。

俺が手を持っているから心配ない」

「……ジュノ殿、俺は子供じゃありません」

 王の威厳よりも男としての矜持の方を今は守らねばならない。

 乗馬をするには不向きだった靴底の薄い革靴を脱いで、たっぷりと布を使った筒の太いズボンの裾を適当にたくし上げる。

 浅瀬にそっと爪先を浸けて水の温度を確かめると、天気の穏やかさも手伝って充分に川遊びが楽しめる温度だ。

 ぱしゃりと足首から下が全て浸かる。なんの意味もなく川に足を浸すなど、子供のころ以来だ。

 特に、即位してからはほとんど執務室と戦地になった地方の領地の視察との往復で、なにかを楽しんだり愛でたりするようなことはなかった。いつもなにかを考えて、頭を悩ませていたように思う。

 気分転換にと城から連れ出してくれたジュノに改めて礼を、と振り返ると、ジュノもブーツを脱ぎ捨て、簡易だがそれでも騎士の隊服であるのに、裾をたくし上げて小川に入ってきた。

「いい川だ。魚もいるな」

 ばしゃばしゃと水しぶきが騎士服にかかるのも気にせず大股であちこち歩いている。

 いつもと変わらず冷静で落ち着いた表情のまま川の中を覗き込んだり手を突っ込んで石の下を見てみたりしている。しっぽが楽しそうにゆらゆらと振れているのは無意識なのだろうか。

「もしかして……、はしゃいでいるんですか、ジュノ殿」

「む、……。

こほん、こうした所に来ると、どうしても獣人の血が騒いでしまうな……」

 少しの沈黙の後、なんでもないことのように川に石を戻し、先ほどよりもそっと歩いて戻って来る。

「……ふ、ふふ、ははっ。

可愛い所もあるんですね、銀狼国最強の騎士様も」

 強面の狼騎士が、川で魚を見てはしゃいでいる姿は愛おしくて仕方ない。

 ぱしゃっ。

 肩を揺らして笑いを堪えていた顔に、水しぶきがかけられた。

「わっ!? ちょ、なんですか!」

 狼の大きな手で水をばしゃばしゃとかけられると、ただの水しぶきではない。びしょ濡れになってしまう。

「おお、すまない。

人の王におかれましては、川に入るのも恐る恐るだったようなので少々お手伝いしようかと思ったのですが」

 ジュノは大したことないとでも言うように、手を広げてにやりと笑った。

「これが少々ですか!? びしょびしょですよ!

狼の騎士殿こそ本能が川で戯れたいと言っているのではないですか?」

 元来負けず嫌いのエルシャも、水をすくってジュノ目掛けて何度か浴びせかける。

 その後はもう、お互いに浴びせ合い、エルシャが足で水を蹴り上げると、ジュノはエルシャを抱えて深みに連れて行こうとするなど、二人とも大人げなくはしゃいだ。

「はあはあ……。

もう、ネイに叱られてしまいますよ」

 裾どころか全身が濡れそぼり薄い布があちこち身体に張り付いて、肌が透けている。

「一緒に叱られてやろう」

「……ふ、ふふ、一緒に叱られてくれるんですか?」

「ああ、陛下が濡れてしまったのはひとえに護衛騎士の私の至らぬところゆえ」

「はは、あっははは、ジュノ殿がネイに叱られてる光景、想像したら、ははっ、おかしい……」

 腹を抱えて笑ってしまう。

 顔を上げると、思いがけず近いところにジュノの顔があった。

「やっと笑ったな」

「え、」

 前髪からこめかみにつうと垂れる雫を、ジュノの指先が優しく拭う。

 そのまま、指先が頬から顎に滑っていき、顎の下をくすぐるように少し上を向かせられた。ジュノの空色と少し深い青から目を離せないまま、それが近付いてくるのをただ見つめていた。

「ん、……」

 キスをされるとわかっていた。

 青い瞳が近付いて、本当にきれいだと思って目が離せなくなって、このままキスをして欲しいと思ったから抵抗しなかった。

 ジュノの柔らかい毛と口が唇に触れて、熱くて大きい舌が閉じることを忘れたエルシャの口の中いっぱいに入って来る。

 想像したよりも、ずっと優しく舌が動いて舐めてくれる。

 ジュノの濡れたシャツの胸元に手を伸ばすと、腰に回された腕でエルシャの身体を引き寄せてくれた。

 ジュノの匂いと甘い唾液と大きな舌で口の中を舐められるのが気持ち良くて、脳も身体もなにもかも溶けてしまいそうだった。

「は、……っ」

 ジュノの口が離れていくのがひどく寂しかった。

「目に毒だな……」

「……え?」

 ジュノが目を逸らす。

 強くジュノに抱きついたからか、服の薄布はさらに肌に張り付き、キスの余韻で表情はとろけたままだ。

「これでは本当にお風邪を召してしまうな。

帰りましょう、陛下」

「は、い……うわっ」

 まだぼんやりとしているエルシャの太腿から抱き上げてジュノはほとんど片腕一本に成人男性を乗せているような恰好で川から上がり、そのままジークに乗せた。

 ジュノの上着を着せられ城へ帰る間中も、ジュノの匂いを感じる度に顔が熱くなり、夢の中に居るようなふわふわとした心地でジークの背に揺られた。

 幸せで、幸せ過ぎて、胸が痛かった。

 ジュノは、銀狼国の騎士だ。いつか祖国に帰るだろう。エルシャは、サライの王だ。国に殉ずる身だ。

 どうにもならない。これ以上の関係性にはならない。

 今、こうして一緒に居ることの方が不思議なのだ。

 二人でジークに乗り、小川で遊んで、なぜかそういう雰囲気になってキスまでしてしまった。短い間の夢のような出来事。ただ、それだけだ。

 国に殉じ、国民に捧げると思っていたエルシャ自身とエルシャの一生の間で、ほんのわずかなときだけ許された、自分の為の、我儘にも自分の心が求めた出来事だった。

 だから、困るのだ。

 近くなれば近くなるほど、離れるときは身を裂かれるような気持ちになってしまうだろう。それがわかっているのに、ジュノを見ていると近くに行きたくなってしまう。こちらを見て欲しくて、話をしたくて、触れたくなって、触れて欲しくなってしまう。

 そうすると心が幸せな気持ちになるのだと知ってしまった。

 このまま、今日の記憶とこの気持ちだけを小さな箱のようなものに入れて、鍵をかけて誰の目にも触れないように持っていたい。それくらいなら許されるだろうか。いずれジュノと離れるときが来ても、その箱があればエルシャはきっとこの国で独りで王として生きていける。


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狼騎士は人の王にひざまずく @enn5858

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