第3話 エルシャの日常
会食が終わり自室に戻ると、途端に酔いが回るような気がする。
汚したり宝石がとれたりすると大変なので今度は礼服を一番に脱いだ。絹でできた薄布のガウンを簡単に羽織る。
やはり、飲み過ぎている。
頭がぐらぐらとして割れるように痛み、気持ち悪い。
しかし、この程度なら従者を呼んで薬を頼むほどでもないと判断する。酔っているところなど誰にでも見せられるものではない。
獣人の王と会食して酔うなど何を考えているのか、などと翌日には城中の噂になっているだろう。
揺れる頭で先ほどの会食を反省したり、もう一度考えるために机の上の紙にインクで走り書きをしていると、手が止まる。
「はぁ、嘘だろ……あんなかっこいい狼獣人をこれから毎日傍で見られるってこと……?」
近くで頭を垂れる狼の姿を思い浮かべる。美しい白銀の被毛は近くで見ると、まるで夜露に濡れる銀糸のようだった。視線を伏せていたから瞳は見れなかったけれど、代わりにとても良い匂いがした。甘くて重厚でほんの少し香ばしい、思わずあのふかふかな毛皮に顔を埋めてずっと嗅いでいたくなるような香り。
あのたった数分間の挨拶の瞬間を思い出してうっとりとする。
扉を控えめにノックする小さな音で我に返った。
従者はよほどのことがない限り、この時間に部屋へ来ることはない。
「……なんだ?」
扉の側まで行って、返事をする。
「夜分に失礼する、ジュリアーノだ」
「え、」
途端に心臓が早く動き出したので、血液と一緒に酔いも回る。瞬時に甦る美しい被毛と瞳、良い香り、そして、低く甘い声の記憶。
それが、今、確かに扉の向こうから聞こえた。
「ジュノ、殿か?
なにか、ありましたか?」
いくら美しくとも、今日会ったばかりの獣人を相手に、安易に扉を開け放つわけにはいかない。
「先ほど席を立つ際、幾分ご気分が優れないようにお見受けした。
余計な世話かと思いもしたが、薬を持ってきたので、ここに置いておく。一瓶全て飲み干せばいい。
獣人用なのでよく効く。
それでは、失礼する」
「あ、……お待ちください!」
一瞬迷いはしたが、扉の向こうから気配が遠ざかる様子に、慌てて扉を開けてしまった。
少し先でこちらを振り返る白銀の狼は、先ほどよりもゆったりとした服に着替えていて、開いた胸元から豊かな被毛がふさふさと見えている。
明かり取りの窓から差し込む月の光が、青い瞳に反射して薄暗い廊下でそこだけがきらきらと光っていた。
足元には、銀盆の上に手のひらサイズの小瓶と干したイチジクが一かけら置いてあった。それを手に取り、もう一度、ジュノを見る。
「あの、……ありがたく頂きます」
真っ白な尾が一、二度、左右にゆったりと揺れる。
「王に付き合わせた」
それだけ言うと、ジュノは足音もさせずに去っていった。
信用して良いものか考えた結果、エルシャーディルは小瓶に口をつけた。
「! まっず……!」
ものすごい薬草の味がしたが、少し様子を見てみても死ぬどころか、身体になんの異変もない。
覚悟を決めて一息に飲み干すと口の中一杯に苦味が広がり、その衝撃によって頭痛も忘れるんじゃないかと疑うほどだった。
銀盆に残る干しイチジクを口に入れると、甘くて美味しかった。
白狼王がサライを去ってからも、ジュノは城に残った。
エルシャが朝自室を出た瞬間から、夜も更けて公務を終えて自室に戻る瞬間まで、エルシャにぴたりとくっついて離れなかった。
執務室には穏やかな午後の日差しが差し込み、柔らかな風が一番上の書類をひらりと床に落とした。
「あ、」
ジュノがそれを拾って手渡してくれる。
「あ、ありがとうございます」
なにも言わずに書類を渡すと、また腕を後ろに組み待機の格好で、エルシャの執務机の斜め前の壁際に下がって立つ。
白銀の被毛に日差しが降り注ぎきらきらとしている。凛々しい横顔なのに、頭の上の耳は風にそよがれる度に小さく動いてかわいい。
ジュノは今日もかっこいい。
あたたかそうな胸元の飾り毛はふさふさで、手のひら全体で柔らかさを感じて、指で梳いて、いつまでも撫でていたい。
顔を埋めたら、あの甘くて落ち着く香りに、今日はわずかにおひさまの匂いが混じるに違いない。
「まだ獣人に慣れないか」
「えっ」
ジュノが低く甘い声で言う。
「あ、いえ、そんなことは」
あなたの飾り毛に顔を埋める妄想をしていました、などとは口が割けても言えない。
執務室に再び、静かさが戻る。エルシャの書類を捲る音だけがかすかに聞こえる。
ジュノはエルシャが物珍しさからジュノを見ていたと思っているようだった。
人族は自分と違う姿かたちの他種族を珍しがり、差別する傾向にある。しかし、エルシャは珍しいなどと思っていないし、ましてや差別感情でじろじろ見ていたなどとジュノに誤解されるのは悲しい。
「あの、……きれいだな、と思って見ていたんです」
いぶかしむような顔でジュノがこちらを見る。
「ジュノ殿の、その、被毛に光があたってきらきらしていたもので……。
お気を悪くされたなら、申し訳ありません」
ふ、と空気が和らいだ。
「そうか」
笑った!? 今、笑ってくれた!?
ジュノは多くの騎士がそうであるように、エルシャの前では基本的に無口で無表情だ。笑顔となるとそれは物珍しさが勝ってしまう。
思わずじっと見てしまうが、表情はまたいつもの固い無表情に戻っていた。
もっと近くで見たかった。笑った顔も、違う顔も、もっとたくさん見てみたい。
「そ、そろそろ休憩にしましょうか。
昼食を運ばせましょう」
ジュノは、何度、休憩してください、姿勢を楽にしてください、と言っても絶対に聞かなかったので仕方なくエルシャも一緒に休憩をするのでその時は食事やお茶に付き合うこと、という妥協案に落ち着いた。
執務室から顔を出し、侍従に昼食の支度を頼む。
「やはり従者を近くに置いておくべきだ」
ジュノが半ば呆れたように言う。
ジュノが城に来たばかりの頃にも同じことを言われた。
「普通はそうしているものなんでしょうが……。
一人の方が落ち着くんです。
あ、でもジュノ殿は同じ部屋に居ても気疲れしません」
ジュノと同じことは側近や侍従長にも何度となく言われた。その度に、同じような言葉でごまかしている。
昼食を待つ間、手近な水差しからジュノの分と自分の分をウォーターグラスに注いで、ソファを勧める。
「仕事に集中したいときに人が居るとなんだか集中できない気がするんです。
まだまだ未熟なんでしょう」
自嘲気味に言いながら、グラスに口をつけようとした、その時。
「飲むな!」
手の中のグラスを叩き落とされた。
グラスは床で粉々になり、その音で側近たちや侍従までが部屋に飛び込んでくる。
「陛下!」
「いかがされました、陛下!」
「エルシャ様!」
「何があった!?」
当のエルシャは、まだぽかんとしている。
その横で、ジュノが自分のグラスと水差しの中の水を嗅いであらためていた。
「毒だ。
獣人の鼻じゃなかったらわからん。
飲んでませんね、陛下?」
「あ、……ああ、うん、大丈夫……」
エルシャはわずかに青い顔をしながらも、すぐに己を立て直す。
「すまない、皆、騒がせた。
この水を用意した者は誰かわかるか。
それと、この水がいつからあったかと、この水の成分を調べてもらいたい」
次々と側近や従者に指示を出す。
むしろ側近たちの方が、事態を飲み込むのに時間がかかっている様子だ。
「ジュノ殿、ありがとうございました。
命拾いしました、貴殿は命の恩人だ」
ジュノは眉間に皺を寄せ、渋い顔をつくる。
「礼よりも、心当たりはないのか?
命を狙われたんだぞ」
「心当たりか……、あり過ぎて、もうどれが誰の恨みを買っているかわからないな」
苦笑交じりに言うが、決して冗談でもない。
終戦前は、休戦協定を結ぼうという動きは本当にごく限られた一部の人間にしか伝えていなかったが、それでも何度か殺されかけた。
王に即位する前にも、協定の内容の決議の間も、他国でも、何度も何度もすでに数えきれないくらい危ない目に遭ったのだ。
そう言うと、ジュノは目元を手で押さえ、はあ、と深くため息をついた。
「なるほどな……。
陛下、これからは、食べるときも飲むときもなにかを口に入れるのは私の前だけにしてください。
寝るとき以外は私と一緒に行動すること。
いいですね?」
「そんな、貴殿にそこまでさせるわけには」
「私の仕事です」
有無を言わせない圧力を感じ、エルシャは頷いた。
昼食は、ジュノが臭いを嗅いで全て先に少しずつ食べあらためてくれてから食べたが、味はしなかった。
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