第4話 王であるということ

 休戦協定の内容は全世界の知るところとなってはいるが、国民に向けて詳しい説明をするのは、国王の責任と義務だと思っている。

特に、銀狼国へ少し譲歩した内容になっている部分は、反発が厳しくなると予想される。

 少しでも反発を押さえる為と、戦争が終わったことで国民全員が安心して暮らせるようになることの方が大事だとわかってもらう為に、エルシャは国民に向けた演説を行うことにした。

 宮殿内の謁見広間に、各地を治める領主と貴族たち、そして希望する一般の国民も、入れるだけ入れて行う。

 協定が締結された直後から、エルシャは執政部、広報部、様々な専門家を集めて協議を重ねていた。

 通常の公務に戦争の後始末、各地の復興のための取り組み……、エルシャは文字通り寝る暇もなかった。

 演説の原稿もようやく整い、当日は日も登る前から目が覚めてしまった。

身体は重怠く、頭はぼうっとして、眠ろうにも眠れない。仕方なく起き上がるけれど、身体が思ったように付いて来ない。

 しかし、今日で一つ大きな仕事の片が付く。終わりではないが、一区切りできるといったところだ。

 興奮しているのか、もう一度眠ろうという気にならなかったため、窓を空けてまだ薄暗い早朝の風を入れる。

 ふと、窓の下に位置する中庭を見下ろすと、ジュノが居た。薄暗くても、その白い姿は浮かび上がるようにいつもすぐに見つけられる。

剣の稽古、というよりもただの素振りだろうか。

 ジュノの姿を見ると、ほっとするようになった。といっても、あの毒殺未遂事件からこっち、ジュノはいっそうエルシャの傍を離れなくなっている。

 だから、こうして剣の稽古をしている場面や、身体がなまらないようにと訓練をしている様子は初めて見る。

 ジュノと一緒に居るのは居心地がいい。

 この人は口ではこう言っているけれど腹ではきっと違うことを考えているな、とか、この人はあの人の前だとこういう態度だったけれど自分の前では随分違うな、とか、そんなことを考えなくても良い。

 それは、ジュノが結局他国の獣人で表向きは友好の証の人質みたいなものだからなのかもしれないし、仕事をしているだけという態度だからかもしれない。

 それでも、ジュノの傍はどことなく安心する。


 演説は、ひとまず何事もなく終わった。

遠くから銃で狙われることもなかったし、爆弾を仕掛けられることもなかったし、暴動が起きて会場が荒れることもなかった。

 国民からは多少の不満の気配が空気で伝わってきたが、それは仕方のないことだ。国王であるエルシャが甘んじて受け止めるべきものだ。

 玉座を降りて、天鵞絨の天幕の間を縫い、左右に開く扉を抜けて広間から一歩出る。

そこにジュノの姿を見つけたところで、エルシャの意識は途切れた。


 朦朧とした意識の中で、とりとめのない夢を見る。

 演説の場で周囲の人間が全てエルシャに対して憎しみのこもった目でなにかを叫んでいる。よく聞き取れない。一生懸命聞こうとすると、「お前たちが戦争なんかしたからだ!」「私の父を返せ!」「僕の恋人を返せ!」「私の子供を返して!」エルシャは謝って済む問題ではないと思いながらも、その場でたくさん謝った。

 目の前のテーブルには水のグラスが一つあった。毒が入っているとわかっているのに、自分の手がグラスを持ち上げ、口へ運ぼうとする。必死でグラスを離そうとするけれど、身体がいうことをきかない。

 城の中を独りで歩いている。知らない人間とばかりすれ違い、「侍従長のマジドはどこだ?」と聞いても、「メイドのネイを知らないか?」と聞いても誰も応えてはくれず、エルシャは独りで冷たい廊下を歩き続けた。

 だが、次の夢は心地良かった。

柔らかく、絹のように一本一本がすべすべとした毛足の長い毛布に包まれているようだった。甘くて重厚で香ばしい香りに、おひさまの匂いが混じっている。この毛布に包まれていると全身から力が抜けて安心する。まるで小さな子供の頃、遊び疲れて庭の木陰に毛布を引き摺って行って、毛布を抱きしめて昼寝をしたときみたいだ。

 怖いことも不安なこともなにもない。ただ、安心してゆっくり眠ればいい。なんでもできるし、望むことは全て叶う。そんな気持ちを思い出す。


「おいっ!」

 ジュノが慌ててエルシャを受け止めて抱きかかえると、エルシャの身体が熱い。

「陛下!」

「エルシャ様!? どうされましたか!」

 獣人であるジュノがエルシャを抱きとめたため、獣人に慣れていない従者たちが遠巻きにして近寄って来ない。

口吻をエルシャのこめかみや首筋に当てて匂いを嗅いで、体温を感じる。エルシャの身体も礼服の上から大きな手であちこち触り検分する。

「おい、誰でもいい。医者を呼んで来い。

発熱しているが、毒や外傷ではないと思う。

俺はこのまま陛下を部屋に運ぶ」

「は、はい!」

 軽々とエルシャの身体を横抱きに抱え上げ、そのまま部屋まで運び、ベッドに寝かせた。

 相変らず、従者の誰も部屋に入ってこようとはしないので、ジュノがエルシャの上着を脱がせ、シャツのボタンを緩めて、ズボンも脱がせた。

「んっ……」

 エルシャが時折、苦しそうに呻く。

「独りで無理ばかりするからだ」

 呟いたところでエルシャには聞こえないが、本人に聞こえていたところで本人は言うことを聞くようなタマではないと思っていた。

 医者の見立てでは、やはり、毒や外傷ではなく、疲れが出たのだろうということだった。


 ベッドの縁に腰かけ、エルシャの首筋に手の甲を当てる。熱が随分高いのだろう、頬や目元が赤い。

 気が付けば部屋の中は暗くなっていて、窓の外に目をやると早い夕暮れが落ちる間際だった。枕元に灯りくらい点けてやろうかとも思ったが、暗い方がよく眠れるのかもしれない。

 扉がノックされる。

 エルシャはいつも、用事があるときだけ従者を呼び、従者の方から来ることはないと言っていたが、医者だろうか。

 命を狙われることもある王だ。こんなときに襲おうとする不届き者もいるかもしれない。

 しかし、今はジュノが傍に居る。力づくでは来ないだろう。

「構わん、入ってくれ」

「失礼いたします」

 入ってきたのは、顔馴染みのメイドだった。確か、いつもはエルシャの着替えや朝の支度などを手伝っていたはずだ。

 手には水の入った桶を抱えていて、布が水に浸けてある。

「エルシャ様のお顔に冷たい布を当てて差し上げたいのですが、よろしいでしょうか」

「ああ、感謝する。

楽になるようならそうしてやってくれ」

 枕元のテーブルに桶を置き、冷たい布をエルシャの額に当てる。

「ジュノ様ももうお部屋でお休みになられてください。

エルシャ様は今夜は私が看病いたします」

「そうしたいのは山々なんだがな」

「?」

 ジュノの視線の先には、自身のふさふさとした真っ白い尾っぽがあり、その先をエルシャが掴んで胸元に抱き寄せていた。

「まあ……。

陛下もこんな風に誰かに甘えたりなさるのですね……」

 なぜかメイドは涙ぐみ始め、ジュノの尾っぽをエルシャから救出するのを手伝ってくれる気配はなかった。

「甘える……?

夢うつつになにか掴み心地の良い物を見つけただけだろう」

「寝ているときほど、その方の本心が現れると言います。

陛下は、きっとジュノ様にお傍に居て欲しいんです。

見ていればわかります」

 メイドは感極まっている。

「……そんなに陛下のことを思っているなら側付きのメイドとして世話をしてやったらどうだ」

「はい……、私もそうしたいと何度も申し上げているのですが……。

私はもともとエルシャ様がまだ王太子殿下であられた頃からお側に仕えさせて頂いておりました。

けれど、戦争が始まり、先王様に対してエルシャ様がご意見をなさるようになり、エルシャ様のご意見は至極最もで民のことをよくお考えになってくださっていた意見だったのですけれども……。

先王様はエルシャ様のお言葉も、誰の意見ももうお聞きになりませんでした。

逆らう者には刑罰が言い渡されることも多く……、エルシャ様はご自身の周りから人を遠ざけてしまわれるようになりました」

 おそらく、その頃から、エルシャは先王を見限り、クーデターを考え始めたのだろう。自分の動きが失敗に終わった時に周囲の人間に類が及ばないように人を遠ざけたのだ。

 それは、自分の命が狙われている今も同じなのだろう。

 寝ているエルシャを見る。こうして見ると、まだまだあどけなさの残る、年若い青年だ。

独りで背負うには、荷が重すぎるとは思わないのか。

「大事な尾を置いてはゆけん。

今夜は俺が陛下を看よう」

 ジュノはエルシャの汗をかいてしっとりとした前髪を爪先を丸めた指でそっと払いのけてやった。


 エルシャが目を覚ましたのは夜更けだった。

熱で身体が怠く、寝苦しさで目が覚めた。

周囲は真っ暗で、窓から差し込むのはわずかな月明かりだ。

「あれ、俺……どうしたんだっけ。

……! 演説!」

 慌てて身体を起こすと、ぼふんと弾力の良いものに顔が埋まり、訳が分からなくて固まった。

これはなんだろう。起き上がったつもりで実は寝返りを打っていて、毛布に顔を埋めたのだろうか。それともここにクッションでもあっただろうか。

 目の前のふかふかな物を撫でたり軽く掴んでみたりする。

「目が覚めたか」

「え、……?」

 低くて甘い声。聞き間違いだろうか。とても聞き覚えのある声。

「ジュノ、殿?」

「そうだ。

灯りを点けるか?」

 目の前のふかふかが動く気配がして、枕元のサイドテーブルのランプに火が入った。目の前のふかふかがオレンジに照らされる。

 恐る恐る顔を少し離し、目線を上げると、すぐ傍にランプの灯を受けてきらきらと輝く青い瞳があった。また目線を下げると、目の前のふかふかしたものは、ジュノの胸元からはみ出た胸の飾り毛だった。

「う、わぁっ!」

 慌てて離れようとして、ジュノの胸元を押し退けるように両手をついた。

 あ、気持ちいい。

 両手がふかっ、と沈む。

 毛皮の下の筋肉も、柔らかくて弾力がある。

「そうじゃなくてっ……!

あ、あのっ、すみませんっ、俺っ、」

 慌て過ぎて、勢いよく後ろに倒れそうになってしまう。そのエルシャをジュノが抱きとめた。

「おい、まだ寝ぼけてるのか?

落ち着け、熱が上がる」

 抱き止められて、またもジュノの胸元に顔を埋めさせられて、落ち着かせるように背中を擦られる。

 ふわ、いい匂いがする。

 心臓はびっくりし過ぎてどきどきと激しく脈打っているのに、しっかりジュノの匂いを嗅いでうっとりしてしまう。

「落ち着いたか?」

「は、はい……。

取り乱してしまい失礼しました。

あの、あの、もう、離して……」

 もっとこうしていたい。もう心臓がもたない。離れたくない。離して欲しい。

 全く正反対の二つの気持ちを同時に思うなんて初めてだった。

「こちらこそ、失礼した」

 ジュノが手を離し、ふかふかの体温も匂いも離れていくと、無性に寂しくなって、思わず自分のシャツの胸元を握る。

「あの、ジュノ殿は、なぜこちらに?」

「誰かさんがしっぽを離してくれなかったのでな」

 ベッドの上で白い尾がぱさり、ぱさりとようやく得た自由を確かめている。

 意味を理解して、エルシャは恐縮した。

「ほ、本当に、大変失礼致しました。

その、本当に無意識で……、申し訳ありません……」

 ふ、と空気が柔らかく揺らぐ。

「冗談だ。

さあ陛下、まだ夜明けは遠い。

もう一度お休みください。

私がお守りしますゆえ、陛下は安全です」

 恐縮して小さくなっていたエルシャを、ひょいとベッドの中に戻してしまう。毛布を掛けられて、その上からふさふさのしっぽがふぁさりふぁさりと寝かしつけるように上下する。

 そして、ジュノがサイドテーブルの桶で濡らした布を頬や首筋に当ててくれた。

 いつものエルシャなら、客人扱いのジュノにそんなことはさせられないとジュノを部屋から追い返してしまうだろうが、今は熱と疲れで意識が朦朧としていた。

「……気持ちいい、です、ありがとうございます」

 横になったら余計に気が抜けたのか、すぐにまた眠りの淵をゆらゆらと漂う。

 冷たい布も気持ちいいが、なによりジュノの手が触れるのが気持ちいい。

 すり、とジュノの手に頬をすり寄せた。

「……本当に美しいな、その瞳は」

「え?」

 ジュノが爪が当たらないように親指の腹でエルシャの瞳の側をするりと撫でる。

「初めて見たときから思っていた。

なんというんだったかな、あの宝石は」

「アレキサンドライトですか?」

「ああ。

だが、貴殿の瞳は宝石よりもずっと美しい。

貴殿の意志の強さがよく現れている」

 熱で鈍く痛む頭に、ジュノの声は子守歌のように優しい。

 ただ容姿を褒めてくれる人間はたくさん居るが、エルシャの心持ちまでを汲み取って褒めてくれる人間はなかなか居ない。

「あの……、」

「……なんだ?」

「演説会は、どうなったのでしょう?」

「…………。

ふぅ、この期に及んで、気になることはそれか」

 ジュノが小さく呟く。しかし、すでに夢心地のエルシャには、ジュノの言わんとしていることはわからなかった。

「お前は演説を最後までやりきって、広間を出た途端に倒れたのだ。

大丈夫、演説会は無事に終わっているし、暴動なども起きていない。

立派な王の演説だった」

「……ありがとう、ございます」

 ふにゃりと笑って、エルシャは今度こそ本格的に眠りに落ちた。

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