館
「──ちょっとちょっと! ジェムの姐さん!」
どこからか焦った声がしたと思えば、客席から何かが舞台へと飛んでくる。本のような小さなものではない、人間サイズの大きさの影。──いや、人間そのものだ。黒いローブを身に纏った、黒髪の若い男。
男は音もなく舞台の上に降り立つと、ジェムと名乗った女の横に立ち、焦った顔で彼女を見つめる。
「いきなりこんなこと、駄目ですよ! 他の人の目もあるし!」
「目がどうした? 愚行に黙っていられる
「黙ろうよ! 黙って状況を見て、作戦を練った上で行動しないと、僕がストーンの旦那に怒られるんですよ!」
「知らん! 妾の好きなようにさせよ、アルバート!」
「こんな時に名前呼ばないでくださいよ! いつも小僧呼びのくせに! 嬉しいですけどね!」
アルバートと呼ばれた男とジェムの会話を、リコリスとイベリスは黙って見つめているしかなかった。言葉を挟む余裕などないのだ。
姉妹の視線が気になったか、アルバートは姉妹に目を向ける。淡い赤色に染まったその目にはほんのり、憐憫が込められていた。
「あの、もし。君達はその……元から吸血鬼ではない、ということですかね?」
「……っ!」
思わずといった感じで椅子から立ち上がると、リコリスは早口に言葉を紡いでいく。
「そうよ、わたし達は人間だった! あの日、あの時、渡されたワインを飲んでから全部おかしくなったのよ! 髪の色も目の色も変わって、牙も生えてきて、何だか無性に血が飲みたくて仕方なくなって! おかしい、おかしい、おかしいわ、何もかも! わたしは、わたし達はこんな人生望んでいなかった! ──こんなこと、したくないわ!」
「リコリス……」
そっと、腕の中のイベリスが、リコリスの腹へと顔を寄せる。その温もりに、少しだけリコリスは落ち着きを取り戻した。
「……わたし達は、売られたの。ここに売られて、何か間違ったことをすれば暴力を振るわれて、命じられるまま客の血を吸わされて。……それが美味しいものだから、悔しい」
「……話を聞かせてくれて、ありがとうございます。ねえ、ジェムの姐さん。この子達は命じられて……脅されて、人前で吸血行為をさせられているだけですし、そんなに怒らなくても」
アルバートが宥めるようにそう言うが、ジェムの顔にはそれまで以上の怒りが宿っていた。アルバートの額から、幾重もの汗が流れ落ちる。
「グレンヴィルの吸血鬼は、同胞の中でも一番力に秀でる。にも関わらず、同意もなく吸血鬼にした挙げ句、何の説明もせずに囲い込み、見せ物として粗末に扱うなど……侮辱だ」
ジェムの赤き瞳は刃物のように鋭くなり、その目を客席に向ける。客達は悲鳴を上げ、慌てて逃げ出す者が出た。
「これは、我々吸血鬼に対する侮辱だ! 万死に値する!」
「ちょっ、ジェムの姐さん落ち着いて!」
「──そこまでよ」
ふいに舞台袖から女の声が上がり、ぞろぞろと上手や下手から黒服姿の人間達が出てきて、彼女達を取り囲む。
燕尾服にシルクハットを被ったブロンドヘアの女性が一歩、前に出て、紅を引いた形の良い唇を開いた。
「ショーの最中に勝手は許さない。乱入者は速やかに排除する。読み姫と侍女はこちらへ来なさい。まったくお喋りなんか楽しんで……おしおきが必要ね」
「……っ」
イベリスを胸に抱き、怯えに瞳を潤ませるリコリス。──そんな彼女を挟むように、ジェムは右に、アルバートは左にそれぞれ立つ。
「小僧、魔力はどれくらい残っている?」
「小僧呼びに戻ってる……。まだまだ余裕で残ってますよ」
「なら、存分に暴れられるな!」
「ああ、ストーンの旦那に怒られる……」
吸血鬼の目は、良い。
リコリスとイベリスは、しっかりと彼らの動きを見ていた。見ているしか、できなかった。
ジェムとアルバートは同時に駆け出し、傍にいた者から順に拳を振るっていき、しゃがみこんで足払いをし、膝を顔面にめり込ませる。動きにくい服装をしているが、そんなこと感じさせない、見事な暴力であった。
一人また一人と、瞬く間に人は倒れていった。逃げることなど許されない。逃げようとすれば更に過激な制裁が待っていた。腕をへし折り、足を踏み砕く。
「あっ……ああ……」
そんな声をもらしたのは、ブロンドヘアの女か、リコリスか。
最後に残ったのはブロンドヘアの女のみ。助太刀は来ない。途中何人か来たが、全員片付けてしまった。
アルバートは笑顔で、ジェムは拳を鳴らしながら、ブロンドヘアの女へと詰め寄る。怯える女の目からは涙が溢れていた。
「貴様がこの醜悪な館の主か?」
「ちがっ、それっ、パパっ!」
「娘か。妾にも娘がいる。可愛い盛りの娘だが、今は熱で寝込んでいてな、夫が看病してくれているんだ。本来なら妾も傍にいてやりたかったが、仕事の取引相手からもらった招待状が今日の日付だったから、仕方なく小僧と共に来たのだ。だがどうだ、来てみれば悪趣味なものばかり。極めつけは、吸血行為を人前でなど──叩き潰してくれるわ!」
その後、女のブロンドヘアと服は赤く染まり、弱々しい呼吸をしながら、女は舞台上に倒れ伏した。
もう敵はいない。舞台上には。ジェムは肩を鳴らして、血に汚れたドレスに眉をひそめながら、舞台袖へと向かう。
「姐さん?」
「館の主に鉄槌を。この醜悪な館は即時解体する」
「……手伝いは、いりますか?」
「いらん、先に帰っていろ」
消えていく背中に溜め息をもらし、アルバートが姉妹に視線を向けた。これまでの光景を見ていたせいか、リコリスは小刻みに震えながらアルバートから目を逸らす。
これから、どうなるのか。
主の娘は倒され、主も同じ運命を辿るはず。あのジェムが、自信と怒りに満ちた女吸血鬼が負ける所など、リコリスには想像できなかった。
なくなればいいと、思わなかったことはない。それでも、いざなくなるとなれば、どうしたら良いのか分からなかった。
自分だけで生きる方法も、生首となってしまった妹と生きる方法も。
「──あの、ありがとう」
イベリスの凛とした声に、リコリスは目を見張る。ありがとう、とは?
「こんな所、なくなっちゃえばいいのになって思ってたから、すごい助かったよ」
「いやいやそんな、姐さんが勝手にやったことですから」
「お兄さんも暴れてくれたでしょ? ありがとうだよ」
「うーん、暴れたことを褒められるのは複雑です。でも取り敢えず、喜んでもらえて良かった」
「えへっ。……ついでに相談なんだけどさ、あたしら親に売られたから、帰る所なくてね、これからどうしたらいいか、分かんないんだよね。ほら、あたしったら生首だし」
「……っ。ちょっと」
戸惑いの声を上げるリコリスに、だって事実だしとあっけらかんと言うイベリス。ふむ、と一言アルバートは声をもらすと、急に両手を叩いた。
「──なら、一緒に来てください」
「え?」
「……え?」
イベリスに遅れてリコリスは小さく声を溢し、今聞いた言葉が信じられないとばかりに、アルバートへ目を向ける。彼は、よく見ればそばかすのある顔に柔らかな笑みを浮かべて、続きを口にした。
「僕がお世話になっている所、娘さんのお世話係を募集してたような気がします。取り敢えず一緒に来て、娘さんと雇い主に会ってみませんか?」
「……わたし……吸血鬼、なのに」
「あたしは生首だよ」
「問題ないんじゃないですかね。何とかなりますよ。さささ、ここにいるのも何ですし、さっそく向かいましょう」
差し出された手を、見ているしかないリコリス。本当に、この手を取っていいものか。彼女が過ごしてきた時間は、誰かを信じることを躊躇わせる。
それでも、
「──大丈夫だよ、リコリス」
唯一信じられる者が、そう言うものだから、思わず手を伸ばしてしまった。すぐに、アルバートが手を繋いでくる。
「もう誰も、君達を傷つけませんよ」
姉妹は館を去る。館は完膚なきまでに破壊され、見せ物として囚われていた者は全て解放された。
館は──永遠は、こうして終幕となる。
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