第二六章 魔王の血涙
あれから殺気立つ二人をなんとかなだめたあと、俺たちは改めてロープの結び目を探して森の中を進んで行った。
「日が落ちてきたわね……」
ロープ伝いに先頭を歩くラシェルが、警戒するように辺りを見回しながら言った。
「シエラを襲ってきた魔物と同じニオイがする……」
小さく身震いをしながらそう言って、シエラが俺の腕にしがみついてくる。
彼女も嗅覚という形で【探知】スキルと同じように気配の変化を感知することができるのかもしれない。
「気休めかもしれないけど、いちおう喚んでおこうか」
フィーがそう言って、歩きながらゴニョゴニョと何やら呪文を詠唱しはじめる。
すると、彼女の傍らに魔法陣が現れ、そこから黒い霧のようなものが吹き出してきたかと思うと、中から妖艶な姿をした黒髪の女性が姿を現した。
その手には松明が握られており、嫋やかな笑みを浮かべながら俺たちの周囲を柔らかな光で照らしてくれる。
「ヘカテー……月の女神であり、死者の王だよ。これでもし不死者が現れても、彼女がいるかぎり襲われることはないはず。でも、死霊術で喚び出されたり操られている不死者に対してはヘカテーの力も効かないから、油断はしないでね」
ふむ、死霊術か……。
実際に見たことはないが、それが不死者を操る術式であるというくらいの知識はある。
「そもそも獣の血を撒いてマナを穢すのは、死霊術師が好んで使う戦術だからね。おそらく最初にシエラを襲ったのも、死霊術に造詣が深い術師なんだと思うよ」
クロスボウを油断なく構えながら、フィーが言った。
なるほど。確かにシエラも最初に襲ってきた者は、ヒトやケモノの骨をけしかけてきたと言っていたな。
となると、この結界の中はシエラを弱らせるためだけでなく、そもそも死霊術師にとっても都合の良い環境になっているということか。
「このままその死霊術師と出くわさずに脱出できたら万々歳なんだけどね。まあ、今のところ怪しい気配もないけど……」
ラシェルが嘆息まじりに言って、前方に広がる木立の間を覗き込むように首を伸ばした。
——と、何かに気づいたのか、急にその足がとまる。
「え……? 誰……?」
小声でそう呟くラシェルは、何か恐ろしいものでも見るかのように目を見開いていた。
つられて見やると、松明の薄明かりではよく見えないが、木立の奥に人影のようなものが立っているのが見える。
もしそれがヒトなのだとしたら、肉眼視できるこの距離までラシェルが気づかなかったというのはかなり珍しい。
「あ、アイツだ……シエラを襲ってきたやつ……! いつも急に現れるんだ……!」
シエラが俺の腕をギュッと掴みながら震えている。
俺はシエラを背後に隠すと、背負っていた盾を携えながら身構えた。
彼女の言っていることが事実なら、戦闘になる可能性を考慮しておいたほうがいい。
視界の奥で人影がゆらりと動き、ゆっくりとこちらに向かって歩み寄ってきた。
「想定外のことはありましたが、ここで待っていればいずれやってくると思っていました」
そう言ってヘカテーの松明が照らす薄明かりの中に入ってきたのは、なんと昼過ぎに『水蝶』で見かけたあの魔術師風の男だった。
「あんた、あのときの……」
ラシェルも気づいたようで、オレイカルコスの弓に矢をつがえながら呟く。
男はその手に巨大な骨を思わせる白い杖を携えており、生気を感じさせない暗く澱んだ瞳で俺のほう——いや、俺の背後に隠れたシエラをじっと見ていた。
「その娘は魔族です。この場で始末してくれるのであれば、手荒な真似はいたしません」
「始末……? キミは、この子を殺すためにここまで準備をしていたというのかい?」
躊躇なくクロスボウを構えながら、フィーが問いかける。
男は表情ひとつ変えず、その目だけをギョロリと動かしてフィーのほうを見やった。
「幼体とはいえ魔族は危険な存在です。油断をして足許をすくわれるくらいなら、最初からでき得るかぎりのことをやるのが私の流儀ですから」
抑揚のない声でそう告げ、再びこちらのほうに視線を戻す。
「私はその娘の亡骸さえ手に入ればかまいません。あなたがたの手で始末していただけるのでしたら、むしろ僥倖というものです」
「あたしたちはこの子を殺したりしないわ。この子は彼の従魔になったのよ」
ラシェルが俺を指し示しながら、苛立ちの籠もった口調で告げる。
その一言に、初めて男の表情に変化が見られた。
光を感じさせないその瞳がほんの少しだけ見開かれ、口許に不気味な笑みが浮かぶ。
「従魔……? その娘をですか……? これは驚いた。生け取りにするだけならいざ知らず、まさかそのような戯れを行う方がおられるとは……」
くつくつと喉を鳴らすように笑い、そのまま手に携えた白い杖をゆっくりと掲げた。
瞬間、地面に赤黒い光で描かれた陣のようなものが無数に現れ、闇を塗り固めたような靄とともに腐乱死体や武器を持った骸骨などが顕現しはじめる。
「死霊召喚……!? ヘカテー!」
焦ったようにフィーが命じ、傍らに立っていたヘカテーが松明を掲げながら不可視の波動のようなものを放つ。
しかし、現れた不死者たちはとくに意に介した様子もなく、ゾンビたちはゆっくりとこちらに歩みだし、スケルトンたちは各々に武器を構えはじめた。
「ダメだ! やっぱり死霊術で呼び出された不死者たちにヘカテーの力は通じない!」
「残念ですが、あなたがたにその娘を始末する気がないのであれば、あなたがたごとその娘を始末せざるを得ません」
「どうしてこの子を殺そうとするの? 従魔になったんだから、もう危険はないでしょ?」
ラシェルが怒気のはらんだ声で問いかけながら、男に向かって弓を引く。
男は薄ら笑いを浮かべたまま、気だるげに肩をすくめた。
「言ったでしょう。私はその娘の亡骸に用があるのです」
「……まさか、この子の心臓を狙っているのかい?」
眉を顰めながら、フィーが言った。
男の目がフィーのほうにゆらりと動き、満足げに頷いて見せる。
「博識な方がおられて話が早い。そうです。私はその娘を魔族たらしめている力の源……彼女の心臓に形成された魔王の血涙をいただきたいのですよ」
魔王の血涙——?
何やら不穏な単語が出てきたものだが、シエラを魔族たらしめているということは、魔物が魔族になる過程で生まれる何かといった感じの代物だろうか。
「いわゆる魔族の核と呼ばれるものだよ。死してなお膨大な魔力を放つと言われるその結晶は、もし傷一つつけずに取り出せれば途方もない値打ちものになるって言うけど……」
なるほど。けっきょくは金目当てということか……?
「浅ましい考えです。魔王の血涙の持つ価値は、金で計れるものではない」
言いながら、男はさらにゆらりと杖を揺らめかせた。
今度は空中に無数の陣が浮かび上がり、死霊を思わせる魔物たちが次々に顕現する。
「さあ、お話は終わりです。命が惜しければその娘をおいてこの場を立ち去りなさい」
「それはこっちのセリフよ!」
ラシェルが男に向け矢を放った。
しかし、盾を持ったスケルトンが男の前に躍り出てきて、正面からその矢を受けとめる。
オレイカルコスの弓で射られた矢はスケルトンの持っていた木の盾などあっさりと撃ち抜いたが、それでも十分に壁としての役目は果たしていた。
――これはちょっと面倒なことになってきたかもしれない。
気づけば周囲はすっかりゾンビやスケルトン、レイスといった不死の魔物たちに囲まれてしまっている。
結界の境目を背に戦えば少なくとも背後を取られることはないだろうが、シエラのことを考えると近づきすぎるのも危険だ。
それに、魔術師がいない俺たちにとってレイスといった死霊系の魔物には致命打を与えられる攻撃方法がなかった。
俺の魔術は回数にかぎりがあるし、これに関してはもはやフィーに期待するしかない。
「こうなったら破れかぶれだ! いくよ、ヘカテー!」
焦る俺をよそに、フィーが鬨の声を上げながらクロスボウを掃射しはじめた。
意外にも狙いは正確で、的確にゾンビたちの頭部を狙ってボルトを打ち込んでいる。
一方、ヘカテーも手に持った松明を棍棒の如く勇ましく振るい、迫り来るスケルトンやゾンビを薙ぎ倒しながら、燃え盛る業火でレイスをも焼き尽くしている。
な、なんか思ってたよりずっと強いんですけど……!?
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