第3話 肉包子(豚まん)
常連客の舞さんが、大阪土産に肉まんをくれた。俺が、
「おぉ肉まん、これ美味しいよね」
というとすかさず「いやいや、ユキさん、豚まん、ね」と訂正された。
「そこ、大事なんだ」
「大事らしいよ。私も最初旦那に訂正された。暑い時期にあっついお土産でゴメンね!」
ありがたいが、一人暮らしにチルドの豚まん四つは結構荷が重い、と言いたいところだが、余裕で消費できてしまうだろう。舞さんは何も言わないが、「肉まん少年と食べるでしょ」という含みが見える。もう少年じゃないですと釘を刺しておきたいけれど、向こうが何も言わないので反論の機会がない。
舞さんが帰った後、元肉まん少年ことミライくんに
〝今日は高級肉まん(豚まん)があります〟
とメッセージを送った。数分後、
〝やべぇ、まって、俺も中級カツサンドある〟
というメッセージと共に、たっぷりの千切りキャベツと、薄いトンカツ二枚をキリリとした食パンで挟んだ、美しいカツサンドの写真が送られて来た。値段は分からないけれど、味は多分中級じゃなさそうだ。手早く
〝ビールとジンジャーエール買って帰るよ〟
と返信した。
肉まん少年が初めてこのカフェに来店したのは、一年半前のことだった。あの日は肌寒く、カウンターの端に座った舞さんが
「もうだいぶ暮れるのが早くなったね」
と言った
「だねぇ。ちゃんちゃんこ新調しなきゃなぁ」
「うそっ、ユキさん、ちゃんちゃんこ着るの?!」
「あ、舞さんは〝どてら〟って言う側のヒト?」
通りに面する大窓の端から端、小さな男の子を後ろに乗せた自転車が走り抜けていく。その光景と一緒に、軒先に立つ学生服の後ろ姿が目に入った。向かいの予備校の生徒さんのようだけど、斜め後ろから見た頬が少し膨らんで、上下していた。腹減ってんだろうな、と苦笑していたら、彼は小さめのレジ袋をくしゃっとまとめて鞄に突っ込み、おもむろにうちの店のドアを開けた。
あ、肉まんだ、と思った。食べ終わっていても分かる肉まんの匂いを漂わせながら、高校生らしき少年がレジカウンターに近づいてくる。さっき膨らんでいた頬は、中身がなくなると随分とシャープで、くしゃくしゃのくせ毛の先が少しだけ頬骨にかかっている。後ろ姿の印象よりも少しだけ大人っぽく見えた。少年は俺の目をじ、と見た後、カウンターに貼り付けてあるメニュー表に目を落とし、無言のまま十秒間を過ごした。そして、
「おすすめ、ありますか」
と言った。軒先で肉まん食って来る高校生だしな、と思い、カフェモカとかどう? と勧めると、キッとこちらを見て
「いや、豆の」
と返された。ここで、オトナだねェなんて言おうものなら本格的に睨み付けられそうなので、定番のグアテマラを勧めた。俺だったら、肉まんの直後にブラックコーヒーは欲しくないが、向こうがご所望であれば仕方ない。
カウンター以外にテーブル二つしかない狭い店内の窓際で、少年はゆったりと、そして全然旨くなさそうに、紙カップ入りのコーヒーを啜った。いかがですか、と声を掛けると、
「薫り高いです」
と言われ、俺は吹き出しそうになり、舞さんは吹き出した。
十五分足らずで少年は、多分中身が七割くらいは残っているであろう紙カップを手に、「ご馳走様です」と言って店を出て行った。向かいの予備校に入っていく後ろ姿を見ながら、眠気覚ましのコーヒーなら肉まんと一緒にコンビニで買えばいいのに、金に余裕あるんだな。俺は十年前は紙パックの紅茶飲んでましたけど? と思っていた。
それ以降少年は週に一回は、肉まんを食べながらうちの店まで歩いてきて、おすすめの豆を聞き、旨くなさそうに紙カップのコーヒーを飲み、予備校に消えていく、のワンセットをこなした。四度目に彼が来店した後、舞さんがこっそり「肉まん少年」と命名した。何度来店してもコーヒー好きになる気配はないが、頑なにミルクもシュガーも入れなかった。
合羽を着た親子の乗る自転車が、薄い水たまりをかき分けながら通りを走る日。また肉まん少年が来店した。少し粉を吹いた、骨ばった拳の角が赤くなっている。こんな寒い日位、温かいものを美味しく飲みなさい、と思い、
「これ新作だから、試してみませんか」
と、カウンターに置いたPOPを指した。新作の、ふわふわハニーラテ。肉まん少年の眉がピクッ、と動いた。完全に地雷を踏みに行っている自覚はある、が、俺にもコーヒー屋の店長としてのプライドがある。コーヒータイムは、幸福なものであるべきだ。なけなしの小遣いで背伸びして、あんまり好きじゃないものを飲むのは勿体無い。
「学生さんの意見聞かせてほしいな、って。お願い」
はぁ、じゃあ、と言う肉まん少年は、いつもより顔の力みが抜けているように見えた。
「せっかくだから、マグにしたら?マグの方が香りがしっかり分かるよ」
「あ、じゃあ」
モニター割引ということで 三〇〇円に値引きさせていただいた。ここで猫ちゃんの3Dラテアートなんか作ったら顔真っ赤にして睨み付けられるだろうな、と可笑しくなる。真っ白なフォームドミルクの上に、網目状にはちみつを流した。
お待たせしました、ふわふわハニーラテです、とテーブルに置いた。蓋付き紙カップに入ったブラックと違い、ラテとはちみつの甘い香りは、遮られることなく漂う。その湯気が、肉まんの香りを覆い隠した。ごゆっくり、と声を掛けて、カウンターの中で洗い物をしていたら、窓際のほうから小さく「うま」という声が聞こえた。いつものように滞在時間は十五分だったが、テイクアウトできる紙カップにする必要はなかった。肉まん少年はわざわざ赤いマグを返しに持って来て、
「ご馳走様です、美味しかったです」
と言った。眼差しの強さはいつも通りだが、頬と口元は柔らかく微笑んでいて、俺はいい仕事したな、と思った。
肉まん少年の来店ペースは変わらなかった。変わったことといえば、ブラック以外をおすすめしてもすんなり受け入れるようになったことと、質問を投げ掛ければ、二言三言答えが返ってくるようになったことだ。話好きの舞さんが居る時だと、もう少し言葉数は多くなる。お母さんと二人暮らしであること、「ポチ」という名前のマルチーズを飼っていること、おばあちゃんの作る鯵の酢締めが好きだということ。ミライという名前であることも教えてくれた。
店長さんはどうしてユキさんって呼ばれてるんですか、と聞かれ、YMOの高橋幸宏と同じく幸宏という名前なんだ、と答えると、怪訝な顔で
「ワイエムオー?」
と返されてしまった。俺だってYMOは世代じゃないけど、流石に名前と、『ライディーン』くらいは知っている。改めて、この子はひと世代違うんだと実感した。
ある日、いつもの如く来店したミライくんに聞いた。
「ミライくんは、予備校の時間まで手持ちブタさんなの?」
「手持ち〝無沙汰〟ですね」
〇.一秒で突っ込んだあと、わざわざスマホに打ち込んで教えてくれた。
ミライくんが店を出た後、バイトの原ちゃんが呆れたように
「ちょっと店長! ミライくんお店の中覗いて、店長居なかったら入って来ませんからね⁈」
と言った時だった。入り口のガラス戸が三十センチほど空いていて、その向こうには、ミライくんがいた。ガラス戸の手前には、ミライくんのネイビーの折り畳み傘が立てかけてあった。店の入り口まで、二メートル。俺は、見えるはずもない、いつも真っ直ぐに相手を見据えるミライくんの黒目の揺らぎを見ていた。
原ちゃんが振り向く前に、ミライくんは傘を取ることなく予備校の出口に吸い込まれていった。それから肉まんの季節が過ぎるまでの一ヶ月間、ミライくんは俺の店に立ち寄ることはなかった。
三月三週目の水曜日、開店前に外のベンチで一服していたら、私服姿のミライくんが歩いて来るのが見えた。Tシャツに緩めのニットベスト、ストレートのジーンズ。もう肉まんを食べてはいない。久しぶり、なんて言わず、おはよう、と大きな声で言った。ミライくんがたじろぐ気配に、全然気付いていないフリをした。
「平日なのに、珍しいね」
「あの、合格報告……予備校に」
「おおー! おめでとう、何学部だっけ」
「文学部です」
よく晴れた日でよかった、と思った。ミライくんの表情筋が、暖かい空気の中で少しずつほどけてゆく。原ちゃんには申し訳ないけど、午前中俺だけの日でよかった、とも。
「何か作ろっか。合格祝いにご馳走してあげよう」
え、いや、悪いです、とまた固い顔に戻って言うので、
「いいって。あと別に敬語じゃなくていいよ、変換するの面倒くさいでしょ」
と返して、店内に促した。
ミライくんは、レジカウンター前で少し逡巡していたが、まっすぐな目で
「ふわふわハニーラテ、くれ」
と言われて、俺はずっこけそうになった。
エスプレッソマシンのスチームノズルから蒸気を吹かす、シューという音が、オープン前の店内に響く。ふわふわハニーラテの名に恥じない、艶のあるフォームドミルクに出来るよう、ミルクに刺したスチームノズルの深さを慎重に調節していく。カウンター内の空気がミルクの中に取り込まれて、泡になる。作業台にミルクピッチャーをコンと置いた時、ミライくんがカウンター越しに俺の手元を見ていたことに気がついた。目が合うと、彼はすっ、と定位置の窓際の席に向かった。ガラス窓に貼ったOPEN- CLOSE 10:00-20:00のシールが、ミライくんの頬に影を作る。
君はミルクとはちみつの匂い、春の午前の光が似合ってていいのか、もっとむさ苦しくなりなさい、と心の中で呟いた。そのすぐ後に、心の外で
「お待たせしました」
と声を掛けた。前と同じ、肉厚の赤いマグ。
「うめぇ。ありがとう。開店前に悪りぃな」
もうずっこけている段階でもない。最初は取ってつけたようなタメ口だなと面白かったが、ここまで来ると敬語が本当に面倒だったんだろうな、と同情すらした。俺も、テーブルを挟んで前の椅子に座った。
「ミライくん、甘党でしょ」
「何で分かんの」
「いや、ブラック全然美味しそうじゃなかったじゃん」
「……薫り高いって言った」
「それ言う人、CMでしか観たことないよ俺は」
俺も敬語を使われるのが面倒だったことに気がついた。
少し沈黙が流れる。これぞ手持ちブタさんだなぁと思い
「コーヒーちょっとは好きになってくれた?」
と尋ねた。数秒待ったが、答えは返ってこない。力及ばずだったか、にしても正直すぎるだろ、と俺の方が狼狽しそうになっていたら、
「好きになった。コーヒーも」
もっと狼狽するような答えが返ってきた。
あぁ、どうしよう、でもまだ決定的なことは何も言われてないし俺は軽く流した方がいいだろうか、そっかぁよかったぁーとか言って、いやでもそれは傷付けるかもしれない、子供扱いしやがってなんて思うかも。久々に頭が高速回転している。俺今スパコンみたいだな、懐かしいな、二番じゃダメなんですかとかいうやつ。そう、二番はイヤだった
「ユキさんが好きだ」
ミライくんは確かに、決定的なひと言をテーブルに置いた。
凄いな、と感心した。俺はこんなにハッキリと人に、いや、人以外の、花や動物やコーヒーや酒、音楽に対しても、真っ直ぐ「好きだ」と言ったことはないかもしれない。この真っ直ぐさの前で、俺が出来ることは
「……ありがと」
かわすことだけだった。ミライくんは三秒ほど待ってくれたが、
「いや、ありがとうだけかよ。もっとあるだろ。俺はどうだとか」
と、ちゃんと真っ直ぐ突っ込んできた。うーん……と腕組みしながら、俺の過去現在未来を思い浮かべ、五秒間に返答を頭の中でタイプしては消しを繰り返し、ぶっつけ本番で口に出した。
「ミライくん、高校生じゃん」
「先週卒業したけど」
「誕生日いつだっけ」
「……四月一日」
「まだ未成年じゃん」
「来月成人するぞ?」
この先一年間は、ミライくんは十八歳。俺は怖くなった。ミライくんが、ではない。大人を好きになった十八歳の人、という存在が怖くなった。
俺が十八歳の時、二~三度行った美容室で、シャンプーを担当してくれた小牧さんに名刺を渡された。裏に、手書きのメールアドレス。佐藤くんってそうでしょ、と彼に言われた。小牧さんが俺の、最初の恋人だった、はず。
生まれて初めて大人の男に声を掛けられ、俺もいっぱしの大人になったつもりでいた。へー十八だったんだ、背高いしもっと上かと思ってた、と言われたが、そんなの嘘だ。お前カルテ見てるだろ、と今なら分かる。背が高けりゃ年いってるだなんて、小学生の論理だ。
友達が集まる場所に連れていってもらったり、酒や煙草を教えてもらったり。不思議な話だが、成人年齢引き下げられる前の方が、十八歳をオトナ扱いしてもいい雰囲気があった。
俺が十九歳の誕生日を迎える直前のある夜、俺は電話で小牧さんを問い詰めようとした。ねぇ、昨日何であの人と、と。小牧さんは、
「あー、幸宏、そういう感じだった?」
と悪びれることなく言った。
佐藤くんってそうでしょ、の「そう」と、幸宏そういう感じだった? の「そう」。大人の言葉遣いは、十八の俺には複雑すぎた。あれは子供への侮りだったのか、大人同士の容赦のなさだったのか。ただ少なくとも、小牧さんと俺の感じは一致してなかったということは分かった。
悔しくて、ムカついて、彼を非難する第三者の言葉を欲していた。でも、周囲にそれを吐き出せる相手はいなかったから、ネット上で相談サイトなんかを見漁った。結果分かったことは、これはとてもありふれた出来事だ、ということだった。よくあることで、傷付くような話じゃない。ドライであるべき。だから俺の中でもありふれた出来事にしようと、何人かと適当に関係を持った。物凄く無茶をしていたとか、爛れたとか、そんな大層な話ではない。でも、もしミライくんが同じような生活をしていたら、両肩を掴んで、やめな、と言うと思う。俺の十九歳はそうやって過ぎていった。
今なら、分かる。足の小指をタンスの角にぶつけたら、毎回うずくまるほど痛いし、タンスに憎しみを覚える。ありふれた痛みならば痛くない、なんてことはなかったんだ。
俺が、自分が受けたような痛みを十八歳のミライくんに与えてしまったら、彼の十九歳がどうなるか。それを想像すると身がすくんだ。
「ミライくん、俺さ、成人年齢ハタチの時代に育った人間だからさ、十八歳になったとて『ハイ大人だね』つって、いきなり切り替えて見れないというかね……」
やっぱり煮え切らない、あいまいな言葉遣い。やっぱり俺は、真っ直ぐな十七歳に向き合う資格はなかった。
「じゃあ十九になったらどうなんだよ」
ミライくんが競りみたいになっていて、よろしくない。決定的なことは言えないけれど、でも俺も、決して拒絶したいわけではなかった。
「ほら、今俺、年齢的な事しか理由にしてないからさ」
ミライくんは、狡い! と声を上げた。本当だ。でも、彼はそこで終わらせなかった。
「じゃあ、俺が十九になるまで待つってことだな!」
熱意と怒気を孕んだ声、そして目が鮮烈だった。少しだけ身を乗り出したミライくんの顔に、営業時間のシールは影を落とさず、瞳が日光を反射する。この人なら、
「そういう感じってどういう感じだよ!」
と問い詰め切れるんだろうな、と思った。申し訳ないけれど、今までで一番、いいなと思ってしまった。
〝節度〟というものを保って日々を過ごし、ミライくんが十九歳になった春、ようやく曖昧でない返事をした。
ミライくんへの気持ちは嘘じゃなかった。ただ俺は、心のどこかで、十九歳のこの人に傷以外のものを、俺があの頃欲していたものを与えられたなら、やっと俺自身の十九歳の悔恨から抜け出せる、そんな気がした。俺は相変わらず、狡い大人だ。ただそれでも、気持ちは誓って、嘘ではないんだ。
閉店後、舞さんがくれた肉まん――じゃなくて、豚まんと、ビールと、ジンジャーエールを提げて帰宅する。湿った空気が肌に纏わりつき、コンビニのレジ袋が缶に貼り付く。ビールが美味しい希節になったけど、十九歳にはまだ早い。法的にも、味覚的にも。
ただいま。おかえり、腹減りすぎて何も出来ん。頑張ってお皿並べるの手伝って。
手早く手を洗いながら励ました。流石に、夕方の腹ごしらえに、コンビニ肉まん食べたりはしなかったみたいだ。
「カツサンド、すごい美味しそうだね。どうしたの」
「大学の近くにさ、レトロな感じのザ喫茶店みたいな店あって、ずっと食ってみたかったんだよな」
両手位の大きさの白い紙箱を開けると、きっちりとカツサンドが収まっている。時間差でソースと脂の匂いが鼻に届いた。
電子レンジで豚まんを温める間に、冷凍庫に五分間突っ込んでいたビールを取り出す。缶の上に逆さまにしたグラスをカポっと被せ、辛子の小袋を持った手で掴む。反対の手では醤油と酢のボトルの頭を掴んで片手持ちし、「ミライくん、小皿お願い」と言った。
「俺小皿持つんだから、ついでにお酢くらい任せろよ」
「何かね、半端に効率考えちゃったねぇ」
テレビの前のローテーブルに、横並びで小皿を置く。自分の分の小皿に酢醤油を張り、セットの辛子を縁に付ける。醬油と酢のボトル、そして辛子の小袋をハイ、と渡すと、ミライくんは一瞬黙った後
「俺、辛子いらない派。酢醤油も、付けたことないし」
と言った。確かに、歩き食い立ち食いなら、酢醤油は付けないだろう。辛子は使えそうだけど。
「ああ、『いらない』んだ」
「何だ、含むなよ」
復唱しただけだよ、と返すが、憮然としている。丁度いいタイミングで電子レンジがピー、と鳴った。布巾越しに皿の端を掴み、運びながら
「あ、カツサンドの取り皿いるね」
と言う。青いやつ?いや、その下の葉っぱの柄の、と指示して、ようやく食べる体制が整った。
いただきますをして、熱々の豚まんに齧り付いた。ひと口目ってだいたい饅頭の生地部分だけだよなぁ、と思うけど、甘くてふかふかの生地と、酢醤油と辛子の酸味が合わさって、ちっともがっかりしない。ふた口目は、少しエッジの立った齧り跡の角からかぶりつく。やっと、餡の塩気と脂に辿り着いた。それが舌の上から消える前に、ビールを流し込む。左隣の、まだひと口しか食べてないミライくんが
「このひと口目、旨いけど焦れったいよな」
そう言って、ペットボトルのジンジャーエールをぐいぐい飲む。二口目を頬張り、口を尖らせながら、あぁこれこれ、と言った。俺は少し後ろに手をついて、斜め後ろから、膨らんで上下する頬を見て、あぁこれこれ、と思う。
「肉まんって、ビールのアテになんの?」
「辛子と酢醤油付けるとさ、キリッとして、合うんですよねぇ……ねぇ、ミライくん、この辛子ほっとんど辛くないよ。むしろ酸っぱい。コクあるし、すごい美味しいんだよ。お願い、付けてみてください!」
「祈るなよ、カロリー高ぇな。使う使う、使いますよ」
小皿に酢醤油を作ってやり、にゅっと黄色い辛子を絞る。ミライくんは、豚まんの肌をちょいと酢醬油に浸し、そして慎重に辛子を付け、ゆっくりと齧った。湯気に乗って、酸っぱい匂いが漂う。
「あ、ホントだ。ほとんど辛くない。あのさ、この生地の甘さとさ、酢醤油の味が濃いのと、辛子の酸っぱさのバランスがめちゃくちゃ旨い。ちょっとだけ辛みあるけどそれが逆にアクセントになって丁度いいわ」
ミライくんが、目をキラキラさせながら早口で語る。豚まんに辛子を付けて食べること。俺も初めて経験した日があったはずだけど、きっとこんなに眩しくはなかったと思う。そうそう、ミライくんはこういう感じだよな、と懐かしくなる。
俺は大人として、十七歳の肉まん少年に「ミルクとはちみつを入れたほろ苦甘いコーヒー」を、十九歳の豚まん青年に「ほとんど辛くない美味しい辛子」を与えられた。
「こっち、いただきますね」
紙箱から、カツサンドを一切れ取り出した。しっとりとした食パンに、雪道みたいに俺の指跡が付く。これ以上指跡を付けないよう、慎重に持って口に運んだ。薄いカツが二枚入っているから、ソースの染み込んだ衣の存在感がしっかり感じられる。分厚いとんかつを挟んだカツサンドとはまた違う、具材が一つにまとまった美味しさがある。美味しいんだけど、ひと口目にちょっとした違和感を覚えた。ふた口目を食べたとき、違和感の正体に気づいた。
「ミライくん、これ辛子入ってないんだね」
レトロな喫茶店の気取りのないカツサンドに、パンチの効いた辛子が入っていないのは意外だった。
また頬をぱんぱんにしていたミライくんは、もしゃもしゃと咀嚼してぐっと飲みこみ、またジンジャーエールをぐいぐい飲んだ。そして、あぁ、と言って続けた。
「あれな。店の人に確認して、辛子抜いてもらった」
今日一日でミライくんは、「ほとんど辛くない辛子があること」と「辛い辛子は抜いてもらうこと」を覚えていたのか。そう、自分にはまだ辛い辛子だったら、避ければいいんだよな。十九歳のミライくんは、多分俺よりずっと逞しくて、眩しい青年だ。
「ミライくん、トロ好きじゃん。トロも、ワサビありの方が美味しいんだよ。脂のこってり感がさわやかになるよ」
「いや別にワサビはいらないかなって思ってるだけだからサビ抜き派なだけだから俺は。つか何で急に寿司の話だよ」
豚まんに辛子を付けた時の食レポとは違うテンションの早口で返された。来年の四月に俺は、「苦いビールに甘いジンジャーエールを注いだシャンディガフ」を教えるだろう。寿司には合わないから、やっぱり豚まんやカツサンドと共に召し上がっていただきたい。
町中華屋のマイコー 早時期仮名子 @kanakamemari
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。町中華屋のマイコーの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます