第2話 皮蛋(ピータン)

 俺がユキさんの恋人になり、一ヶ月経つ。この一ヶ月間で、俺は、心地よい沈黙がある、ということを知った。かつての俺にとっては、沈黙とは「よそよそしさ」「気まずさ」「退屈さ」の象徴だった。でも、今は、そこに「安寧」が加わった。

 いやいや、普通に安らぎって言えよ気取ってんのか? と己をくさしたくなるが、熟語にでもしないと照れ臭くてやってられない。この照れ臭さは、単に「ベタを生きている」ことへの照れであることを、姿も見えない第三者に対して強く主張したい。

例えば、二人で部屋に居る昼どき、それぞれ本を読んだりスマホをいじったりしているとき、俺がふと時計を見る。すると、斜め後ろから

「あ、そろそろお昼にする? タイカレーの缶詰とそうめんあるよぉ」

と声を掛けられる。備蓄品もいちいちいい感じだ。しかも、俺でも作ってあげられる。

また別の日の二十三時前、俺が髪を乾かし終わると、ユキさんはソファーに座って、何やらクッションの下やソファの隙間を探している。俺は、机の下にポンと落ちていたリモコンを拾い、ハイ、と渡す。ユキさんは、あーありがとー、と言ってテレビを点け、毎週恒例の、「よく分からないお姉さんたちが海外リゾートを紹介し、中堅お笑いコンビがスタジオでコメントするだけの番組」を観る。

「この番組、なんっにも考えずに観てられるよねぇ……」

「スポンサーの社長のポケットマネーで作ってそうだよな」

 アイスとかプリンとか食べながらボーっと観て、たまにハハ、と笑う。

生活の中で、何も言わずに通じる事柄が増えていく。その結果の、〝安寧〟の沈黙である。悪くない、と思う。

しかし、今夜、町中華屋「楽楽」でテーブルを挟んだ俺達の間に漂う沈黙は〝安寧〟の沈黙ではない。

楽楽の、大通りに面した窓は雨粒を纏い、その一つ一つが、行き交う車のヘッドライトに彩られている。よく見かける中年夫婦が

「あれ、俺の傘が無いぞ」

「あなた外に置いてたわよ」

 と大声で喋りながらドアを開ければ、雨が店先のテントに打ち付けるバラバラという音が店の中に響いた。

 無言で俯いていたユキさんが、だしぬけに

「ミライくん、俺の考えてること、分かる?」

と静かな声で言った。その声は雨の湿気を吸ったように、僅かに重い。俯いた顔はそのままに、目だけを動かして俺の方を見る。

ユキさんは、黒々とした睫毛に囲まれたちょっと眠そうな垂れ目の中に、大きめの黒目を持っている。背の高い、割と骨ばった体格なのに、えらくつぶらな目が付いている。初めて会った時、俺は、右頬の笑窪(と、俺は認定した)も含め、こんなかわいらしいパーツ持ってる大人の男性いるんだ、と軽く衝撃を受けたのだった。

今その目のかわいらしさはなりを潜め、憂いを帯びている。その湿度を受け止めようと、目を逸らさず俺は言った。

「分かってるよ」

「そう、だよね……」

ユキさんは視線を落として少しだけため息をつき、そして吐いた息を取り返すかのように、大きく吸った。

「じゃあ、せーの、で言おうか…………せーの」


「ピータン」

「……ピータン」


 俺達は今日、ピータンを食べなければならない。

 ユキさんが、あああぁ怖い、と言って天を仰ぎ両手で顔を覆った。俺は俯き、片手で両のこめかみを抑える。指の隙間から、黒く薄っすら透き通った卵の写真が見える。専らワイン派の母さんは、自宅でピータンを食べることはなかった。たまに親戚で中華料理屋に行くときも、回転する円卓の上にピータンが並ぶことはなかった。俺は、ピータンの匂いすら知らない。

「一応聞くけどさ、ユキさん食べたことあんの?」

「いや、ある訳ないよね」

「それはちっとピータンに失礼じゃねえか」

 ユキさんは、ハッとして、メニュー写真のピータンの頭あたりを撫で、ごめんね、そういうつもりじゃなかったんだよ、と呟いた。いや、卵の頭がどこかは分からないけど。俺が、味分かんねぇよなコレ、と言うとユキさんは

「これさ、ぱっと見コーヒーゼリーっぽいよね。色とか、透明な感じとか。だから、コーヒーゼリーみたいな味っていう可能性、ある、と思う?」

「知らねぇよ。あとコーヒーゼリーは冷菜コーナーに載ってないしネギ掛かってねぇだろ」

 そっかぁコーヒーゼリーだったらいけるなって思ったんだけどな……と肩を落とす。

 なぜ俺達は、ここまで動揺し逡巡し恐怖しながらピータンを注文しようとしているのか。答えはシンプルで、ピータンを食べる順番が来たからだ。クラゲの冷菜、棒棒鶏と、たまたまメニュー表の上から注文したことをきっかけに、冷菜は上から順に頼む、と言うのが暗黙の了解になっていた。正直、その暗黙の了解を無視することもできる。だがそれは、問題の先送りに過ぎない。マイコー達成をめざすのなら、いずれ俺達は、ピータンに向き合わねばならないのだ。

「問題」呼ばわりしたことを詫びるため、俺もメニュー写真のピータンの頭をポンポンと叩いた。

「あのさ、ピータンってそもそも何なのかな? 原材料と作り方が分かればさ、味も何となく想像つくんじゃない?」

「……ナイス」

俺はスマホを立ち上げ、シンプルに「ピータン」と検索した。検索結果の先頭に表示されたページを開く。ぼそぼそと読み上げた。

「えー……『皮蛋(ピータン)は、アヒルの卵を強いアルカリ性の条件で熟成させて製造する中国の食品』」

「アルカリ性って、めちゃくちゃ広くない? 味噌漬けとか塩漬けとか、調味料ですらないってこと⁈」

「まだあんぞ。『英語ではcentury egg(百年たった卵)という』」

「百年って……百年前に生まれた赤ちゃんが百歳になるまでの期間ってこと?!」

「落ち着け、それ何も言ってねぇぞ……『皮蛋は、硫化水素の独特の匂いと刺激的な味を持つ。なお、食べるときは殻についた粘土や籾殻などを洗い落としてから殻を剥いて食べる』」

「粘土⁈ 何で粘土が出てくるの、俺達食べ物の話してたよね?」

「さらっと言ったけど硫化水素の独特の匂いっていうのもなかなかだな。理科室の外で硫化水素の匂い感じたことないわ」

 これは深く考え始めたら絶対注文出来ないな、と思った俺は、一瞬でカウンターを振り返り、今年一番の大声で

「すいませんピータンひとつ」

 と言った。ユキさんが、うそぉ……と呟く声を、後頭部で感じた。

 もう注文してしまったからには、存分にピータンの製法について追求できる。

「まずさ、アルカリ性っつーのがよく分かんねぇよな」

「待ってお願いミライくん『さて』みたいな顔してるけど俺全然気持ちついてってないよ?」

「あ、ごめん。他も何か頼むか」

「そこじゃない……あでも、それはそうだね」

 とりあえず華やかさで気分を盛り上げよう、と言うことで、油淋鶏と海鮮おこげ、肉シュウマイを頼むことにした。ピータンがどんな結果をもたらそうと、この三品は間違いなく、百%旨いだろう。ユキさんは珍しくビールを追加した。既に己を労う体制に入っている。俺は瓶のコーラを注文した。

「ねぇその瓶に詰まってるの全部ピータンだったら」

 俺が無言で見返すと、ユキさんは「ゴメン……」と目を伏せた。瓶に口を付けて飲んだコーラは甘酸っぱく、おそらくピータンではなかった。

 再び俺達は検討を始めた。

「確かにさぁ、アルカリ性っていう表現すごいよね。酸性じゃないすべての物質が対象に入るってことでしょ? この世の半分じゃん」

「いや、中性の存在思い出してやれ。でも、アルカリ性のものってぱっと思いつかないよな」

「うーん、青いリトマス紙とか」

 すっとぼけの構造が複雑すぎる。リトマス紙は酸性・アルカリ性を判別するための紙であって、それが青くなっていたとて、リトマス紙自体が強いアルカリ性の物体になったわけじゃない。そもそも、紙で卵包んでどうする。というツッコミをしたところで、あんまり伝わらないだろうし特に楽しくもないので放っておいた。

「硫化水素って書いてあったからな、そっち系のもの使ってんじゃねぇの?」

「硫化水素って何なの……えーっと『硫黄に水素が二個付いた化合物』だって! 硫黄って温泉の匂いだよね? 温泉水みたいな感じ? じゃ温泉卵ってことかな! ……え、俺の知ってる温泉卵と全然違う……」

 一人で調べて一人でテンション上がって、急にしぼんだ。相変わらず賑やかな人だ、と思っていたら、

「えっ、ミライくん見てアレ! あれじゃん‼」

 指さした先には、「水素水」と書かれたウォーターサーバーがあった。ちょっとセンシティブなので迂闊にツッコめない。俺は口だけで笑った。

「うそ、ミライくんが苦笑いしてる! 貴重!」

 まだ登場していないピータンひとつで、喜怒哀楽の怒以外のすべてを経験しようとしている。賑やかかつ燃費のいい人だ。俺もこんな大人に……なったら、部屋の中が凄くうるさそうだ。俺達の未来予想図を頭に描いていたら、店員さんが隣のテーブルに来て

「ピータンでェす」

 と言った。俺とユキさんは、首が吹っ飛びそうな勢いで隣を見た。確かに、白い大皿に、六切れのピータンが並んでいた。匂いは……しない。わからない、と言うべきか。これはもしかしたら、思ったほど衝撃的な味ではないんじゃないか、とほのかに期待した時だった。

「あのぉ、ピータンって甘いですか?」

 ユキさんが何の前触れもなく聞いた。隣の若いカップルはめちゃくちゃ困惑している。ユキさん、毎日客という「知らない人」に接しすぎて感覚が麻痺しているのか。あなたはそれでいいかもしれないが、俺は同席する者としていたたまれない。

「あ……甘くは、ないです……」

 ユキさんはほほ笑んで、そうですか、ありがとうございます、と言って俺に

「甘くないって!」

 とサムズアップした。

「甘味に限定すんな塩味酸味苦味の立場考えろ」

 このツッコミもよく分からないよな、と思ったが、しょせん俺は「ピータン甘いですかマン」の同行者である。この後店を出たカップルに

「あの人たちヤバかったね」

 とひとくくりで噂されるに決まっているのだ。ユキさんは呑気に「甘くないならやっぱコーヒーゼリーとは違うねぇ」と言っているが、そもそもコーヒーゼリーの甘味はクリームで補う店が多い……いや、このツッコミもよく分からない。俺はもう、俺のことがよく分からなくなってきた。

「まぁでもさ、ミライくんは心配しなくていいよ。ミライくんが食べられない分は、俺が食べてあげるから」

 そう言ったユキさんの顔は、いつものように穏やかだった。いや、ビール飲んでる分、いつもより少しだけ血色がいい。

「飲んで気が大きくなってる、とかじゃなく?」

「舐めないでよ、これっぽっちのビールで気が大きくなるわけないじゃん! 俺さ、今までの人生で、食べ物マズいって思ったことないんだ。しかもさ、中国五千年の歴史が生んだ食べ物だよ? あの謎の見た目にもかかわらず、楽楽にまで進出するくらいポピュラーってことでしょ? たぶん、多少癖はあるけど美味しいんだよ」

 中国の歴史は四千年だけど、もうそんなことはどうでも良かった。ユキさんと俺の、中国の歴史からしたら誤差レベルの、一年半の歴史を思い出す。初めてユキさんの笑顔を見た時のこと。その後ひたすら週一でユキさんの店に通い詰めたこと。気まずい思いや、勢いでの告白。一秒でも早く十九歳の誕生日を越えたかった一年間。そういう日々の先に、今の俺達の関係性があり、そして、ピータンがある。

「ありがとう……って言いたいところだけど、俺も頑張るわ。せっかくさ、二人で来たしさ。二人で分け合ったっていう思い出の方が、いいだろ」

 言った後、あまりに率直すぎて猛烈に恥ずかしくなった。前を見ると、ユキさんも若干照れくさそうにしている。やめろよ、普通にしとけよ、と思うけど、声には出さなかった。殊更に大きな声で

「あぶねー、メモ忘れるとこだったわ」

 と言って、スマホのメモアプリに

・油淋鶏

・海鮮鍋巴(海鮮おこげ)

・肉烧卖(肉シュウマイ)

・皮蛋(ピータン)

 と打ち込んだ時だった。

「あーすみませン」

 テーブル脇にスッと、少しぽっちゃりした、楽楽のホールスタッフのご婦人が現れた。

「ごめんなさい、ピータン、売り切レ」

 え、と言って俺達は固まった。俺達の頭上をアヒルの親子がぼてぼてと通り抜けていく。

 しかし、対応力と優しさと朗らかさが美徳のユキさんは、穏やかに微笑み

「あぁ、じゃあ結構です」

 と言った。その顔は、湿気を吹き飛ばすような爽やかさだった。


ピータン、なかったねぇ……

なかったな、残念だな、ピータン……


 ご婦人を見送りながら、俺達は口々にそう言った。そして、安寧と撤退の沈黙が俺達の間に流れる。もう一度スマホのメモアプリを開き、最後の一行を削除した。

 この時俺達はまだ、メニュー表の数行下に「ピータン豆腐」があることを知らなかった。

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