月行きのバス

黄猫

月行きのバス

 箱のかたちをした、夜の中にいる。身体が軽く、意識がふわふわしていて、いつからこうしているのか思い出せない。


 わたしの左側にはガラスの嵌まった壁があって、その窓の向こうには紺碧色の夜が広がっている。時折、灰色の煙のようなもやが通り過ぎていくのが見える。ここはどこなんだろう、とぼんやりする頭で思う。


「ご乗車ありがとうございます」と前方で誰かが言った。すこししゃがれた男性の声だ。「このバスは、**病院経由、月行きでございます」


 聞こえた言葉の意味を、うまく飲み込めなかった。バス、病院、月。この三つの単語にどういう繋がりがあるのかがわからない。


 周囲を見回してみると、ここがバスの中であることがわかった。夜と同じ紺碧色に染まった車内の左右には紺色のシートが並んでいて、それと同じ間隔でつり革がぶら下がっているが、どれも微動だにせず、まるで時間が凍ったように静止している。もう一度左側を向いて窓の向こうに目をやると、景色は後ろに流れている。ただ、どこかの道路を走っているわけではなく、どこかを飛んでいるみたいだった。先ほど目にした灰色の煙のようなもやは雲らしく、この見た目は普通のバスはけっこう高いところを飛んでいるらしい。


 わたしはバスの真ん中あたりで、左側にあるシートに座っていた。他に乗客はいないようで、耳がおかしくなってしまったのかと疑ってしまうほど静かだった。


「運転手さん?」とわたしは言う。


 すこし間をあけて、「はい」と返事があった。どうやらわたしの耳は正常らしい。


「ここは、どこですか? わたし、いつからここに?」

「おぼえておられませんか?」

「はい。なんだか、頭がぼーっとしてて、身体がふわふわしてるんです。すみません」


「そうですね」と運転手は言う。「ではひとつずつ、思い出してみましょう」


「はあ」とわたしは言い、左側の窓の方を見た。そこには自分の姿が映っている。


「お名前は?」と運転手が訊いてくる。


 わたしは両手で頬をパンパンと軽く叩いてから、窓ガラス越しの夜に浮かんでいる自分の姿を見つめた。肩甲骨のあたりまで伸びている髪と瞳は夜よりも暗い黒色で、目は大きく、鼻はすこし上向きで低い。頬には程々に肉があって、とはいえお腹が出ているわけでもない。淡いピンク色のゆったりとした服の上からでも、太りすぎていなければ痩せすぎてもいない体型ということがわかる。


 これが、わたし?


 困ったことに、わたしは自分の容姿も、名前も思い出せなかった。考えても念じても、それらしいものは浮かび上がってこない。


 おかしい。そんなはずない。そう思って自分の記憶を掘り返してみても、焦りだけが湧き上がってくる。


「落ち着いてください」と運転手は言う。「まだ時間はありますから」


「時間? なんの時間ですか?」

「月に着くまでの時間です」


「月」とわたしは呟く。「このバスは、月に向かってるんですか?」


「はい、そうです」

「どうして月に?」

「あなたのためです」

「わたしのため?」

「はい」


 何がどうなっているのか理解できずパニックになりそうになったが、途端にお腹が痛くなって身動きが取れなくなったので、わたしはやむを得ず両手でお腹を押さえてシートに深く腰掛けた。頭から汗が流れて、紺碧色に染まった視界がじわじわと黒く狭まっていく。


「持ち物になにか手がかりはないでしょうか」と運転手が言う。


 右側のシートに白いハンドバッグが置いてあるのが見える。おそらくわたしのものなのだろうが、それさえ記憶にない。わたしは腹痛がすこし和らいでからそれを膝に乗せ、口をひらいて中を確認した。入っていたのは鍵束と財布、スマートフォンだけだったが、いまはそれで十分だった。


 スマートフォンを取り出し、真っ暗な画面に触れる。反応はない。電源ボタンを押してみるも、やはり反応はない。充電が切れているのだろうか。今度は財布をひらいて、保険証を取り出す。そこには『秋月夜葉』という名前が記されていた。たぶん、これがわたしの名前なんだろう。


「あきづき、よるは」とわたしは言った。


 なんだか、しっくりこなかった。ほんとうにこれがわたしの名前なのだろうか。

 もう一度よく保険証を見てみたが、有効期限が切れている以外におかしいところは見受けられなかった(問題ではある)。生年月日から、秋月夜葉が二十五歳であることも推測できる。それがわたしの名前なのかははっきりとしないが。


「秋月さん」と運転手は言う。「よかった。思い出せたんですね」


「はい」とわたしは答えたが、何か腑に落ちなかった。


「秋月さんは、どうしてこの月行きのバスに?」

「そんなの、わたしが訊きたいですよ。いったい、どうなってるんですか?」

「まあまあ、そうイライラしないでください」

「そうは言っても……はあ。もう、何がなんだか」

「もうすこし、思い出してみましょう」

「でも、もう手がかりなんてありませんよ。スマホの電源も付かないですし」

「他には、何があります?」

「あとは財布と、鍵くらいです」

「鍵はどんなものが、いくつあります?」


 わたしはもう一度ハンドバッグの口をひらいて、中から鍵束を取り出した。付いている鍵は三種類あって、それぞれ形状が違う。おそらく、ひとつは家の鍵だろう。車の鍵なんかもありそうだが、財布やスマホケースには免許証がなかったので、もしかすると違うかもしれない。


 あと持っているとするなら、実家の鍵だろうか。そう思うと、なんだかそんな気がしてきた。であれば残るあとひとつの鍵は、どこをひらく鍵なんだろう。考えても、何もひらめかない。瞬く星のない夜みたいに、そこに光るものは何も浮かび上がってこない。


「たぶん、わたしの家の鍵と、実家の鍵。それと、もうひとつはわかりません」

「ううむ、そうですねえ。たとえば、誰か大切な人の家の鍵とか」


「大切な人」とわたしはつぶやき、手元の鍵束に目を落とす。


 そこでようやく、左手の薬指に指輪が嵌まっていることに気がついた。どうもわたしは結婚しているらしいが、パートナーの顔をうまく思い浮かべることができない。実際にそんな人がいるのかわからないし、いたとしたらその人の顔を思い出せないなんて、とわたしは胸が詰まった。


 仮にわたしにパートナーがいるとすれば、この鍵はどこの鍵なのだろう。わたしとその彼は、同棲していないのだろうか。であればこの鍵は、パートナーの家の鍵であると考えられる。あるいは同棲している場合、彼の実家の鍵だということも考えられる。そしてもちろん、そのどれでもない可能性だってある。結局のところ、実際に鍵と合う鍵穴に挿し込んでみないことにはわからない。


 スマホの電源が入れば、わたしとパートナーの存在を確かめられるかもしれないのに。そう思いながらどれだけ画面に触れても電源ボタンを押しても、光は漏れ出てこない。この中にはおそらくいろんな人の情報があって、そこには当然わたしのパートナーのものもあるだろう。いっしょに撮った写真や映像だって入っているかもしれない。電話が繋がれば、なんでも誰かに訊いてみればいい。でもスマホは何にも反応しない。これでは空っぽの財布と何ら変わりないただの箱だ。


「何かわかりました?」と運転手が言う。


「たぶん……わたしは結婚していて、男性のパートナーがいます。でも、名前も顔も思い出せないんです。もうひとつの鍵は、きっとその彼にまつわるものだと思います。ぜんぶ、憶測ですけど……」

「そうですか……いやはや、困りましたね」


 わたしはもう何も言えなかった。得体の知れない恐怖と焦燥感が、胸の奥をじりじりと焼いている。だんだんと胸がむかむかしてきて、それに呼応するみたいにまた腹痛がやってきた。両手でお腹を抱え、うずくまるような格好で深呼吸をする。額に流れる汗が一滴、床に落ちた。


 何かを、忘れてきたような気がする。ふと、そう思った。それは記憶とか思い出みたいな無形のものじゃなく、もっとしっかりと輪郭と重みを持った有形の何かだ。でも、それが具体的に何なのかがわからない。


 お腹の痛みは、強く、鋭くなっていく。肌を伝う汗の粒が、徐々に増えていく。ついには吐き気まで込み上げてくる。


「病院まで戻ってもらうことは可能ですか? 腹痛が、ひどくて……」


 わたしは痛みのあまり、思わず運転手にそう言った。


「それはできません」

「どうして、ですか?」

「そういう決まりだからです」


 すこし苛々してしまったものの、まあそれもそうだ、とも思った。運転手の彼も、好きで月までバスを運転しているわけではないだろうから、八つ当たりするのも悪い。でもこの不安を吐き出してしまいたいという欲求を、抑えることができない。わからないというのは、何よりも恐ろしい。


「すみません、お力になれず」と運転手が言う。


「いえ……こちらこそ、すみません」


 しばらくお腹を押さえてうずくまるように座っていたが、やがて波が引くみたいに痛みは去っていった。顔を上げて窓の外を見ると、すこし離れたところに鳥が飛んでいた。黒褐色の身体のあちこちに白い斑点があり、目が星のように光っていた。わたしの目にはそれが、夜鷹に見えた。この鳥もわたしと同じように、紺碧色の海みたいな夜に何かを探しているのだろう。見つかるといいな、と心の中でわたしは呟いた。


 もうしばらくシートに深く沈んでいると、気分もだいぶよくなってきた。とはいえ相変わらず新しく思い出せたことはないし、外の景色も特別変わったようには見えない。


「月まであと、どれくらいですか?」とわたしは訊ねた。


「だいたいあと四日というところでしょうか」

「四日……わかりました、ありがとうございます」


 実感はまるでないが、バスは着々と月へ近づいているらしかった。たしか、地球から月までの距離は四十万キロメートル弱だったように思う。それを四日で渡り切るというのであれば、このバスはアポロ十一号と同じくらいの速さで移動しているということになる。そういうふうには見えないが、そう思うと、身体がまた軽く感じられた。ふたたび、何かを病院に忘れてきたような気がする。わたしはいったい、何を置いてきたのだろう。


 病院に、忘れてきた?

 わたしは、病院にいたんだろうか?


 運転手は言っていた。「このバスは、**病院経由、月行きでございます」と。記憶にはないが、おそらくバスは病院に寄っているはずだ。だとしたら、わたしはそこでこのバスに乗り込んだのだろう。


 こんな夜中に?

 何のために?


 考えてみても、思い当たる節はない。そもそも、わたしはほんとうに病院からこのバスに乗り込んだのだろうか。仮にそうだとしても、わたしはなぜ病院にいたのだろう。


 何も思い出せない。なのに、大切なものが指の隙間からぽろぽろとこぼれていってるような気がして、泣いてしまいたい気持ちになった。わたしは、何を忘れてしまったんだろう。


 考えているうちに、瞼が重くなってきた。頭の奥に、ろうそくに灯る火のような、わずかな熱がある。わたしの意識は、その小さな火で溶け出して、暗闇に落ちていった。





「秋月さん?」


 目をひらき、重い頭を動かして声のした方を見ると、見知らぬ老齢の男性がいた。黒い帽子をかぶり、黒いスーツをまとい、細長い顔に立派な白いひげをたくわえ、眼鏡の奥の眼光が、心配そうにわたしへ向けられている。


「ああ、ええと」まだ半分眠っている頭で考え、わたしは言う。「運転手さん?」


「はい、そうです。着きましたよ、秋月さん」

「着いた? いったい、どこに」

「月です」


 振り返って窓の外を見ると、まったく舗装された気配のない灰色の地面と、漆黒の空がくっきりと分かれてそこにあった。直感が、ここが地球ではないと告げている。たぶんいま見ているのは、ほんとうに月面なのだろう。でも景色以外の違和感はほとんどない。呼吸もふつうにできている。ただ、なんだか身体が軽いような気がした。


「わたし、これからどうすれば」とわたしは思わず言った。


「だいじょうぶです」と運転手はほほえみを湛えて言う。「ここにも停留所がありますので、またべつのバスが来ます。それに乗って、好きなところへ行ってください」


「好きなところって、そんなこと言われても……」

「でも、もう秋月さんは帰ることができないのです。だから、進むしかないんです」

「そんな」


 めまいと吐き気が同時に襲いかかってきた。座っている姿勢を維持することができず、二席分のシートを占領するように倒れ込んだ。また腹痛がやってきた。冷や汗が額を伝って、シートの上に落ちる。ぽっ、と雫が跳ねる音がして、わたしは、すべてを悟った。


「すこし行ったところに、休める場所があります。そこまで、力を振り絞ってください」


 連れていってはくれないんだ、と痛みの隙間で思う。でも、もうわかっていた。わたしはこのバスから降りて、ひとりで歩いていかなければならない。この運転手さんを巻き込むことはできない。これは、もう決まっていることなのだ。


 しばらく痛みに呻いていると、やがてそれは収まった。そのあいだ、運転手はあたたかい手で背中をやさしくさすってくれた。

 わたしは身体を起こしてシートに座り直し、数回深呼吸してから立ち上がって、バスの降車口へ向かう。やっぱり、身体が軽い。気のせいじゃない。


 月の重力は、地球の六分の一らしい。でも、いまのわたしには関係のないことだ。

 身体が軽いとずっと感じていたのには、理由があった。いまのわたしには、わかる。このバスに乗らなければならなかった理由も、保険証に書かれていた自分の名前に違和感を抱いた理由も、そして、これからどうすればいいのかも、もうわかっている。


「ご乗車、ありがとうございました」


 バスから降りる直前、背後で運転手が言った。


 わたしは振り返って、「こちらこそ、ありがとうございます」と言った。


「よい旅を、秋月さん」

「わたしの名前、秋月じゃないです」

「あれ、そうなんですか?」

「はい。秋月は、旧姓です。わたし、海瀬さんと結婚したんです。だから、海瀬夜葉」


「それは失礼しました」運転手はほほえんで言う。「よい旅を、海瀬さん」


 わたしは運転手にほほえみ返し、バスを降りてゆっくりと歩き出した。両手で数えられる程度の足跡を月面につけて、振り返ると、そこにもうバスはなかった。きっともう、あのバスはわたしを迎えに来ることもないだろう。あの運転手と会うこともない。前を向いて、まだ足跡のない方へ歩き出す。運転手が言っていた、『休める場所』を探そう。


 しばらくさまよっていると、停留所と思しき場所が見えてきた。灰色の地面の上で、重い石を履いたポールが、丸い看板を掲げている。そのとなりには空色のベンチがあって、足元には白い花がたくさん咲いていた。


 ベンチに腰掛けて、地平線の向こうにわずかに見える、青い地球を眺めた。

 わたしはあそこに、たくさんのものを置いてきた。


 だんだんと眠くなってきた。わたしはベンチから立ち上がって、足元の白い花畑に倒れ込んだ。仰向けになると、花びらが数枚散って、空へ吸い込まれるように消えていくのが見えた。


 四日前――運転手の言葉を信じるなら、わたしがあのバスに乗っていることに気づいた日――は、出産予定日の八日前だった。陣痛がきて、わたしは病院へ行った。夫も来てくれた。わたしのお腹の中には女の子がいて、名前ももう決めていた。


 でもわたしは、娘の顔を見ることができなかった。きっと、何かがうまくいかなかったんだろう。医師たちは最善を尽くしてくれたはずだけど、わたしの魂は、その場に留まることができなかった。覚えていないが、もしかすると、血を流しすぎたのかもしれない。


 身体が軽いとずっと感じていたのは、そういうことなんだろう。わたしの中にはふたつの命があったけど、その両方が肉体からは失われた。赤ちゃんはわたしの外へ、わたしの命は夜の中へ、いってしまった。


 あの子は、無事生まれただろうか。わたしはその姿を見ることも、産声を聞くこともできなかった。できることはもう何もない。それが、寂しかった。


 わたしはゆっくりと目を閉じる。


 一度でいいから、自分の子どもを、この手で抱きたかったな。

 薄れていく意識の中で、そう思った。

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