第11話 忘れないで

 風が静止した。張り詰めた気配のみがみなぎっている。しん、と透きとおった空間に、歌が静かに流れ始めた。

「なんだ、なにが起こった?」

 光が収まり視力を取りもどした謙介の前には、誰もいなかった。

 遊希は、幸雄の傍にいた。

 その足は大地から離れている。冷気の衣をゆらりと揺らし、逆立てた髪を風のように遊ばせながら、遊希は檻を挟んでまっすぐに幸雄と見つめ合っている。気だるげな表情の唇からすべてを凍りつかせるような旋律が溢れ出して、雪原に漂いながら広がっていった。

「まさか、そんな……。遊希が、アルティメット級だと言うの?」

 美幸が頬を引きつらせてあとずさる。

「覚醒したのね、遊希」由紀乃が目を細めた。「あなたは本当はB級じゃない。力が強すぎるが故に、本能的な怖れによって自ら力を封じ込めていたの。でも。雪男に愛された雪女は、本来の姿を取りもどす。伝承のとおりね。お母さまはそれに気づいていた。だからあなたを後継者に指名した」

 遊希が片手を小さく振ると、幸雄と由紀乃が囚われている檻が凍りつき、砕け散った。

「バカな。核兵器の直撃でも原形をとどめる強度なんだぞ」謙介は、呆けたように口を開いている。「化けものか」

「今さらなにを言っているの」由紀乃が冷たい笑みを浮かべながら厳かに告げた。「私たちは、雪女よ」

「撃て。化けものどもを皆殺しだ」

 武装した黒衣の男たちが現れて自動小銃を乱射した。だが、その弾は遊希たちに届かない。空中で静止している。

 遊希は、謙介たちの方にゆっくりとふり返った。唇に笑みが浮かぶ。静かに歌が流れた。耐冷スーツを着た男たちは銃を構えたままの姿で凍りついた。遊希の瞬きと共に粉々になって四散する。

「ふん、人間を凍らせることはできても、私には通用しない」

 懐から軍用ナイフを取り出して、美幸は遊希のもとへ走ろうとした。しかし、足を動かすことができない。

「なぜなの? 私は雪女なのに」自分の足を見た。「私じゃなくて、周囲の空気を凍らせて動きを封じたのね」

「美幸姉さん」遊希の声は、どこか遠い響きがした。「覚えていますか。小さかった頃、冷気が吐けなくて泣いている私を励ましてくれましたね。どれだけ救われたことか。うっかり崖から落ちたときは、傷だらけになりながら助けてくれた。あなたは本当は優しい。私はそれを知っている」

 漆黒の空から、雪が、はらはらと降り始めた。

「なにを言ってるの。あんなのは、ただの気まぐれよ」

 なにかに惑うかのように、美幸の視線は定まらない。

「役立たずばっかりだな」

 謙介は棒立ちの美幸から軍用ナイフを奪い取った。無造作に美幸の胸に突き立てる。真っ白な雪の上に、赤い花びらが咲いた。

 見開かれた美幸の目が由紀乃を探した。

「姉さん……」

「美幸」

「お母さんの閉じ込められている檻の封印を解きます。納屋の中です。助けに行って」

 目を閉じた美幸がなにか呟いた。呪文だろうか。微笑みを浮かべている。その体が白く固まって砕け、細かい粉となった。風がそれをどこかへ運んだ。

 一瞬、瞼を閉じてこうべを垂れた由紀乃は、苦しげな表情を浮かべつつも走り始めた。

「あとを頼みます、幸雄さん、そして遊希」

 母を救いに行くのだろう。

 遊希が謙介を冷たく見つめた。唇を開く。

「くそ、最後の手段だ。喰ら――」

 最後まで言う前に、謙介は氷の彫像となり、ひび割れてばらばらと崩れ落ちた。しかし。

 突然、周囲で激しい爆発が起きた。業火のごとき炎が巻き上がる。

「謙介の奴、こんなものを仕掛けていたのか」

 顔を歪ませながら、幸雄は遊希の手を握った。ふたりを炎の陰影が照らす。取り囲んだ熱い火の壁が、じりじりと輪を狭めて迫ってきた。

 遊希は空いている方の手を前に突きだした。炎の進軍が止まった。しかし、燃焼の勢いは弱まらない。

「幸雄さん」遊希は幸雄の方を向いた。「このままでは、ふたりとも焼け死んでしまいます。だから」

 歌が聴こえた。遊希の唇から流れ出ている。幸雄の体が分厚い氷に包まれていった。首から上だけを残して。

「なんだ、これは」

「あなたを守る鎧です。簡単には溶けません」遊希は普段の姿にもどった。肩で息をしている。「結局、あなたを凍らせることになりましたね」

「そうだな」幸雄は片方だけ眉を上げて微笑んだ。「さあ早く、おまえも氷の鎧を」

「自分に鎧を着せるための力を残しておくのを忘れていました。私って、やっぱりB級ですね。こんな私ですが、あなたに愛されて――幸せでした」

「遊希……」

「お別れです、幸雄さん。最後に、本当の名前で私を呼んでください。私の名は、――」

「どうにもならないのか」

「私にはもう、ほとんど力がありません。でも、本当の名前を呼ばれると、雪女最大の能力を発揮します」

 幸雄は遊希の本当の名を力の限り叫んだ。その想いは大きく強く響きながら暗い空に吸い込まれていった。遊希の体全体から絞り出すように冷気が吹きだして、幸雄の頭部を優しく包み込んだ。

 空から落ちてくる雪が、雨に変わっていく。

 遊希は空を見上げた。

「もう、冬も終わりですね。でも忘れないで。私のことを、忘れないで」

 氷の涙がひとつ、煌めきながら遊希の足下に落ちていった。幸雄は氷の鎧に包まれて動けない。遊希を見つめることしかできなかった。

「本当の名前を呼ばれると、雪女は――」

 遊希の存在が曖昧になっていく。口が動いているが、幸雄に声は届かない。

 雪の粉となって空に散った遊希は、激しい雨と混ざりあいながら溶けていった。

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