第9話 あなたの命令に従います

 遊希が連れ去られた翌日。

 ひとりになった幸雄は、以前のように無気力な状態にもどってしまった。でも、仕事には行った。もしも遊希が帰ってきたら。そのときのために、生活を維持しておかなければならない。

 だが、遊希のいない部屋に帰るのは、やはり辛かった。暴行を受けた傷が癒えていない重い体を動かして鍵を取り出した。差し込んで回す。ひとつ息をついてドアを開いた。人の気配がする。まさか。

「遊希?」

 明りの消えた部屋の中に、白い人影があった。

「おかえりなさい」

 苦しそうな女の声だ。壁のスイッチを押して電灯を点けた。

「由紀乃さん!」

 苦悶の表情を浮かべ、額や肩から赤い血を流した由紀乃がうずくまっていた。

「どうしたんですか」

 慌てて傍に寄り、跪いた。

「遊希はどこですか」

 由紀乃にそう問われ、幸雄は胸に不安が広がるのを感じた。

「どういうことですか。遊希は家に帰ったんでしょう?」

 幸雄から事の次第を聞いた由紀乃は端正な顔を歪め、唇を噛んだ。

「遅かった……あなたたちふたりを逃がそうと思ったのだけど」

「逃がす? よく分かりませんけど、とりあえず救急車を……」

 由紀乃の怪我は、浅くはなさそうだ。

「そんなひまはないんです。今すぐ私と一緒に村に来てください」

「いったい、なにが」

「村長である母が襲われて幽閉されました。おそらく遊希も。身内の恥を晒すようですが、次女の美幸の仕業です。射矢見いやみ謙介とかいう男と共謀して」

「謙介が?」

「ええ。知り合いなんですか」

「はい。かなりやっかいな奴です。自分の欲望のためなら、平気で他人の人格を踏みにじる。でも、なんであいつが」

「彼らは冷気を受けつけない変なスーツを着ていました。私たちは手も足も出ませんでした。冷気を封じられれば、ほとんど普通の人間ですからね。明らかに戦闘訓練を受けた連中には太刀打ちできません。村長である母が捕まっているので、残った村人たちも手出しできなかった」

 遊希は、いずれは村に帰らなければならなかったのだ。美幸に連れ去られたとき、幸雄はそう、自分を納得させた。だが、ただの里帰りではすまない状況に陥っているようだ。

「助ける方法はないんですか」

「私と来てください。あなたなら救えるはず」

「俺はただの人間ですよ?」

「大丈夫です。あなたと遊希が揃いさえすれば」

「なぜ俺なんですか」

「あなたにはそれだけの力がある。自分では気づいていないようだけど」

 由紀乃に手を握られた。

「なんですか?」

「遊希に会いたいですか」

「もちろんですよ」

「ならば気持ちを遊希に向けてください。強く、強く」

 視界がぼやけていった。見えるもののすべてが色彩を失いモノトーンになって、やがて透きとおって消えた。

 ふと気づくと、知らない所にいた。深く積もった雪の周囲を、激しく炎を揺らす松明たいまつが取り囲んでいる。

「ここが?」

 幸雄が問うと、由紀乃はうなずいた。

「雪女の村です」

 少し離れた所に人が立っている。遊希だ。その隣には謙介の姿があった。

「おや、幸雄じゃないか。こんな所まで来ちゃったのか。ずいぶん、惚れてるんだな」

「遊希を返せ。お母さんもだ」

 謙介に対する怒りのためか、幸雄の体は微かに震えていた。

「幸雄さん、どうして来てしまったの?」

 悲しげな声で遊希が呟いた。

「どうして、って……」

 口ごもる幸雄の目の前に、雪の下から突然なにかが飛びだした。それはバタンバタンと変形し、見る間に幸雄と由紀乃を閉じ込めるおりになった。

「なんだ?」

「忘れたのか、幸雄。捕獲用の檻だよ。おまえもうちの会社で開発に参加したじゃないか」

「大型動物のためのやつか」

「表向きはそういうことになっている。でも本当は軍事用なんだ。おっと、触るなよ。知ってると思うが、高圧電流を流してある。死ぬぞ」

「まさか、今おまえが着ている耐冷スーツも軍事用なのか。寒冷地観測用に開発したはずなのに」

「そのとおりだ。おかげで雪女を無力化できたよ。おまえは自分も関わった技術でかごの鳥、というわけだ」

 謙介は、幸雄を見下すように顎を上げた。

「遊希、なぜそいつと一緒にいる」

 幸雄が声をかけたが、遊希はうつむいたまま答えない。

「言うことを聞かなければ幸雄を殺す、と言ってあるのさ。俺直属の部隊の戦闘力をちょっぴり見せてやったら、すぐにうなずいた」

「汚いぞ、謙介」

「もとより、自分をきれいな人間だとは思っていない。そうだ、汚いついでに、いいことを思いついた。おまえの目の前で、こいつを可愛がってやる」

「やめろ!」

 幸雄は叫んだが、檻に阻まれて遊希の所に行くことはできない。由紀乃が幸雄の手を握った。しかし、テレポーテーションは使えないようだ。力を使い果たしたのだろうか。

「おい、脱げ、雪女。愛しい人に、おまえは俺のものだと分からせてやろうじゃないか」

 遊希は、目を見開いて息を飲んだ。

「あいつを殺すぞ。俺には簡単だ。スイッチをひとつ押せばいい」

 謙介は腰のベルトに手を触れた。

「そんな奴の言いなりになんかなるな、遊希」

「うるさいぞ、幸雄」

 檻から飛んだ電撃が幸雄を打った。幸雄は声も出せずに地に這った。由紀乃が抱き起こして支える。

「やめて!」遊希は白い浴衣の帯に手をかけてうつむいた。「あなたの命令に従います。だから、幸雄さんを傷つけないで」

「だめだ、よせ」

 幸雄の悲愴な叫びを聞いた謙介は、勝ち誇ったように下品な笑みを浮かべた。遊希に向かってうなずく。

 震える指先で帯をつかんだ遊希は、ゆっくりとそれを解いた。

「遊希……」

 幸雄は見ていることしかできない。握りしめた拳が震えている。

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