第7話 死んでください

「おかえりなさい」

 にこやかに出迎える遊希の顔を見ると、幸雄は一日の疲れがほぐれて消えていくのを感じた。

 ふたりの生活が始まって、一ヶ月半ぐらいがすぎた。おだやかで静かな毎日が続いている。

 でも今日はいつもと違った。見知らぬ女が、部屋の中央でこたつに入っていた。白い浴衣を着ている。

由紀乃ゆきのと申します」女は正座したまま幸雄の方に向きを変え、深々と頭を下げた。「妹がお世話になっております」

 ああ、はいどうも。と挨拶を返してから気がついた。遊希のお姉さんということは。

「あなたも雪女なんですか」

「ええ、そうですよ」由紀乃は切れ長の目を細めて朗らかな笑顔を見せた。「そういうわけですので。死んでください」

 冷気が舞い上がり、LEDの照明が、すーっと暗くなった。艶やかに長い黒髪を逆立てた由紀乃は、さっきまでの優しい表情とはうって変わって鬼のような形相で幸雄を睨みつけた。白目が血走っている。

 遊希と出会った夜ならば、死ぬ気でいたので、由紀乃との遭遇はむしろ好都合に思えたかもしれない。でも、今は遊希との生活がある。死にたくない。逃げようとしたが、由紀乃の視線に絡みつかれて体が動かなかった。

「やめて、お姉ちゃん」

 遊希は由紀乃の浴衣の袖をつかみ、悲愴な表情を浮かべている。

「あなたがやらないから、私が代わりにこの男を凍らせてあげる」

「やらないんじゃなくて、できないの」

「もちろん知ってるけど。同じことでしょ」

 由紀乃は立ち上がった。とても大きく見えた。その唇が一気に開いて真っ赤な口の中が見えた。迷いのない勢いで冷気が吐き出された。

「だめ」

 遊希は幸雄の前に立ち、自分が冷気を受けた。

「遊希!」

 幸雄が叫んだ。しかしなにも起こらない。遊希は平気なようだ。

「だめよ遊希ちゃん、じゃましちゃ」

「でも」

「しょうがないわね」

 由紀乃は飛んだ。遊希と幸雄を飛び越しながら身をひねり、着地と同時にうしろから冷気を吐いた。幸雄は恐怖で腰が抜けてしりもちをついた。その頭上を冷気がとおり抜けていった。窓際に置いてあった時計が一瞬で凍りつき、弾け飛んだ。

「逃げて!」

 遊希の叫び声で我に返った幸雄は、壊れたブリキのおもちゃのようにぎこちないながらも、なんとか立ち上がって家を飛び出した。遊希と手をつないで裸足のまま夜の住宅街を走る。

「待ちなさい」由紀乃が追いかけてくる。とんでもないスピードだ。「私をふりきれると思っているの?」

 由紀乃は、うふふふふ、と冷たい笑い声を上げながら一瞬でふたりを追い越して、さらに先まで行ってしまった。

「遊希、由紀乃さんて、もしかして……」

「はい、ちょっと天然、入ってます」

 公園に逃げ込んだ。コンクリートでできた遊具のトンネルに潜り込む。子供用なので、かなり狭かった。

「なんとか、かわしたね」

「お姉ちゃんが勝手に行ってしまった、とも言えますけど」

「とにかく、一応は助かった。問題は、これからどうするかだ」

「家にはもどれませんね」

 幸雄は遊希の手を握った。

「すまない、俺のせいで」

「それは違います。私が幸雄さんに助けてもらったから、こうなったんです。私こそ、ごめんなさい」

 じっと見つめあい、ふたりは唇を合わせた。

「なんとか話し合いで解決できないかな」

「無理だと思いますよ。由紀乃お姉ちゃんは優しいけど真面目だから。掟は、絶対です」

「最悪、俺は死んでもいい。でもそうなると遊希は家に帰らなければならなくなる」

 遊希は幸雄の手を強く握り返した。揺れる瞳でまっすぐに幸雄を見つめる。

「幸雄さん。家に帰るより辛いことが、今の私にはあります」

「なんだ」

「あなたと一緒にいられなくなることです」

「遊希……」

 幸雄は遊希の華奢な肩を抱き寄せた。

「大丈夫よ」

 トンネルの外から声が聞こえた。

「由紀乃お姉ちゃん……」

 遊希の声は少し震えていた。

「凍らせた状態で家に飾っておけばいいじゃない」

「ああ、なるほど」幸雄は手を打った。「って、言うと思いますか?」

「ノリツッコミするなんて、余裕ね」

 由紀乃は大きく息を吸い込んだ。容赦のない勢いで、狭いトンネルの中に冷気が吐かれた。遊希は反対側にいる。幸雄を庇うことはできない。

 冷気はまともに幸雄にかかり、一気に全身を包み込んだ。

「幸雄さん!」

 目を見開いた遊希の隣で、幸雄は――普通に座っていた。

 冷気の気配を消して元の姿にもどった由紀乃は、おだやかな視線を幸雄に向けたままじっと動かない。やがて、ひとつ息をついて、静かに告げた。

「遊希のことを、よろしくお願いします」

 幸雄は事情が飲み込めない。

「どういうことですか」

「しばらくあなたに預けます」

「俺を凍らせなくていいんですか」

「おそらく、私たちにあなたを凍らせることはできません。なぜなら――いえ、その話をするのは早計というものでしょう」

 空気と同化するように由紀乃は透きとおり、消えた。遊希が幸雄を見つめている。

「まさか、とは思いますけど」

「なにが?」

「いえ」遊希はぎこちなく微笑んだ。「晩御飯にしましょう、幸雄さん」

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