第6話 元恋人は、卑劣な男の手に落ちて
幸雄はアルバイトを始めた。生活を維持しなくてはならない。そう、遊希とふたりの。いずれ正規雇用を目指すとしても、それにこだわってばかりもいられない。
「おかえりなさい」仕事から帰った幸雄を遊希が出迎える。「ご飯できてますよ。それともお風呂にしますか」
まるで新婚家庭のような、ぎこちない、でも温かい生活が続いている。
遊希もアルバイトを始めた。花屋だ。雪女なので冷たい水を使うのは平気だし、手先が器用なようだ。それに、花に触れていると心が落ち着くのだという。
ふたりはときどき食事にでかけた。豪華なところではない。チェーン店か町の中華だ。餃子の美味しい店は、探してみれば意外なほどにたくさんあった。
「帰ろうか」
馴染みになりつつある中華の店で席を立ちながら、幸雄が声をかけた。
「私、エンジンかけておきます」
遊希は中型二輪および普通自動車免許を持っていた。雪女は街に溶け込み、普通の女の子と変わらない生活をしているという。高校にも通ったらしい。恋バナに花を咲かせ部活で汗を流して、どうでもいい話で友人たちと笑う。遊希は、そんなあたりまえの日々を送ったのだ。
幸雄が会計を済ませて外に出ると、遊希の前に男が立っていた。遊希の腕をつかんでいる。
「どうした、遊希」
眉を寄せている遊希に、幸雄は鋭く声をかけた。
「あ、幸雄さん、この人が……」
幸雄の方を向いた男の表情がゆるんだ。
「なんだ、幸雄じゃないか」
「謙介か。なにしてるんだ」
幸雄が退職する原因になった社長の息子だ。幸雄は油断なく身構えた。
「なに、って。可愛い子がいたから声をかけてたんだよ。まさか、おまえの彼女なのか」
「いや、まあ、なんというか」
「すごいな。もう新しい子を見つけたのか。しかも、なかなかの上玉じゃないか」
「下品な言い方をするなよ」
「ひと晩、貸せよ」
「バカなことを。手を放せ」
「分かったよ。怖い顔をするな」
自由になった遊希が幸雄のうしろに隠れた。
「あ、そうだ。おまえにいいものを見せてやるよ」
謙介はスマホをいじり、幸雄に画面を見せた。幸雄の顔が仮面のようにこわばった。
そこには元恋人の理沙が映っていた。理沙は、口にするのもはばかられるような酷い扱いを受けていた。
「カネをちらつかせたら簡単についてきた。酔わせて意識がなくなったところで……。あとは分かるだろ? まだおまえと付き合ってた頃だ」
「なんてことを」
幸雄の声が震えた。
「幸雄と別れて俺の女になれ。そうでないと、この写真をネットで拡散させるぞ、と脅した。少し青い顔になったけど、カネには不自由させないと言ったら薄く笑顔を見せてうなずいた」
それで俺は別れを告げられたのか。幸雄は辛い気持ちに追い打ちをかけられた気分だった。
「でももう、こいつには飽きた」
「謙介、おまえ……」
腹の底から湧き上がる怒りを幸雄は抑えきれなかった。せめてちゃんと理沙を愛してくれたなら。
幸雄は謙介を突き飛ばした。謙介はよろけてつまずき、倒れた。硬い音がした。頭をコンクリートの地面にぶつけたようだ。
身を起こした謙介のこめかみのあたりから赤い血が流れている。それを見て幸雄は冷静な心を取りもどした。
「すまない、大丈夫か」
幸雄が謝ると、謙介は一瞬恐ろしい顔をしたが、すぐに笑顔を見せた。
「いいさ。俺も悪かった」
ブランドもののハンカチで血を拭きながら、謙介は自分の車の方に歩き始めた。あんなにもの分かりのいい奴だっただろうか、と幸雄は不審に思った。ふいに、謙介がふり返った。
「幸せにな」
不気味な笑顔を浮かべ、謙介は去っていった。
「さっきは怖かったです」
遊希はうつむいている。
「そうだな。悪い奴につかまった」
布団はまだひとつしかない。幸雄と遊希は並んで横になり、眠りにつこうとしていた。
「あの、少しだけ写真が見えてしまったんですけど。恋人さんですか。あ、訊いちゃいけないのかな」
「いいよ。元、恋人だ。カネで動く女だとは思わなかった」
「私にはそんなふうには思えませんでしたよ」
「カネではない、と?」
「幸雄さんのため。そんな感じがしました」
「そうなのかな。よく分からないけど」
確かに、理沙はカネに目がくらむような下品な女ではなかった。幸雄にはそう思えた。
「あの人、幸雄さんが勤めていた会社の経営者一族なんですよね? 幸雄さんに不利益を与えるような卑怯なことを言って、無理矢理言うことを聞かせたんじゃないですか」
「あいつならやりかねないな」
幸雄は心の中で
「それにしても、酷いことをされていましたね。直視できませんでした」
「心配するな。おまえにあんなことはさせない。絶対守るから。俺が、守るから」
そう。今度こそ、俺は遊希を守る。
遊希の大きな瞳が揺れている。幸雄は、さらさらと流れる遊希の髪をなでた。ゆっくり顔を近づける。瞼を閉じた遊希は、微かに震えていた。
僅かに開いた遊希の小さな唇の奥に白い歯が見えている。その隙間で湿った舌が動いた。そっと、唇を合わせた。遊希は熱い息を吐いた。抱きしめて頭に頬ずりした。優しい髪の匂いがした。
窓の外では、音もなく雪が降り始めていた。
雪女なので冷たいのかと思ったが、遊希の内側は蕩けそうなほどに熱かった。心地よい柔らかさに包まれて、痺れるような幸せが隅々の細胞にまで広がっていくのを、幸雄は安らかな気持ちで感じた。
遊希は初めてだったようだ。とてもぎこちなかったけれど、一生懸命、幸雄を受け止めようとしているのが分かった。
降り続く雪が、激しさを増していった。
ともに高みを越えて浮遊感に包まれたふたりは、もう一度唇を合わせた。
窓の
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