第4話 B級グルメじゃあるまいし

 三十七人前の餃子を腹に収めた遊希は、少し苦しそうにしている。冷たいけれどしっとりと柔らかい遊希の手を引いて、幸雄は駐車場に出た。人目のない木陰へと進む。葉を蓄えた木の枝が屋根のように突き出していて、そこには雪が積もっていなかった。

「さあ、ひと思いに凍らせてくれ」

 両手を広げて幸雄が求めたが、遊希は口を閉ざして地面を見つめている。

「どうした」

「できません」遊希は顔を上げた。「私には、あなたを凍らせるだなんてことは、できません」

 餃子を食べさせてもらった恩があるからだろうか。いい子じゃないか。雪女でなければ恋人にしたいぐらいだ。幸雄は少し、暖かい気持ちになった。

「いいんだ、やってくれ」静かな声で、幸雄は改めて頼んだ。「それが俺の望みだから」

「どうなっても知りませんよ」

 どうなるもなにも、凍って死ぬ。それだけのことだ。

「お願いだ」

 分かりました。そう言って遊希は僅かにうつむき、静かに目を閉じた。

 下から風を受けているかのごとく、日本人形のような遊希の黒髪が逆立ち、ざわめき始めた。

 瞼が開かれた。瞳がアイスブルーに輝いている。三日月型に口が歪んで、血走った目は吊り上がっている。さっきまでの、のんきな女の子とは別人のようだった。生きたままの人間を平気で喰らいそうだ。

 ああ、本物だ、と幸雄は思った。なんという偶然だろう。そして、なんと幸運なことなのか。行村幸雄は雪山で雪女の結城遊希と出会い、苦しむことも迷うひまもなく一瞬で凍らせてもらえるのだから。

 ゆらゆらと立ち上る冷気に包まれた遊希が、幸雄と目を合わせながら顔を近づけてくる。唇が大きく開かれた。口の中は血のように赤い。

 はーっと、息が吐かれた。幸雄は顔を歪めて身を震わせた。

 臭い。

 餃子を大量に食べたせいだろう。強烈な臭気を伴う遊希の息を思いっきり吸い込んでしまった幸雄は、ハンマーで頭を殴られたかのような衝撃を受けた。膝が砕け、地に崩れ落ちた。

「あの……遊希ちゃん?」

「はい」

 一瞬で元の無邪気な姿にもどった遊希が、頬を染めて目をそらした。

「俺、凍ってないんだけど」

 寒さを感じない体質ではあるが、感覚と物理的な現象は別問題のはずだ。

「やっぱりそうでしたか」

「やっぱり?」

「私、人を凍らせる冷気が吐けないんです」

「雪女なのに?」

「そう、雪女なのに、です」

 遊希は目を合わせない。

「普通はどうなんだ」

「吐けます。A級以上なら」

「なんだそれ?」

「雪女にはランクがあるんです。私はB級なんです」

 湯気の立ち上るラーメン、ソースが芳ばしい焼きそば、たこ焼き。B級グルメが幸雄の脳裏をかすめていった。

「もしかして、落ちこぼ……」遊希が泣きそうな顔になった。「あ、ごめん」

「いいんです、事実なので」

 幸雄は、うつむき加減の遊希を見つめた。邪気の感じられない、清楚な顔をしている。冷気を吐こうとしたときは別人のようだったが、基本的には素朴で純粋な心の持ち主に思えた。

「家業の修行って、まさか」

「そうです、雪女としての能力を磨くためのものです。でも、できないことをやり続けるのが辛くて」

「逃げちゃったんだ」

「はい、うちは特に厳しいんです。母が村長なもので」

「それは」なんとなく、だが、幸雄には状況が想像できた。「たいへんだね」

 中華ファミレスの看板が発する赤い光を受けて、なにかが煌めきながらコンクリートの硬い地面に落ちて砕けた。

「氷?」

「冷気は吐けないけど、涙は凍るんです」

 続けて数個、涙が弾けた。幸雄はそれを、きれいだと思った。

「これからどうするつもりだ」

「どうしましょう」

「村に帰るか」

「嫌です」

 いずれは帰らなくてはならないだろうけれど。ひとまずは。

「よかったら、うちにこいよ」

 遊希は、驚いたように顔を上げた。

「いいんですか、私、雪女ですよ?」

「いいさ。死ぬ気でいたんだから。この先の人生は、おまけみたいなもんだ。雪女でも雪男でもかまうものか」

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