師弟

さて、かの恐るべき戦いについて綴るには、を迎える二日前のことから綴らなければならない。

それは、ファジルが魔導師アイモスに弟子入りをした三年後の話であった。


その日、ファジルは昼を少し過ぎた頃に家を出た。極北の冷たい風が吹く大理石の街並みの中を歩き、魔導師アイモスとその弟子達が日夜研究を行っている研究所へと向かった。


道行く人々は、ファジルの姿を認めると、声を潜めて噂しあった。数々の視線が向けられるが、好意的なものは少ない。皆、懲罰官を恐れていたのだ。罪人に罰を与える懲罰官は潔白な市民からは感謝されてしかるべき存在だが、迷信深く臆病な市民達は、彼らを怒らせればその残虐な技術が自分にも向けられるのだと信じ込んでいた。


ファジルは目立つ少女だ。懲罰官を目指す娘という立場だけでも十分注目の的であったが、その外見が注目に拍車をかける。身長こそ同年代と比較しても低めなものの、ハイパーボリアでは珍しい、業火を体現したかのような赤く波打った髪、これまた炎のようで強力な意志を感じさせる切れ長の眼は、通りがかる人々に一瞬で彼女が誰であるかを理解させるのだった。


四半刻程歩いてファジルは研究所に到着した。アイモスの研究所は、ウズルダロウムでも特に目立つ大理石の尖塔と、それを環になるように囲む十二の建造物で構成される広大なもので、その敷地のほとんどは、アイモスの広い人脈によって集められた膨大な書物を収める書庫であった。


ファジルが敷地を隔てる門をくぐり、同じく研究所へと歩く弟子達に混じって歩いていると、目の前に人だかりが現れた。魔導師アイモスとそれを取り巻く弟子達だ。アイモスは歩いている弟子達の中にファジルの姿を見つけると、大きく手を振りながらファジルを呼んだ。


「おお、ファジルではないか! 丁度よかった! 君と少し話をしたかったのだよ!」


アイモスは周りの弟子に先に行くように促し、人の良さそうな笑みを浮かべながらファジルを待ち構える。ファジルは心の中でため息をついた。アイモスは話が長いのだ。


アイモスは齢七十になる男性の魔導師で、歳に見合った白い髪と髭、顔のシワの数をしているものの、その朗らかな性格や活発な様子から何十年も若く見られる人物だった。


「どうも、先生。……お話とは一体なんでしょうか?また私が何か失態を……?」


アイモスの言う話に心当たりの無かったファジルは、近頃はこれといった問題は起こしていないはずだが……と記憶を巡らせる。そんなファジルの様子に気づいたアイモスは、やや大袈裟に腕を広げ、ファジルの疑問を否定した。


「いや! いや! 今日は老人の煩い小言では無いとも。確かに君は少々危険を省みないところはあるが……いやいや、これでは小言になってしまうな」


アイモスは一つ咳払いをし、調子を変えて続ける。


「一ヶ月ほど前に論文を提出してくれていただろう? 他の弟子達の論文がたまっていたので読むのが遅れてしまってね……昨日ようやく読むことができたのだが……いやはや、もっと早く読むべきだったと後悔したとも。ファジル、やはり君は天才だ! 多少部屋を暖められるだけの呪文を鉄を白熱させるものに改変できようとは! 周囲に放出する熱量に指向性を持たせると言えば簡単だが――――」


アイモスによるファジルへの長々とした講釈が始まった。しかし、ファジルはそれを全て聞き流していた。アイモスの話が長い上に大した中身がない(おまけに話を遮るとへそを曲げるのだ!)事は弟子達には周知の事実であったが、更に自身の行った改変の詳細を語るだけともなればことさら聞く意味がなかった。


延々と言葉を紡ぐアイモスを背景に、ファジルは今日行う予定だったいくつかの魔術の考察を頭の中で始める。アイモスに弟子入りしてからの三年間で懲罰官に必要な魔術をあらかた会得していたファジルは、懲罰官に有益な魔術を新たに模索する段階に入っていた。(マンガイはファジルの学習がこの上なく順調であることに複雑な顔をしていた)


頭の中で魔術の理論を形にしていくファジルであったが、すぐに考えを実践できない事に歯痒さを感じた。アイモスは普段は良い師であるものの、この時ばかりは恨みを募らさずにはいられない。魔術とはやはり実践がものを言う学問であり、頭でこねくりまわすだけでは意味がないのだ。


「――――あの呪文の一番の利点はなんと言っても手軽さだ! ただ火を出すだけよりも危険が少ないし扱いも難しくない……全く素晴らしい改変だった。君の師を名乗れる事が誇らしい!」


時計塔の鐘が時刻を知らせる音を数度聞き流したところで、アイモスはようやく話を終えた。恐らく、下手な偉人の一生くらいなら語り尽くせる文章量だったであろう。


「お褒めに預り光栄です」


もはや考える事も無くなり、ただ無心で虚空を見つめていたファジルは、ついに長話に区切りがついた事を察し、定型句を述べた。驚いた事に、日が傾いている。この時間があればいくつかの有意義な実験を終えられたであろうが、これはアイモスの弟子であるからには払わなければならない犠牲だった。


「先生、お褒めいただいた呪文はウマルにも手伝ってもらったのですよ。論文にも彼の名前が入っていたかと」


自身に手を貸してくれたの事を伝えておこうとファジルはそう言った。だが、そこでふと悪戯心が湧いた。


「私だけお褒めいただくのは彼に申し訳が立ちません……是非、ウマルにも」


ウマルをアイモスの長話の巻き添えにしようというのである。――――それは、近頃ファジルの心をかき乱し続ける彼への、ちょっとした当て付けであった。


「おお、そうだったな。確かに論文には彼の名前もあった。彼も賞賛に値する……おや、丁度彼も来たようだ。普段より遅れて来たようだが、なんとも偶然……」


アイモスが門の方を向いて目を細める。ファジルもそちらを向き、歩いてくる人影に目を凝らした。夕陽に照らされた最早他に一つも人影の無い道を、彫像を無理やり動かしているかのようにぎこちなく歩いているのは、確かに彼であった。ファジルの幼馴染、ウマルである。


ウマルはファジルより一つ歳上の少年だ。ハイパーボリア人にはありがちな水色の髪と灰色の目をしていて、その体格は数多の貴族の娘達を妬ませる細さだった。目鼻立ちは良いと言い切って差し支えないのだが、仮面と称される表情の無さもあり、決して目立つ容貌ではない。しかし、ファジルにとっては、演説台に立つ王様よりも目を引く存在であった。


ファジルとアイモスが自分を見ている事に気づいたウマルは、歩調を早め二人のもとにたどり着く。


「僕に何か御用でしょうか? 先生」


冷静という言葉を体現したような声だった。(心中ではファジルと同じくアイモスの話を聞くことにため息をついていたであろうが)


「いやなに、ファジルの提出してくれた論文を激賞していたところでね? ファジルから聞くところによると、今回の論文は君も手伝ったそうではないか! 君にも是非賞賛を送ってほしいと彼女に言われたところなのだよ! 丁度良いところに来てくれた!」


ファジルはそっと目を反らした。その態度に彼女の悪戯心を察したのか、ウマルはファジルに非難の目を向ける。そして、呆れたように小さいため息をつくと、ファジルの腕を取り、今にも語りださんとするアイモスを遮った。


「お見受けしたところ、先生とファジルは既に長く話し込まれているご様子。僕も大分遅れて来ましたし、二人も人数を欠いて仲間達も今日の研究の方向性を決めあぐねている頃でしょう。ですので、今日のところはこれで失礼させていただきます」


ウマルの静かながら有無を言わせぬ物言いに、流石のアイモスもへそを曲げる暇がなかった。


「ふ、ふむ……そうかね?……確かに君達の研究が滞るのは世界の損失だな……私の弟子の中で今最も活躍めざましい者達だ。賛辞は君が休憩をとっている時にでも述べさせてもらうとしよう……」


「では」


ウマルはアイモスに頭を下げてから背を向け、ファジルの腕を引いて歩き始める。だが――――振り返った二人の目の前には、背後にいるはずのアイモスがいた。まだ話し足りないのか? そう捉えて思わず後退ってしまったファジルに、アイモスはいっそ気味が悪い程に優しく語りかける。


「そう逃げようとせずともよい。ウマルに一つ言い忘れたことがあっただけゆえ」


そう言いながらアイモスはウマルに肉薄した。そのまま抱擁するのではないかという程近くに。そして、普段の高らかに響き渡る声とは違う、注意深く潜められた声でウマルに耳打ちした。


「例の件、決行は明日の真夜中とするのでそのつもりでな」


それは、穏やかな風の音が騒音に思えるような小さい声であったが、ファジルにはなんとか聞き取ることができた。


「以上だ。ではな」


アイモスは中央にある自身の居塔に歩いていく。ウマルもファジルの手を引いて歩き出した。


「今のは……?」


ファジルが尋ねる。


「気にしないでくれ」


ウマルはそう答えるだけだった。一度話さないと決めた事柄に対してのウマルの頑固さをファジルはよく知っていた為、それ以上は聞かなかった。


少し歩いたところでウマルはファジルの腕を離そうとするが、ファジルの手は離れるウマルの手を追いかけ、そのまま繋いだ。ウマルはそれを拒みはしなかった。そのまま二人は横並びになって歩いていく。


「しかし……先生の長話を差し向けるなんて酷い悪戯をしてくれるじゃないか」


アイモスの姿が十分に離れた事を確認し、ウマルはファジルに恨みがましく非難した。ファジルは口を尖らせ拗ねた様に返す。


「ウマルが近頃私に冷たいのが悪いのですよ。この一ヶ月で何度私の誘いを断ったと思っているのですか? 二十三回ですよ! 二十三回! 理由も教えてくれませんし……それに、普段もなんだか私を避けようとしているように感じます」


言葉が進むにつれ、ファジルの声色には段々と影が落とされていった。幼い頃よりウマルに対してただの幼馴染にとどまらない感情を抱いていたファジルであったが、その想いはいまだに実らずにいた。それどころか、この頃のウマルの心はファジルから遠退いて行くようだった。それがファジルの心をどれだけ乱しているかは語るまでも無いだろう。


「悪いとは、思っているよ」


ウマルは簡潔に答えて口を閉じる。どうやら弁解をする気も無いらしい……ファジルはそう思った。


ウマルに悟られぬよう、ファジルはそっとため息をつく。普段は力強く前に向けられている眼は地面に落とされ、目尻には僅かに涙が溜まる。気丈なファジルが涙を見せる事柄は、赤ん坊の時分を除いて、ウマルとの不和と母の死の二つくらいであった。


頑なに前を向き続ける罪な男は、そんなファジルの涙に気づく事なく歩き続ける。ファジルはあくまで平静を装い、ウマルに追撃した。


「あなたの幼馴染が不安になっているのですよ。理由くらい説明してはくれないのですか?」


「いつか話すよ」


「いつか、とはいつですか?」


「それが分かっていれば、最初からその日時を答えるさ」


取りつく島もないとはこのことで、ファジルはもはや自分が何を言っても無駄であるのだと悟った。決して諦めたわけではないが、少なくとも、今は。


「「………………」」


二人は気まずい沈黙の中を歩く。背後で沈みゆく夕陽が二人の前に影を作りだし、二人の歩く道を黒く染め続けている。それが自分達の行く末の暗示ではないことをファジルは祈らずにいられなかった。


「ファジル……君は、君だよね?」


ウマルが唐突にそう言った。黙りこくっていたウマルが突然口を開いた事に加え、言葉の意味も分からなかったファジルは、ただどういう意味なのかと問うことしかできなかった。


「……悪かった。気にしないでくれ」


ウマルは再び黙った。ファジルにはウマルのことがますます分からなくなり、手を繋いでいるにも関わらず、ウマルが遠くにいる人物であるように感じた。それでも、いまだ振り払われる事だけは無いこの手を希望に、ファジルはウマルと共に歩き続ける。行き先は、書庫棟の一角にあるの領地だ。

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