「天ヶ瀬皐月は馴染まない」-⑧

 新藤さんが皐月ちゃんに触れる姿を見て、わたしの胸がざわついた気がした。

 もちろん、新藤さんは悪意があって皐月ちゃんを触った訳ではないと分かる。分かるけれど、不安が胸の内に渦巻く気がする。

 わたしは、酷い人だと思う時が最近ある。いや、昔からかもしれないけれど、ここ最近は特にそう。

 皐月ちゃんは、私と学生生活を楽しむためにクラスの人達ともある程度ちゃんと話せるようになりたいと言っていた。

 わたしと過ごす日々を大切に思ってくれている事が伝わってきて、嬉しい。

 でも、皐月ちゃんがわたし以外に笑顔を向けている姿を想像したら、複雑な気持ちになってしまう。

 もちろん、皐月ちゃんが他のクラスメイトと仲良くして、友達になってほしいとは思っている。

 わたしは多分、皐月ちゃんの事が一番大事だと思う。ただ、その気持ちがちょっと危ういというか、一方的すぎるんじゃないだろうかと思う時もある。

 わたしにとって誰よりも大切で、叶うならずっと一緒にいたいと思う人。それを親友と表現するのなら、私のこの感情は親友として正しいのだろうか。

 もしかしたら正しくないのかもしれない。

 だって、わたしは皐月ちゃんと一緒にいたいし、皐月ちゃんと触れ合っていたいと思うから。皐月ちゃんの全てが知りたいと思う。それはきっと、親友という括りからはみ出た感情なのかもしれない。

 この感情が何なのか。わたしは理解しきれない。

 常に駆け引きを求められて、きっと私にかけられる打算のない言葉にも裏を読もうとしてしまう日々の中で、私の感覚はきっとずれてしまったのだろう。

 両親が敷いたレールの上を歩くことを強制される日々。嫌だなと思う時もあるけれど、今のわたしが生きていられるのはこのレールの上を歩いているから。ここから外れたら、わたしはわたしの生きてきた16年を否定する事になってしまうのだろうか。そう思うと、わたしがわたしでなくなってしまうような気がして、足がすくむ。


 いつか、わたしの手を取ってこの定められた道から飛び出してくれる人が現れるのだろうか。

 そうだとしたらわたしは、その手を取れるのだろうか。

 分からない。でもどうか、もしその時が来るとしたら。

 わたしに手を差し伸べてくれる人は――




 ◇◇◇




 1000m走。私は中学時代こそ体力には自信があった。けれど、1年以上まともに運動をしていないこともあり、流石に厳しそうだなと思う。それでもクラスで上位は狙えるだろう。

 問題は、私の隣に新藤さんが立っている事だ。

 「はっはっは、天ヶ瀬さんと一緒に走れるなんて楽しみだよ!」

新藤さんは本当に楽しそうに笑っている。正直、苦手だ。いや、嫌いじゃない。何というか、空気感が合わない気がしないでもないのだ。

 少なくとも新藤さんは悪い人ではないことくらいは分かる。この麗女においては、ある意味私に近い存在かもしれない。ただ、何というか、踏み込んでほしくない領域に平気で足を突っ込んで来そうな感じだ。

 でも、天ヶ瀬皐月は馴染まない。それを私は変えようと思っている。それは愛染さんのいる学校生活を楽しいものにしたいから。踏み込んで来るようなら、そこの部分だけは何とかすればいい。

 「お、お手柔らかにね。私、もう1年以上走り込みしてないから」

 不慣れな笑みを浮かべながら私は答えた。流石に現役で運動をしている新藤さんに勝てる見込みはない。けれど、劣化した自分の体力を測るには申し分ない相手だろう。


 笛の音と共にスタートが切られた。新藤さんは抜群の反射神経で、一瞬のうちに先頭を走る。私はその後ろにピッタリとマークするように駆けだした。

 速い。流石は現役で運動しているだけある。私は何とか食らいついてはいるけれど、結構…というかだいぶ本気だ。最序盤でこれなので、終盤は普通に離されていきそうな気がする。

 私は新藤さんの真後ろに陣取り、できるだけ風の影響を受けないようにしている。いわゆるスリップストリームというやつだ。正直どのくらい効果があるのかなんて知らないけれど、何となく風の影響が減っている気がする。

 一定のリズムで私は自分の呼吸音を聞く。鼻から吸って口から吐く。何歩目で吸って何歩目で吐くか。中学時代に叩き込まれた呼吸は、部活を引退して、1年以上走り込みをしなかったにも関わらず身体で覚えていた。私の歩幅に合わせた、私だけのリズム。

 友達に誘われてバスケ部に入った結果、地獄のような走り込みをさせられた。最初はすぐに辞めようかと思ったけれど、段々と体力がついていく自覚が出てきて、成長が楽しくなった。

 その経験が残っている。現役の運動部相手に、私は食らいついている。

 楽しい。楽しい。そうだ、私は体を動かすことが好きだった。小さい頃はお兄ちゃんの後をおいかけてお兄ちゃんの友達、つまりは男子たちと遊ぶ事が多かった。私より年上の男子は当然体力も筋力も私とは比べ物にならない。そんな状況でも私は楽しくやれていたのだ。

 全力で走り、息を切らす。疲労感が津波のように押し寄せ、身体が酸素を求めてもっと呼吸しろと騒ぎ立てる。その感覚が、何故か楽しかった。

 まさに今、私はかつてのように走る事を楽しんでいる。

 体力は衰えた。今までならまだまだ走れる。でも今はもう限界に近い。

 残り100mほどで、新藤さんはラストスパートといわんばかりにギアを上げる。

 (っ…まだ加速できるのか)

 それでも私は、悲鳴を上げる身体を意志でねじ伏せるかのように脚を上げる。腕を振る。

 そして私は、そのままゴールを突っ切った。


 「…はぁ、はぁ…ま…負けた…」

 1秒もない差だった。でも最後まで新藤さんを捉えることはできなかった。新藤さんも息が上がっている。でも私はそれ以上に息を乱し、その場に尻餅をついた。

 「はぁ…ふぅ…いやぁ、天ヶ瀬さんめっちゃ早いじゃん!」

 息を切らし、前かがみになり膝に手を当てながら、新藤さんが言う。

 「はぁ…はぁ…さすがに…ふぅ…新藤さんには勝てなかったけどね」

 言葉を発する度に、呼吸が苦しくなりながらも答える。もちろん、これは体力測定であって競走ではない。でも勝てなかった事を久しぶりに悔しいと思えた。

 「ふぅー。いやいや、これが、ブランクありなんて信じられないよ。こりゃあ鍛え始めたらすぐに負けちゃうな」

 「そ、そうかな…はぁ…ふぅ…私もう限界レベルでバテてるんだけどね」

 「ウチもこんなに本気で走ったのは久しぶりだよ」

 新藤さんが私の近くに腰掛ける。

 苦手だなと思ったけど、何となくこの1000mでお互いにちょっとだけ仲良くなれた…のかもしれない。

 その後にゴールしたクラスメイト達も私たちの近くで座り、後半組の見学を始める。新藤さんの友人数人が私を取り囲み、すごかったねと言ってくる。

 私は息切れしているのもあってか普段以上に上手く言葉を返せていなかったけれど、少しだけ、クラスメイトと話すことができた。

 少しだけ、私も進歩できたのかもしれない。


 ちなみに愛染さんはゴール後、この世の終わりみたいな表情でぜーはー言っていた。

 「ぜぇ…ぜぇ…も、もう…やだ…」

 「お、お疲れ様…」

 「ぜぇ…はぁ…あり、が…と」

 愛染さんに笑顔がない。この世全ての絶望を一手に担うかのように、その表情は険しい。

 「わたしが、世界を…ぜぇ…ぜぇ…手にしたら、体育を…消す」

 「あ、愛染さん!?」

 愛染さん、もう駄目かもしれない。この世の終わりを見て、ならいっそ自分の手で世界を壊す。そんな意志すら感じられる。そこまで運動が苦手だったとは…

 「10分休憩!終わったら50mやるぞー」

 体育教師の声が響く。

 残りは50m走とハンドボール投げ。私も流石に1000mに本気を出しすぎたので50mはキツい。

 ちなみに愛染さんは体育教師の声を聞いた瞬間その場に膝をついて絶望していた。


 50m走は流石にさっきの疲労もあってクラスでは上位だけど全国的に見たら別に普通みたいなタイムだった。新藤さんはあんなに走っていたのに50m走もクラス1位だ。すごすぎる。

 ハンドボール投げは結構いい記録だった。21mなので割といい方だと思う。

 愛染さんは…うん、愛染さんの名誉の為にこれはノーコメントで行こう。


 かくして、私たちの体力測定は終わりを告げた。

 終わった後のクラスメイトの反応としては、大半が疲れ果ててもう帰りたいと嘆いていた。愛染さんは放心状態だ。

 私と新藤さん、あと戸鞠さんは運動ができる方という事もあり、疲れはしているけど割と平然としていた。1000mが終わった直後はかなり息も乱れて、足も少しがくがくしていたけれど、何だかんだで回復してしまった。戸鞠さんは、愛染さん以上にこの世の終わりを見て歩く気力すら失っている中江さんをおんぶして教室へと戻っていく。

 「愛染さん、大丈夫?」

 愛染さんはぼけーっとしたまましばらく立ち尽くしていた。私が声をかけるとハッとして

 「う、うん。だいじょうぶ」

 と答える。でも膝ががくがくしているというか、もう疲労困憊という感じが伝わってくる。

 「教室戻ろう?」

 「う、うん」

 ふらつきながら愛染さんは前に進もうとする。が、足元がふらついて転びそうになってしまった。

 「愛染さん、危ないよ!」

 そう言って私は愛染さんの手首を掴み引き寄せる。何とか転ばずに済んだけれど、大丈夫だろうか。

 「あ…あの、ご、ごめんね」

 「転ばなくて良かった。大丈夫、歩ける?」

 「ごめんね…今日のわたし、かっこわるい所ばかり見せちゃって情けないなぁ…」

 結果だけ見れば確かにそうかもしれない。けれど私は愛染さんを情けないと思っていないし、かっこ悪いとも思わない。

 そう、一緒にこうやって授業を、身体測定を受けれて楽しかったんだ。愛染さんの新しい一面も知れた。それが嬉しかった。

 「そんな事ないよ。一緒にやれて嬉しかった」

 「…うん、わたしも。あの…わたし今こんな状況だから…ね」

 「ん?」

 「その、手、繋いでいてほしいな…」

 愛染さんは掴まれている腕の指先を開いたり閉じたりしている。

 手を繋ぐか。何というか、他のクラスメイトに見られたら勘違いされないだろうか。仲いいにしては仲良すぎない? みたいに。そうなると愛染さんは変に怪しまれてしまうかもしれない。だから、やらない方がいい。

 でも、愛染さんのお願いだ。そして、そうは言っても愛染さんと手を繋ぐことは別に嫌じゃない。何なら普段から手は触られているし。それに、断って無理に歩かせて、転んで怪我をするほうが怖い。

 「…いいよ」

 私は一度手首を掴んでいる手を離す。そして、愛染さんの手に私の手を当てる。

 「ありがとう」

 愛染さんは私の手を優しく包み込むように握る。手を触られたりはあるけれど、手を繋いで歩くのは初めてだ。どこかくすぐったい感覚がする。でも、やっぱり嫌じゃない。むしろ、愛染さんの手は柔らかくて、温かい。良いな、って思う。

 「歩くペース早かったら言ってね。転ばないように気を付けて」

 「うん」

 私たちは教室までのほんの数分、こうして手を繋いで歩く。

 行為としては、仲の良い友達同士が手を繋いで歩いているだけ。それでも、私は愛染さんとの距離がまた近くなったなと感じる。私の一方的な考えなのかもしれないけど。

 周囲から勘違いされたりしないかな、とかちょっと思ったけど、愛染さんがあまりにもたどたどしい歩き方をしているのもあって、助けてるんだなと思われている感じがする。

 教室に戻って、戸鞠さんからも

 「あちゃー、みのりん運動苦手だもんね。しょーちゃんもそうなんだけど、バテて動けなくなっちゃうんだよー」

 と言っていた。中江さんは歩く事すらできない感じだったので、まだ愛染さんの方がマシだったのかもしれない。中江さんは机に突っ伏して微動だにしない。生きているんだろうか。

 「戸鞠さんは、結構運動できるんだね」

 「まぁね、身体動かすの好きだもん!にしても、さっちんこそすごいじゃん!あたしびっくりしちゃった」

 「ま、まぁ、昔バスケしてたからね。でも結構体力は落ちてたよ」

 実際、全盛期には遠く及ばないだろう。衰えた分を、身長などの肉体的成長が多少カバーしてくれただけだ。

 「落ちててそれ!?すっごー!さっちん、かっこよかったよ!」

 「え、あ、ありがとう…」

 どうも私は、麗女に入ってから褒められるのに慣れていない。こそばゆいというか、照れてしまう。

 「もしかしたら体育祭のクラス対抗戦、勝てるかもね!」

 麗女の学園祭は、個人競技や団体競技がある。そして、学年別の個人競技と団体競技は成績に応じてポイントが割り振られ、最終結果が公表される。各学年1位を決めるということだ。ちなみに去年の1年時は2組が優勝していた。

 「あかねんにさっちん、それにあたし。三枚看板だね!」

 あかねん…あぁ、新藤さん。そうだ。新藤さんのフルネームは新藤茜だった。

 「さ、流石にどうだろう…?」

 「えー、でもさ、やるからには勝ちたくない?」

 「…それは、まぁ」

 実際、さっき1000mで負けて悔しいと思った。勝てたら嬉しいと思うだろう。

 それにこれはきっとチャンスだ。少なくとも戸鞠さんと新藤さん、二人とある程度仲良くなれるチャンスかもしれない。それに、愛染さんに良い所を見せられるかもしれない。

 「じゃあがんばろうぜぃ!」

 戸鞠さんは爽やかな笑顔と共にガッツポーズをする。

 ちょっと…いや、できる限り頑張ってみよう。


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