「天ヶ瀬皐月は築かない」-⑥


◇◇◇



 あの後、愛染さんに生物の小テスト範囲を教えてもらい、私は今、部屋に戻ってきた。

 一人で復習するよりも何倍も理解が深まったと思う。この二日間は、疲れた。でも、その疲れは嫌な疲れではなかった。私が生きているんだという実感と、新しい世界が見えるキッカケになったのだと思う。

 バッグを置き、お風呂を沸かす。今日も一日の疲れを癒すためにゆっくりとお風呂に浸かる。考えていたことは、愛染さんの事。いや、この土日は愛染さんの事ばかり考えてるな。でも、それも当然だと思う。

 お風呂から上がり、服を着てドライヤーで髪を乾かす。私は部屋の中ではトレーナーにジャージ姿だ。流石にこの姿を愛染さんに見られたら恥ずかしい。

 ふと、机に置いたスマホから着信音がした。私はスマホを手にして画面を見る。

 『天ヶ瀬睦月(あまがせ・むつき)』という表示。お兄ちゃんだ。私は5月生まれだから皐月、お兄ちゃんは1月生まれだから睦月と名付けたらしい。安直だけど、私は結構好きな名前だ。お兄ちゃんはちょっと女の子っぽくないか、と不満を漏らす事はあるけど、だからといって嫌だとは言ったことはなかった。

 スマホの画面をタップし、通話に出る。

 「もしもし、お兄ちゃん?」

 『皐月、夜にごめんな。元気か?』

 優しい声。最後に話したのは正月なので、3週間振りくらいといった所だろうか。お兄ちゃんは大体月に1回くらい電話をしてくる。私の事を心配しているのかもしれない。

 お兄ちゃんは大学1年生で国立大学の法学部に通っている。本来であれば推薦で私立大学に行く予定だったけど、私のせいで私立を諦め、猛勉強の末に国立大学に入学した。努力家で、優しい。私はそんなお兄ちゃんを尊敬しているし、好きだ。そんなお兄ちゃんにも苦労をかけて麗女に通っている事は、正直罪悪感を覚えている。

 「うん、まぁそこそこかな。どうしたの?」

 『いや、そんなに大した用事じゃないんだけどな。こっちじゃインフルエンザが流行ってるからさ。そっちは大丈夫かなって』

 「今のところは大丈夫そう」

 『そかそか。ならいい。風邪ひかないようにな』

 「うん」

 いつも私の心配から入る。あぁ、お兄ちゃんと電話してるなぁって感じ。

 『皐月は春休みとかゴールデンウイークはこっち戻るのか?』

 「んー…春休みって短いし、春期講習あるっぽいんだよね。ゴールデンウィークも、帰る余裕あるかな。お父さんは?お父さん帰ってくるなら何とかするけど」

 お父さんは今、アメリカのニューヨークに海外出張をしている。外資大手の証券会社に勤めていて、その関係らしい。

 理由は、私の学費のため。より稼ぐために、世界経済の中心にお父さんは行っている。普段は朗らかな感じだけど、仕事の電話をしている時はいつもキリっとしている。

 家族と離れ離れにさせていることを、本当に申し訳なく思う。お父さんもお兄ちゃんのように優しく、いつも私を心配してくれている。

 お父さんは年末年始と夏に休暇で帰ってくる。だから私も、その時期は帰省するようにしている。普段会えない分、お父さんと過ごしたいから。

 『いや、親父は帰ってこれないみたいだ。なんでも今、すごく大きな案件を抱えているとかで。次に帰るのは夏になりそうだってさ』

 「そっか…」

 『だから、無理に帰ってこなくて大丈夫だからな。学校の事を優先でいいからさ。学生ってのは勉強が本分だからな』

 「まぁ確かに。でもお兄ちゃん、それなんか大人っぽい言い方だね」

 むしろちょっとおじさん寄りかもしれない。

 『まぁ俺もあと1年で20歳だしな』

 「なにそれ」

 あはは、と自然に笑う。私がこうやって自然に笑えるのは多分、家族くらいのものだ。

 いや、愛染さんにも笑っていたかもしれない。

 「お母さんも元気?」

 『あぁ、びっくりするほど元気だ。何か、パート始めてから逆にイキイキしてるくらいだよ』

 お母さんは私が中学3年の時までは専業主婦だった。お父さんが高収入な事もあり、働く必要がなかったから。今では家計の足しにするために去年の夏頃からパートを始めた。

 元々理髪師の専門学校に通っていて、理髪師の資格を持っている事もあり、近くの床屋で働き始めたらしい。お母さんは年齢にしては若く見えて、元気な人だ。朗らかなお父さんと元気なお母さんから大人しい私が生まれるのも中々不思議なものだけど、私は正真正銘二人の娘だ。

 「床屋で働いてるんだよね」

 『そうそう。仕事して帰宅したら家事してるんだからパワフルだよな。しかも、年明けで皐月と親父が帰った後、リングフィットアドベンチャー買ってた。毎日のようにやってるよ』

 「めっちゃ元気じゃん…」

 『母さんが元気じゃない時は世界の危機だな』

 「かもね」

 私たちは声を合わせて笑う。お母さんは私たち家族の中で一番元気でアグレッシブだ。私が運動できるのは、お母さんの遺伝なんだろう。

 『その、学校はどうだ?』

 ふと、お兄ちゃんは少し声のトーンを落としながら聞いてきた。私の事情を知っているからだ。帰省した時にも友達は作ってないと言っている。そして、そうする理由を家族は知っている。だから、心配なのだろう。

 「まぁ、ふつうかな」

 『…何かあったか?』

 「え?」

 急にお兄ちゃんはそんな事を言ってきた。当たり障りのない返答だと思うけど。

 『あぁいや、悪い意味じゃなくて。普段の皐月なら少し貯めてから普通って言うじゃん。でも今回は割と即答したし、何なら寂しそうに言わなかったから』

 『良い事でもあったか?』

 え、私そんな癖あったんだ。というかそんな細かい事に気付くなんて、お兄ちゃん私の事詳しすぎないか。ドン引きとかはしないけど、流石に驚く。

けれども、事実だ。実際、良い事はあったと思う。

 「ん、どうだろう。悪い事は無いよ」

 それでも素直に言えないあたり、私はやっぱり素直じゃないんだなと思う。

 『…そうか。なら、良い事があったんだな』

 「…良い事なのかは、わかんないけど」

 『あまり学校を楽しめてないみたいだったからさ。きっと、その良い事か分からないって言った事は、皐月にとってプラスになるよ』

 「…お兄ちゃん、いつも私の心配ばっかり」

 そうさせているのは私だ。私のせいだ。

 『そりゃあな。小さい頃はいつも俺の後ろにくっついていた可愛い妹が、家から離れて一人で高校に通ってるんだ。心配にもなるってもんだよ』

 お兄ちゃん、割と平気な顔してこういう恥ずかしい事を平気で言ってくる。いつか女性に勘違いされそう。

 心配をかけているところには申し訳なさをいつも感じているけれど、心配してくれているのは素直に嬉しいとも思ってしまう。男性恐怖症の私にとって、頼れる男性はお兄ちゃんとお父さんしかいないから。

 「い、いつの話してるの。小学校の時とかでしょ」

 『何年経とうが、どこに行こうが皐月は俺の妹だし、親父も母さんも俺たちの大切な両親だ。それは変わらないよ』

 「ん…ありがと」

 『まぁ、あれだ。良い事があったみたいで良かった。正月に帰ってきたときはさ、本当に元気が無くて心配だったんだよ。皐月は元気良さそうに振舞ってただろうけど』

 12月の頭、私は自分の人生を終わらせようとするくらいに追い詰められていた。結局、死ぬのが怖くて出来なかった。そんな事をしようとしていた負い目もあり、実家に帰るのはちょっと辛かった。家族に心配をかけまいといつも通りでいようとしていたけど、バレていたみたいだ。

 「…ごめん、心配かけて」

 『良いんだよ。いくらでも心配かけていい。頼りたいなら頼ってもいい。むしろ、無関心にされる方がお兄ちゃんとしては辛いもんだぜ』

 「なにそれ、シスコンじゃん」

 『そりゃあな。それだけ皐月が大切なんだよ』

 ほんと、お兄ちゃんってこう。背中がむずむずするような事を平気で言ってきて、皐月だからだよって言う。他の女性に言ってないだろうな。言ってたら絶対勘違いされると思う。今のところ彼女はいないみたいだけど。逆に何でいないんだってレベル。

 実際、お兄ちゃんはかっこいいし、性格もいい。彼女なんていくらでも作れると思う。かっこいいは、私の身内贔屓もあるのかもしれないけど。

 彼女がいないとしたら、それはきっと私のせいだ。

 「…ん。その、お兄ちゃんもお兄ちゃんのやりたいこととか、大学生活楽しんでよ」

 『ん?いや、普通に楽しんでるよ。大学で親友もできたし、バドミントンのサークルにも入ったんだ』

 「へー、バドミントンかぁ。テニスはやらないの?」

 お兄ちゃんは高校時代まではテニス部に所属していた。特段テニスが強い学校ではなかったけど、お兄ちゃん自身は県大会でベスト16に入ったくらいには強かった。

 『大学のテニスは部活、まぁガチで取り組むやつと、もう一つサークルはあるんだけどな』

 『まぁあれだよ。テニスのサークルは、テニスの皮を被った飲みサーってやつ』

 「あぁー…」

 聞いたことはある。大学にはテニス等のサークルを名乗っておきながら、実際はお酒がメインの所も多いと。あとえっちな目的があったりとか。

 『んで、大学でできた友達に誘われてバドミントンやってみたら、これが楽しくてさ』

 「同じラケットを使うスポーツだから?」

 『まぁ確かに、その分慣れやすいのはあったかもな。でもスピード感とか全然違ってさ、テニスとはまた違う楽しさがあるよ』

 バドミントンってこう、ふわっとラリーをするイメージが昔あったけど、オリンピックの中継を見て驚いた記憶がある。とんでもないスピードでシャトルが飛んでいく。よくこれに反応できるなぁ、なんて思ったものだ。

 「そっか、大学楽しいならよかった」

 『もしかして、皐月に遠慮して大学楽しめないんじゃないかとか思ってたか?』

 「……う」

 『確かに皐月は心配だけど、それで俺が大学生活を楽しめてなかったら皐月は余計に不安になっちゃうだろ。大丈夫。俺は今、すごく楽しいよ』

 そう言うお兄ちゃんは、すごく優しくて、本当に楽しそうだなというのが伝わってくる。実際、私は不安だった。私の事を気にしすぎて、大学は二の次とかになるんじゃないかと。でも、ちゃんと楽しめているみたいで良かった。

 「それならいいの。その、ありがと」

 『うん?』

 「いつも気にかけてくれて。お兄ちゃんは、私が大切な妹だから当然っていつも言うけど、私、本当に嬉しいから」

 『…何だよ急に。流石にお兄ちゃん照れちゃうぞ』

 「あはは、でも本当の事だから。大丈夫。私、がんばるよ」

 『……そうか。何かあったら相談してくれよ』

 「うん。ありがと」

 それから少し、他愛ない世間話をして、22時くらいに電話が終わった。

 何だかんだで長電話をしていた気がする。多分、私がこんなに会話をできる人はお兄ちゃんくらいだ。愛染さんともこの二日間かなりお話したけど、私の素が出る相手は家族くらいだから。

 凄く元気を貰った気がする。

 大切にしてもらえているんだなという実感が、私の生を繋ぎ止めているのかもしれない。



◇◇◇

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