「天ヶ瀬皐月は築かない」-⑦
週が明けて、月曜日と火曜日は愛染さんから話そうとの連絡はなかった。水曜日の今日も同じだ。それでも、愛染さんから毎日メッセージが来ている。月曜日と火曜日は実家関連で放課後に時間を取られてしまっているらしい。『ごめんね。わたし、天ヶ瀬さんとお話したかったな』なんてメッセージも来た。文字だけでも可愛いなこの人…。
月曜日の英語の授業は、無事に課題も出すことができた。愛染さんに色々教わったおかげか、英語の授業も今までより理解がしやすかった、気がする。
愛染さんと話すようになってからも、学校での私の立ち位置や振る舞いが変わることはない。あくまで、愛染さんと話すのは特例で、友達を作る事もしないし、人間関係を築かない事も変わりない。ただ、愛染さんと放課後に話さない事が、ちょっとだけ私の心を冷やしている。そんな感じがした。
そんな放課後、私は一人になることを分かりきった上でいつもの場所へと向かった。
あの場所は、今日は予想通り一人だった。数日前までと同じように。
ただ違うのは、一人で見る景色が、少しだけ寂しいなという感傷。そんな感傷を私は抱くようになってしまったのだ。
「……」
はぁ、と吐き出す息は白く、風に乗って消えていく。ギリギリ二人が座れる特等席は、今日はやけに広い。つい数日前まではこれが当たり前だったはずなのに。残酷なまでに綺麗なはずのあの景色も、今の私には曇って見える。きっと、一人で見ているからだ。
分かってる。私は愛染さんとの出会いで、変わりかけていることくらい。いや、変わるというよりは、あの事件以前と同じようになろうとしているのだろう。
もちろん、男性恐怖症というものや、そのキッカケになった心の傷が癒えている訳ではない。そして、私の変化はきっと、些細なものだ。
愛染さん以外の人と人間関係を築かない。この考えは全く変わらなかった。そして、私と愛染さんの関係は他の人に知られてはいけない。それは私のためじゃなくて、愛染さんのためだ。
きっと彼女は私と友人になったとして、それが他の人に知られても気にしないだろう。むしろ堂々とお友達だよと言うと思う。愛染さんが一般人なら別にそれでいい。
でも、愛染さんは特別な立場の人間だ。この日本を背負う超巨大複合企業(コングロマリット)である愛染ホールディングスの子女。
人間関係とは、立場によりその重さが異なる。私のような一般人は、誰と友達になろうが関係はない。でも、愛染さんみたいな立場の人は、その交友関係すら本人の評価の指標になる。
2組のボスの周りにいる取り巻きの子達は皆、何らかの会社やグループの子女だ。少なくとも、外部入学生はいない。家柄に縛られる、というとちょっと言い方は悪いけれど。
愛染さんのご両親は厳しいというのは、彼女の話からも推測できる。であれば、私のような、麗女で底辺争いをしているような人間と仲良くしているのは、愛染美乃梨という一個人だけでなく、愛染家という存在の汚点になるかもしれないのだ。だからこそ、知られたくないと思う。私がとやかく言われて陰口を叩かれるのはいい。この麗女においては事実だから。でも、愛染さんが私のせいで評価を落とすのは嫌だ。
愛染さんが私を必要としてくれているなら、応えたい。けれど、足枷にはなりたくない。この矛盾が、私の目下の悩みになっている。
2月に入り少しずつ春に向かって植物に葉が生えたりしてきた。ここに来れるのも、あとわずか。こうやって落ち着いて物思いに耽る事ができるのもそろそろ終わりだ。私の考え、私の思いは、果たして答えが出るのだろうか。
「あ、良かった。天ヶ瀬さんも来てたんだね」
ふと、後ろから声がかかる。通りの良い、綺麗な声。振り向くまでもなく愛染さんだと分かる。
「愛染さん。予定あるんじゃなかったの?」
「うん、その予定だったんだけどね。相手が学校の予定入ったみたいで」
そう言いながら、愛染さんは私の隣に座る。肩が触れ合う距離。愛染さんの身体の温かさが私にも伝わってきた。
「そうなんだ。友達?」
「んー…いや、違う…かな」
なら知り合いだろうか。それとも愛染さんの家の関係者だろうか。
「……許婚相手、だよ」
許婚。本当にそんなのがこの日本に存在するのか。愛染さんの家くらいになると、そういうのもあるのかと、私は内心驚きつつ、麗女に来る人ならありえそうだなと思ってしまう。
でも許婚、許婚かぁ。愛染さんはすごく綺麗だし優しいから、結婚相手には苦労しなさそうだけど、高校1年生で将来の相手が決められているのはなんというか、苦しそうだ。
「そう、なんだ。昨日とかもその許婚相手の件だったの?」
「うん。その相手、時渡玲央(ときわた・れお)くんって言うんだけど、その人と月に1度は会わなきゃいけないの。その日程調整とか、近況報告みたいな事をね」
時渡玲央さん。その人が愛染さんの許婚相手なのか。時渡…。
「時渡って…なんかそんな感じの有名人いたような」
「時渡商事社長の息子さんだよ」
あぁ、なるほど。時渡商事。日本でも有数の総合商社だ。現在はグローバル企業で、世界各国に支社がある。そんなところの息子さんなのか。
「なるほど…愛染さん、許婚とかいたんだね」
「お父様と、時渡商事の社長さんが大学時代からの友人らしくて。それで、愛染ホールディングスと時渡商事で友好的な関係をいていることをアピールするためにもみたいな感じでね」
「…仲はいいの?その玲央さんって人と」
「仲は…悪くはない、かな」
何とも微妙な返答だった。
「結婚したくない、とか?」
「……どうなんだろう、ね」
「そう決められた事だから仕方ないけど…わたしと玲央くんが夫婦になるイメージがつかないかな」
結婚。恋愛してその結果として結婚する人もいればお見合いもある。今では婚活どころかマッチングアプリまである。結婚は人によって千差万別だし、結婚したからと言って、相手と死ぬまで一緒とは限らない。最近じゃ離婚する割合もかなり高いらしいし。
「結婚はわたしの卒業と同時。つまり、あと2年くらい」
「きっと、結婚したら今まで以上にわたしは自由じゃなくなる」
――また、寂しそうな顔をしている。
とても美しくて、ひどく悲しい表情。私の心臓が掴まれるような感覚。キュッと胸が苦しくなる。
「…なんで」
「なんで、愛染さんはいつもそんなに辛い目に合わなきゃいけないのさ」
ぽつりと、私は漏れ出すように言葉を発する。
「…え?」
「愛染さんは優しくて、可愛くて、誰よりも他の人の事を考えて。そんな愛染さんは幸せになるべきだよ」
こんなに私の事を気遣って、そして友達になりたいと言ってくれた愛染さんが、こんなにも家柄等に縛られてしまう事に、私は納得がいかなかった。
「……ありがと。天ヶ瀬さんがそんなこと言ってくれるなんて思わなかった」
「…愛染さんは、どうしたかったの…?」
その言葉に、愛染さんは少し困ったように下を向く。
「…わたしには、自由なんてなくて。お父様達が敷いたレールの上を進んでいく事しかできない」
「…でも、お友達を作って、恋をして」
「そんな、普通の女の子みたいな学校生活、送りたかったなぁ…」
掠れるような、涙をこらえるように震えた声がする。
愛染さんは、普通の学校生活というものも許されていない。内部進学生達はお互いの顔色を窺ったり、打算があったりで、きっと本音を語る事はできないのだろう。愛染さんの一挙手一投足が周囲に評価される。既に許婚がいて、2年後には結婚する。そこにお互いの恋愛感情があろうがなかろうが関係なく。
何て、何て残酷なんだろう。そして、愛染さんは自分の考えを押し殺して、それを受け入れなければならない。
私は今、いつもとは違う感情が渦巻いている。
諦観でもなく、恐怖でもなく。この感情は一体何だろうか。
けれども、分かる事はある。この感情は、私個人では抱くことのなかったもの。温かさに、優しさに触れて、今まで閉じ込めてしまっていたもの。
この淀んだ私の世界を…暗闇に閉ざされていた私に差し込んできた光のようなもの。
私はいつか、これからする決断を後悔する時が来るのだろうか。そうなったら私は、今度こそ生きていく事が難しくなる。だから、私はすべてを捨てる選択だってできる。そうすれば、私はまた暗闇の中、何も考えずに生きていく。
でも、きっとそれは苦しい。生きているだけで苦痛で、でも死ぬのが怖くて痛みの中で生きていく事。
そんな無価値な生に意味はあるのだろうか。私は、それを望むのだろうか。
いや、答えなんてとっくに出ている。ただ、私は最悪の結末の事ばかり考えて、逃げ続けてきただけだ。
だとしたら、私はどうすべきだろう。違う。どうしたいのだろうか。
その答えを、ここで示す。私のためじゃなく、私を見てくれた愛染さんのために。
「じゃあ、しようよ」
「……え?」
「楽しい学校生活を送ろう」
「……」
じっと、愛染さんは私を見つめる。
1年半近く、逃げ続けてきた。これから先、愛染さんの立場が変わってしまうかもしれない。それは正直、嫌だ。それでも、私は愛染さんの力になりたい。
そして、暗闇から抜け出せない私の手を取ってくれる人は、愛染さんであってほしい。
「友達になろう、愛染さん」
天ヶ瀬皐月は築かない。そう言い聞かせて逃げ続けてきたけれど。不器用な、ひねりのない言い方だとしても。これが、私の精一杯の気持ち。
「…いいの…?」
「…うん。私は、愛染さんに救われた。友達は作らないと逃げ続けてきた私に、それでも友達になりたいって言ってくれた」
「私はどうしようもなく臆病で、逃げてばかりで、人間関係を築くのが怖かった」
「そんな私に見せてくれる愛染さんの笑顔は、優しさは、私の救いだったんだ」
不器用な言い回し。自分でも上手くまとめられている気はしない。それでも、私のありったけを愛染さんに伝える。
「私はきっと、これからも愛染さんに迷惑をかけるかもしれない。それでも」
「それでも私は、愛染さんと会って話すこの時間が好きになったんだ」
「もっと、もっと話したい。だから、友達になろう…いや、違うかな」
ゆっくりと立ち上がり、私は愛染さんの方を向く。そして、愛染さんに向けて右手を差し出す。
「私と、友達になって下さい」
愛染さんは目に涙を浮かべながらも、今までで一番可愛らしい笑顔を見せてくれた。
「…はい、こちらこそ!」
そう言って、ギュッと手を握り、立ち上がる。愛染さんはそのまま、私に身体を寄せ、抱き着いてきた。
「あ、愛染さん…!?」
愛染さんの身体はやわらかくて、あったかい。ふわっとしたいい匂いがして、頬を栗色の髪が撫でる。そして、愛染さんは私の背中に腕を回してくる。
頭がくらくらするような感じがする。女同士のスキンシップは昔やったことがあるけれど、ここまでしっかり抱き合ったのは流石に初めてだ。
でも、嫌こうやって愛染さんと抱き合う事が嫌じゃない。むしろ、私の孤独を癒してくれるかのように温かくて、幸せな気持ちになる。
「ありがとう…天ヶ瀬さん、本当にありがとう」
しばらく抱き合って、愛染さんはゆっくり私から離れて笑顔でそう言った。
「その…愛染さんは特別、だから」
「ふふっ、わたしは天ヶ瀬さんのトクベツなんだ」
愛染さんはちょっと悪戯っぽく、思わせぶりな表情を見せる。
正直、私だいぶ爆弾発言してるんじゃないかと思う。
「いいや、それは、そうじゃなくて。あ、でも嘘じゃなくて」
しどろもどろになっている私に、愛染さんは微笑む。さっき見せていた落ち込んだ表情を吹き飛ばすかのように、晴れやかな笑顔。
「あの、これからよろしくね」
「うん。その、よろしくお願いします」
私は、これからきっと色んな困難と直面することになる。でも、今日この選択をしたことだけは、後悔したくない。
だから、これはそう。
結局のところ、私は寂しかったんだ。
人間関係を築かなければ辛くないと言い聞かせて、逃げ続けて。
そうして逃げ続けた結果、どこにも逃げ道がなくなってしまった。
私の男性恐怖症は治っていないし、それが原因で人間関係を築く事が難しくなってしまった事は、簡単には治らない。
けれども、そんな暗闇の中で逃げられなくなった私に、手を差し伸べてくれた人がいる。
私はそんな愛染さんの事をもっと知りたいと思う。
きっと、2年後には愛染さんの結婚を契機にこの関係も遠ざかっていくだろう。
卒業して終わってしまう関係かもしれない。
それでも私は、愛染さんが幸せな学校生活を送れたと、胸を張って言ってもらいたい。
そして私にとっても、愛染さんと友達になれてよかったと、胸を張って卒業したい。
だから、これは天ヶ瀬皐月にとって、愛染美乃梨という女の子と共に歩む、本当の意味でのはじまりの一歩。
私たちは手を握り合って、ここから見える景色を眺める。
残酷なまでに綺麗だったこの景色は、あたたかいほどに美しかった。
第1話「天ヶ瀬皐月は築かない」 終
次回:第2話「天ヶ瀬皐月は馴染まない」
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