「天ヶ瀬皐月は築かない」-③
◇◇◇
翌日。私は普段より遅めの10時頃に目が覚める。普段は7時前くらいに起きるから、眠気というものは感じなかった。
平日はだいたい6時半から45分くらいに起きる。起きたらサッとシャワーを浴びる。夜のお風呂は欠かさないけれど、朝は朝でシャワーを浴びないとすっきりしないからだ。終わったら軽くメイクをする。クラスにはガッツリメイクしている人もいるけど、私は本当に軽くで終わらせる。私を見る人はあまりいないから、やる理由もない。
普通の学校だと、メイク禁止だったり、濃いのはダメだったりと厳しめな学校も多い。でも麗女はその規則がない。すでに社交界に出ている人もいるし、そもそも社会に出たらメイクはほぼ必須だ。
そういう意味では、メイクに関しての校則が厳しい学校はちょっと時代とあってないよなぁ、なんて思わなくもない。
そんな事を考えながら、のんびりと起き上がり、普段以上にのろのろとシャワーを浴び、髪を乾かす。私の髪の長さはだいたい肩にかかるくらいだから、比較的乾かすのに時間はかからない。それでもお兄ちゃんやお父さんと比較したら全然時間はかかる。愛染さんの長さだと私よりもっと時間はかかるだろう。
髪を乾かした後は軽くメイクをする。別に女同士だし、休みの日だからすっぴんでもいいかなと思いつつ、せっかく愛染さんが誘ってくれたのでいつも通りのメイクにした。ちなみに気合の入ったメイクなんてしたことがないのでやれと言われてしまうと困る。
終わったらあとは着替えだけ。部屋着はトレーナーにジャージと、女っ気がないと言われても反論することができない。流石にこれで愛染さんの所に行くのは失礼極まりないので、クローゼットを開ける。
制服でもいいかなと思ったけれど、休みの日に制服を着るのは何だか悲しくなってくるので、年末に帰省する時に着ていたボアジャケットとスキニージーンズを取り出した。
スカートもあるにはあるけど、私はどちらかというと私服だとジーンズを履く方が多い。冬は単純に寒いし。夏は夏で日差しが当たるとヒリヒリする感じが苦手だ。
あと、部屋で勉強となると、もしかしたら椅子ではないかもしれない。カーペットに置かれた座布団に座るとかだとほら、見えちゃうかもしれないし。
別に女同士だからあまり気にしなくてもいいとは思うけど、それはそれとして、女同士でも恥ずかしいものは恥ずかしい。
着替え終わった頃にはお昼前になっていた。休みだからのんびりと準備していたら思ったより時間がかかってしまった。それでもまだ時間に余裕はあるけど。
教科書等をバッグにしまい、準備は完了。私は空腹を満たすべく食堂へと向かう。
お嬢様学校で食堂というのも何か違和感はあるけど、私は基本的に食堂と言っている。大体の人はカフェテリアとか、あとは別の国の言葉で呼んでいるみたいだけど。
食堂に行き、何を食べようか考える。普段の私は何も考えずにカレーを選びがちだ。なので、意識的に他のを頼もうと考えるようにしている。でも今日はこの後愛染さんの部屋に行くから、匂いが残りそうなのは避けたい。あと、うっかり跳ねて服に汚れがついたら情けないし。
週替わりメニューは〇半提携のすき焼きランチと書いてあった。いくら学食とは言えランチに2000円以上は高すぎるでしょ。いや、これでも多分〇半で買うお弁当より安いと思うけど。
麗女は食事関連の値段が中々馬鹿にならない。私が普段頼んでいるカレーも普通サイズで800円だ。カレーのチェーン店くらい。もちろん、味は本当に美味しい。けどもうちょっとリーズナブルにしてくれないかなと思う。ワンコインで頼めるのがコーヒーとかの飲料しかないのは、私みたいな人間にはそこそこ響く。食事で一番安いのがこの800円というラインだ。ちなみに周囲には数人食事に来ているが、〇半のすき焼きランチやら、なんかめっちゃお上品なパエリアやらが見える。すごいな。というか学校の食堂でパエリアが注文できるって、中々すごい光景だなぁなんて思う。
私は、当然というにはちょっと寂しいことだがアルバイトをしていない。毎月仕送りがある。言えばその金額をしっかりお母さんは振り込んでくれるだろうけど、私は本当にギリギリの額を申告している。お母さんには本当にそれで足りるの、とよく言われている。結構厳しい部分はあるけれど、これ以上家族の負担は増やしたくない。なので私はいつも大丈夫、と答えている。これでも、ちょっと節約してたまにコーヒーを買うくらいはできるので、実は私はやりくり上手なのかもしれない。
そんな状況で、私はベーコンレタスサンドを選んだ。これも最安ラインだけど、しっかり美味しい。
普段から一人で端っこの席でもそもそと食事をしてはいるが、それでもこの食事の時間は結構好きだ。周囲に人がいて落ち着かないとかはあるけど、美味しいものを食べるのは何だかんだで幸せを感じる。
とはいえ、そんな幸せな時間はあっという間に過ぎ去ってしまうもので、ペロっと完食してしまった。私は普段はそんなに食べるスピードが速い訳ではないけれど、美味しいものを食べるときは早くなる癖がある。もう少し味わえばよかったと思うけど、そういう癖があるのだから仕方ない。そういう事にしておこう。
仕方なく私は部屋に戻る。スマホを確認すると愛染さんからメッセージが来ていた。部屋の場所の連絡だった。A-501号室と書いてある。
麗女の寮はAからCまでの3つの建物がある。私はB棟の204号室。B棟とC棟は基本的に変わらないけれど、A棟は別だ。
A棟は麗女の中でもより立場の高い人が入っている。愛染さんのような超大企業の娘だったり、政治家の孫だったり。お嬢様の中のお嬢様だ。そして、A棟5階はその中でも最上位の人が入っているらしい。各学年1人ずつしか5階には入居できないと聞いたことがある。A棟5階に入っている3年生の先輩は、現内閣総理大臣の家系らしい。とんでもない。
A棟、A棟かぁ。私みたいな外部入学生が行って大丈夫なのだろうか。うっかり誰かと鉢合わせたら何か言われないだろうか。「あーら、庶民はここに来る価値もないんですのよー!」とか。ちょっと気が滅入ってきた。
とはいえ、ドタキャンはよくない。一応胃薬をバッグに入れつつ、私はA棟へと向かった。
A棟はBおよびC棟とは明らかに作りが違う。もちろん、私のいるB棟も立派だし綺麗だ。しっかりしたマンションみたいな清潔感がある。何なら高さ意外タワマンって感じさえする。
だけどA棟は高級リゾートホテルみたいだった。格が既に違う。
入口から中に入るとホテルのロビーのような所に辿り着く。フロントで姿勢よく立っているスーツ姿の女性が三人立っており、私に一礼する。
「入居者以外の方でございますね。アポイントメントはございますか?」
流石にVIPだけあってセキュリティは中々に厳しいみたいだ。一応、麗女の関係者しかいないはずなんだけど。
「えっと、愛染美乃梨さんに招待されています」
愛染さんの名前を出すと、女性の目の色が少し変わった気がする。ちょっと怖い。
「……少々お待ちください」
そう言うと、フロントの女性一人が奥の部屋に入っていく。ほんの2分程で戻ってくると、私に近づいた。
「お部屋までご案内いたします」
スーツ姿の女性二人が、私の左右に立つ。フロントの人が女性でよかった。男性がいたら流石にドタキャンせざるを得ない状況だし。
エレベーターに乗り、5階まで行く。その一番奥、501号室に到着した。
女性がチャイムを鳴らす。
「愛染様、お客様がお見えです」
そう言って十数秒後、ドアが開く。
「いらっしゃい、天ヶ瀬さん」
愛染さんが中から出てきた。
ピンクのニットに、花柄のチェックのロングスカート。上品で、それでいて可愛らしい服装だった。愛染さん、こういう服を着るんだなぁ。
「えっと、天ヶ瀬さん?」
初めて見る愛染さんの私服に、うっかり目を奪われている私に、愛染さんは私の顔の前で手を振る。
「あ、ごめん。ちょっと早かったかな」
「ううん。そんなことないよ」
そう私に笑顔を見せ、私の後ろにいる女性二人に愛染さんは目線を送る。
「ありがとうございました。天ヶ瀬さんが帰るときは私がフロントまで見送りますので、お迎えは大丈夫です」
礼儀正しく、美しい所作で愛染さんは女性二人に頭を下げ、感謝の言葉を述べる。
「かしこまりました。ご学友とのご交流、お楽しみ下さい」
女性二人はそう告げ、深々と頭を下げる。
「じゃあ、天ヶ瀬さん。入って」
中に入ると、そこは異世界だった。
いや、本当にワープして異世界転生したとかそういうのではなくて、自分の部屋とはあまりにもかけ離れていた。
例えるなら超高級リゾートホテル最上階のスイートルーム。私の部屋の何倍も広くて、シアターサイズのテレビ、その両隣には大きなスピーカー。テーブルも大きくてまるで輝いているかのよう。ソファは見るからにふかふかしていて、あそこに座ったら間違いなく私は睡魔にやられる自身がある。ベランダの方を見れば、学園内が一望できるかのように景色が広がっている。
多分、お風呂もすごいんだろうな。寝室は天蓋付きかもしれない。予想でしかないけど。
「……」
唖然とし、私は間抜けにも口を開きながら部屋を眺めていた。いや、これは私みたいな一般家庭出身の人間が見たら流石にこうなると思う。
すごい所に住んでるなぁと思う。というのと、麗女のA棟やばすぎでしょという感想が出てくる。
「天ヶ瀬さん。あまり女の子の部屋をジロジロ見ちゃだめだよ」
私を覗き込むように、愛染さんが顔を近づける。栗色の髪は今日も艶があり、意識していないとうっかり触ってしまいそう。それにふわっと甘い香りがする。
「ご、ごめん」
確かに、人の部屋をジロジロ見るのはよくない。良くないんだけど、これは仕方ないと思う。人間、自分の常識を超える出来事には何らかの反応が出ると思う。つまり、私が愛染さんの部屋をジロジロ見てしまうのは仕方のないことなんだ。そういう事にしておこう。
「ふふっ、冗談だよ。」
愛染さんは楽しそうに笑う。今日の愛染さんはかなり機嫌がいいみたいだ。いや、機嫌の悪い愛染さんは見たことがないけど。
「じゃあ、さっそく始めようか」
そう言って、私をテーブルの方へと案内する。円形のテーブルに、これまた立派な椅子だ。
愛染さんは椅子を引き、座ってと促す。
椅子の座る部分はほどよい弾力があり、私の身体に馴染むかのようだった。長時間座っていても疲れは来ないんじゃないかと思う。私の部屋にも欲しいくらいだ。きっととんでもなく高いだろうけど。
私の隣に愛染さんは座り、教科書や課題を開いていく。
「課題、頑張ろうね。分からない所があったら遠慮なく言ってね」
「うん。ありがとう」
それから私たちは、課題に取り組み始めた。
学校によって、授業の進め方は違う。例えば偏差値の低い高校は、それこそ中学レベルの所からスタートすることもあるらしい。進学校はとんでもない速さと密度で進むとか。
麗女は進学校という括りには一応入るけれど、超一流進学校ほどではない。それでも一流進学校であることには変わりない。毎年東大や京大だけでなく、海外の大学に合格する生徒を輩出しているのだから、超一流と言っても差支えはなさそうではあるけど。麗女は学力もそうだけど、そのほかの部分、令嬢としての教育にも注力している。テーブルマナーやら対人スキルやらなんやらを叩き込まれる。ちなみに私はこの授業は壊滅的だ。中学時代までは一般家庭で育ってきた人間だ。テーブルマナーなんてものは知らないし、今の私には社交性なんてものはない。いや、昔も社交性が高かったか、と言われると怪しいけど。
そんな麗女は、英語だけで言えば日本トップクラスと言っても過言ではない。交換留学も盛んだし、ホームステイ学習をやる人もいるらしい。世界各国の有名校と姉妹校となっていて、イギリスやフランス、アメリカ等の様々な国に行くチャンスがある。まぁ私は行かないけど。私のクラスにも、イギリスからの留学生が来ている。
また、麗女は選択教科の一つに第二外国語がある。フランス語やドイツ語、ロシア語や中国語等の中から一つを選択して学ぶ通年科目だ。最近は中国が大国としての存在感を増している等の事から中国語が人気らしい。ちなみに私はドイツ語を選んだ。昔SNSでドイツ語がかっこいいとかいう記事を見たから。そんな単純な理由。特に学びたい第二外国語なんてなかったし。ちなみにドイツ語の成績もだいぶ怪しい。愛染さんはドイツ語を選んでいる訳ではないので、この授業ばかりは愛染さんに聞くこともできないだろう。
そんな訳で、麗女は英語の授業はかなりハイレベルで、私は毎回赤点ギリギリだった。赤点を取らなかったのも若さを生かした詰め込み式学習の賜物だ。とは言っても、1年生時点で詰め込んでこれなので、そろそろ怪しい。
ちなみに、麗女は通常の英語とリスニングで分かれており、実質英語は2教科分ある。リスニングは更に壊滅的だ。中等部から麗女の人たちはスムーズに英語を話せたり聞き取れているけど、外部入学生は皆苦戦している。他のクラスメイトが話していたのを盗み聞きしていた内容から察するに、リスニングの成績は下位を外部入学生で占めているらしい。多分、私が最下位だと思う。
英語に強い麗女で、英語が壊滅的な私は多分、変異種か何かなんだろう。
実際、隣の愛染さんはスラスラと問題を解いている。私の速度はその10分の1もない。
中学時代は割と単語の穴埋めだったり、長文問題も一部だけ把握できれば何とかなる事が多かった。
でもこの課題はそうじゃない。プリント1枚分にまずびっしりと埋められた文章がある。そして2枚目が問題文。この問題文も穴埋めをするのではなくて、文章を理解した上で、私が文章で回答しなければならない。こんな感じのものが数枚と、英語の論文を読むという問題がある。英語の論文と言っても、何十枚もある論文ではない。論文の要旨を読み、感想を書くというもの。要旨とは、その論文がどういったもので、どういった結果があり、それによりどういった結論を得られたのかを簡潔にまとめたもの。大体論文の最初にあるものだ。
この課題は分かりやすく言えば、現代文の長文問題を英語でやっているようなものだ。目が痛くなってくる。
愛染さんは非常にスムーズに課題を進めていた。その表情は真剣だ。普段の可愛らしい愛染さんというよりも、大人っぽい愛染さんという感じ。
てっきり、会話しながら課題をやるものと思っていた。私のイメージする勉強会というのはそんな感じだった。
中学時代に部活の仲間と勉強会をした時は、皆で「むずかしー!」とか「なにこれ意味わかんない」とか、呻きながらやった記憶がある。
今は全く会話がない。シャープペンシルの紙をなでる音だけが部屋の中で広がっている。
案外、居心地は悪くはなかった。元々、私は口数が多い方ではない。これは昔からそうだ。周囲からはクール系だねと言われていた。自分でもそうだと思う。鏡で自分の顔を見て、見た目からもそう思う。服の趣味も可愛い系ではないし。
静かな環境は好きだ。自室で勉強している時もそう。結構音楽を聴きながら勉強する人も多いみたいだけど、私には無理だ。音楽の方に気持ちが寄ってしまうから。
もしかしたら、私があまり話す方ではない事を気遣ってくれているのかもしれない。
だとしたら、課題はがんばってやらないと。
「…ふぅ。天ヶ瀬さん、進んだ?」
しばらくして、愛染さんは軽く吐息を漏らし、私に話しかけてきた。
「ん……まぁ、その…ぼ、ぼちぼちかな」
全然ぼちぼちではない。チラッと愛染さんの課題を見てみると、既に8割くらいは終わっていたようだ。文章問題は終わっていて、あとは論文問題だけみたい。
私は2枚目がやっと終わったところだ。既に疲れが出てきて、集中できる気がしなかった。
「そっか。頑張らないとね。でも、このまま続けても集中力が持たないと思うから、休憩しない?」
時計を見てみると既に15時になっていた。つまり、2時間ぶっ通しでやっていたことになる。普段そんなに通して勉強することがなかったので、意外と頑張っていたんだなと思う。
「そうだね…流石に疲れた」
「じゃあ、飲み物持ってくるね。天ヶ瀬さんはあそこのソファでくつろいでてね」
「うん、ありがとう」
「あ、天ヶ瀬さんってコーヒーと紅茶どっちが好き?」
「んー、コーヒーかな」
わかった、と言い愛染さんはキッチンへ向かった。私はゆっくりと立ち上がり、ソファへと腰掛ける。
やわらかい素材のソファは、私の身体を包んでいくようだった。これはあれだ、ずっとここにいたら朝まで寝れそう。それくらい快適だった。
キッチンからはゴリゴリという感じの音と共に機械音が聞こえる。おそらく、コーヒーメーカーを使っているのかもしれない。しばらくすると、挽いたコーヒーの香ばしい香りが漂ってきた。私はこの匂いが好きだ。
実家にもコーヒーメーカーがある。お父さんとお母さんはコーヒーを飲まないけど、お兄ちゃんが愛飲している。アルバイトで稼いだお金で買ったらしい。お兄ちゃんはコーヒーにこだわりがあるらしく、わざわざ車でコーヒー豆の専門店まで豆を買いに行っている程だ。実家に帰ると、お兄ちゃんはコーヒーを振舞ってくれる。そのコーヒーが私も好きだ。
男性恐怖症の私でも、お兄ちゃんとお父さんは平気だった。目を合わせるのはちょっと苦手だけど。私はいわゆるブラコンなのかもしれない。けれど、別に悪いとは思わない。
中学時代に悲しい出来事があって、男性恐怖症になった私を心から心配してくれて、いつでも優しいお兄ちゃんの事を嫌いになることなんてできないし。
そんな感じで、私はコーヒーが好きだ。それくらい思い入れがある飲み物を、愛染さんと一緒に飲むというのも何だか不思議な感じがする。
それから数分後、愛染さんはコーヒーを載せたトレイを持って、ソファの前にあるテーブルにコーヒーとケーキの乗ったお皿を置いた。
「お待たせ。こっちがコーヒー。お砂糖とミルク聞き忘れちゃったから、一応両方持ってきたよ」
「ありがとう。呼んでもらったのに、ごちそうになっちゃってごめん」
「ううん。いいの。むしろ、一緒にこうやってお茶したりお菓子食べるの楽しみだったから」
テーブルの上にはコーヒーと、チーズケーキが置かれていた。そういえば昨日、愛染さんはチーズケーキが好きと言ってたっけ。
見た目はシンプルなチーズケーキだ。大丈夫かな、高くないかな。高そうな気がする。タダで貰うのも申し訳ない気がするけど、ここは愛染さんの厚意に甘えることにした。
「そっか、ありがとう。これ、チーズケーキだよね。好きって言ってたお店の?」
「そうなの。ちょっと無理言って、届けてもらったんだ」
見るからに美味しそうだ。でも、そこまでさせてしまうとは。
「なんか至れり尽くせりで申し訳ない気が…」
「気にしないで。わたしの好きなケーキ、天ヶ瀬さんにも食べてほしいなって」
この恩はいつか返そう。返せるものがあるか分からないけど。
いや、本当はあるんだけど、できればそれは避けたいからちゃんと考えよう。
「じゃあ、いただきます」
私は基本的にコーヒーはミルクと砂糖を入れることが多い。でも、初めて飲む時はブラックで飲んでいる。
でもまずはこのチーズケーキから食べることにした。コーヒーの味が口に残っていたら、チーズケーキの味が変わってしまうかもしれないから。
フォークで一口分を取る。底面のクッキー生地が心地よい音を立て、この時点で美味しいんだろうなと確信する。
ゆっくり口に運ぶと、程よい甘さのチーズの味が口内に広がっていく。じわじわと体全体を包み込むような甘さ。甘いのにしつこくなくて、スッと染み渡っていくような感じ。
端的に言えば、絶品だ。こんなケーキは食べたことがない。
「…すっごく美味しい」
私はその美味しさに語彙力を失ったかのように、ただ美味しいとしか言えなかった。弁明すると、人間は本当に美味しいものを食べたら語彙力がなくなるのだ。多分。私の大したことのない食レポ能力で味を表現するよりも的確で、真理をついた感想だと思う。
そんな私の顔を眺めていた愛染さんは、嬉しそうに微笑む。
「よかった、お口に合ったみたいでわたしも嬉しい」
「人生で食べたチーズケーキどころか、スイーツで一番美味しい」
私はそんなにスイーツを食べるわけではないけれど、間違いなく人生で一番美味しいと感じるほどに、このチーズケーキは美味だった。
コーヒーも私の好みに合う、酸味が控えめですっきりとした味わいだった。お兄ちゃんが買ってくるコーヒーとはまた別の美味しさがある。というか、コーヒーってこんなに豆によって味が変わるんだなぁって思う。
普段の私はそんなに食事のスピードが速い訳ではないけど、あまりの美味しさにあっという間に平らげてしまった。ちょっとはしたなかったかもしれない。
「ふぅ…ごちそうさまでした」
満足感のある間食というのも久しぶりだ。普段あまり間食をしないのも影響しているのかもしれない。
「すっごく美味しそうに食べてくれて、わたしも用意した甲斐があったよ」
「いやほんと、こんなに美味しいものをご馳走してもらっちゃって、ありがとう」
ソファに身体を預け、天井を見上げながら、私は愛染さんに感謝の言葉を述べる。
それと同時に、体がふわっとなるような、宙に浮く感覚を覚えた。
あ、これはまずい。スイーツ食べて、やわらかいソファにもたれかかって眠気が来るとかあまりにも図々しすぎる。
けれども私は、それに抗う事はできず、そのまま視界は閉ざされていった。
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