第8話 そういえば先輩って


「ふう、無事に着いて良かったー」

「わたしは全然、無事じゃなかったです……」


 相変わらずバリンをこちらに向けながら、先輩は「やり切った感」を出していた。

 わたしはと言うと、道中、『呪われてるかも』と言われたことがどうでも良くなるくらいには、気恥ずかしさが勝っていた。

 服はドロドロなうえ、金属製の熊手を常に向けられた状態で連行されたのだし。

 青川先輩にそのつもりはなかっただろうけど、きついお灸を据えられてしまった気がする。


「ところで、ここは──」


 わたしは目の前の平屋の建物を見た。白いゆず肌の外壁に、スライド式ガラス戸の小さな建物だ。

 どうやら町役場と道路を隔てた隣の敷地に建っているらしい。位置としては庁舎の裏手側だろう。柵の向こうに、壁沿いに並んだたくさんの公用車が見える。


「小ぢんまりしてるけど、ここが事務所だよ」と先輩が教えてくれる。「まだかな、熊沢さん。事務所の鍵も、熊沢さんが持ってるんだよね」


 先輩は左手でバリンを持ちつつ右手でスマホを操作して、「お」と声を上げた。


「もうすぐ家出るから待っててくれって。熊沢さんの家からだと、車で10分はかかるかなぁ」


 ちょっと暇つぶしでもしてて、と言われる。

 わたしはスマホも持たずに家を出てしまったから、熊手ごしの先輩を眺めるくらいしかやることがない。

 それにしても、と思う。

 この人が実は男子だっていう話の信ぴょう性は、行動を共にしてみて、むしろわたしの中で揺らいでいた。

 先輩の一人称は「僕」だけど、強いて言うなら、その要素だけが不協和音のようだった。

 同年代の田舎の男子があえて「僕」という一人称を用いるんだろうか、とも思ってしまうし。


 色白で、丸みがある頬の輪郭に、ぱっちりとした目。女性らしいやわらかな顔立ち。

 今の服装もラフだけどユニセックスなもので、女子が着ていても全く不思議じゃない。

  というか、青川先輩が本当は男子らしい、という話は、単なるうわさ話に過ぎなかったっけ……。

 ちょっと迷いつつ、わたしは先輩に声を掛けることにした。


「あの、青川先輩って、新入生歓迎会では女子の制服着てましたよね?」


 すると先輩は電気ショックを受けたかのようにびくっと顔を上げた。思いのほか大きなリアクションに、わたしは動揺する。

 やらかしたかもしれない。

 もしかしたら、これは振っちゃいけない話題だったのかも。

 先輩は引きつった顔で「だったら何?」と言ってきて、わたしは相当に焦る。


「あー、えっと、その」

「その?」

「い、1年生の間で、おかしなうわさ話が出回っているので……」

「どんな?」

「いや、あの」


 しどろもどろになるわたしに、先輩は「どんな?」ともう一度同じトーンで繰り返してきた。

 非常にまずい。


「あー、あー!」


 わたしは焦った末に大声を張った。


「……いきなり大声出さないでくれる?」

「す、すみません」


 背中に冷や汗を感じながら、わたしはうなだれる。そこへ、「で、どんなうわさ話が出回ってるんだって?」と蒸し返されて、わたしはいよいよ肝が冷えた。


「本当に申し訳ございませんでした」

「いや、あやまるんじゃなくて質問に答えてよ。そもそもそっちが振ってきた話でしょ」

「……それは、おっしゃるとおりなのですが」

「ほれ、さっさと言う」


 先輩はかたくなだ。わたしは観念して、「お気を悪くされたら申し訳ないのですけど……」と前置きをしたら、「そういうのいらんから」とお叱りが飛んできた。わたしは先輩の顔を直視することができない。


「そ、それが、青川先輩が本当は男子生徒で、新入生歓迎会での制服姿は女装だった……とかいううわさでして……」


 言葉尻を濁しながら、おそるおそる先輩の表情をうかがう。

 当人はというと、目をぱちくりさせていた。


「ほう」


 それがどんな感情での言葉なのかが分からなくて、わたしにはそれが恐ろしい。


「お、怒ります……よね?」

「や、べつに」

「でもいやじゃないですか? 男子と間違われるとか……」と言うと、先輩は「なに言ってんの」あっけらかんと言った。


「もとから男だし」

「ひ、」


 ヒエエ、と後ずさると、「その反応こそ失礼じゃない?」と先輩は口をとがらせる。ただ、すぐにほっと息をついた。


「なんだ、そんなことだったんだ。うわさ話とか言うから、僕はてっきり」

「あの、着替えに帰ってもいいですか」

「え?」

「汚れた服を着替えたいんです」

「いきなりどうしたの」


 いきなりどうしたと言われると返事に困る。隣にいる人を男子だとはっきり認識した途端、この格好でいたら尊厳にかかわる気がしてしまった、とか恥ずかしくて言えないし。


「いや、まだ帰せないって。逃げないって約束だったじゃん」

「でも、いますぐ着替えないと死ぬので……」

「死因、やばすぎない?」


 ちょっと待ってなよ、とひとこと置いて、先輩はスマホで電話をかけ始めた。


「あー、もしもし熊沢さん。まだ家です?」


 電話の向こうで、熊沢さんらしき人が応対する気配がする。息を殺してその様子をうかがっていると、先輩はまた口を開いた。


「本当に申し訳ないんですけど、一旦帰って何か替えの服を持ってきてもらえませんか。なんか、着替えないと死ぬらしいんで。え? はい、神木さんですけど」


 ええ、すみません、お願いします、みたいなことを言って、先輩はスマホを耳から離した。


「あの、す、すみません……」


 こわごわ声をかけると、先輩は「ほんとだよ」と言う。


「熊沢さんが着替えを持ってきてくれるみたいだから、ちゃんとお礼言ってよね」

「わかりました……」


 なんだか、ひどくいたたまれなかった。


「ちなみに新入生歓迎会のことだけど」


 わたしはぎくりと固まる。

 その話を、まさか先輩のほうから広げてくるとは思わなかった。


「べつに、進んで女装したというわけではなくて、忘れ物をした結果あれに落ち着いたんだよね」

「わ、忘れ物」

「当日着る予定だった衣装を家に忘れたの」


 なぜそんな話を……?

 困惑していると、先輩は「まあ、聞いておきなって」と言った。


「僕には、完璧に女子を演じなければならなかった理由があるんだから」

「はあ」


 わたしはおとなしく聞き役に回るしかなかった。


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