第7話 バリン・ロイシン・イソロイシン

 青川せいかわ先輩の手に出現した武器。

 その穂先が、鋭くこちらに向けられた。

 思わず「なんですかっ?」と声が出る。

 6本の猫の爪のような細長い刃が、おうぎ形に並んだ金属部。──改めて目の前に突き付けられてみると、殺傷能力は低そうなものの、やっぱり怖い。

「ん?」と先輩は自分の手元に視線をやった。


「ああこれ、バリンっていうんだって。どうしてそう呼ぶのかは僕も知らないけど」

「バリン?」


 耳慣れない響きだなと思っていると、先輩に「疎水性アミノ酸の名前みたいでしょ」と言われた。わたしはそれには答えあぐねた。


「まあ、どう見ても熊手なんだけどね、これ」と先輩。

「熊手……」

「え、もしかして熊手って知らない?」


 少し困ったように、レーキって言えばわかる? と訊かれた。

「いや〜……」と濁して答える。


 熊手のことは知っている。小中学校にもあったと思う。落ち葉を集めたり、土を搔いたりする道具。

 言われてみれば、これは上下をひっくり返せば金属製の熊手そのものだ。自分で気付けなかった理由としては、熊手は竹で出来ているイメージが強かった上、「武器」って思い込みが先行してしまったから。


 ……いや、そうじゃない。わたしが訊きたかったのは、そういうことではなく。


「どうしてそれを? というか、そんな長い熊手をどこから出したんですか?」

「あ、バリンは神通力でいつでも呼び出せるので」

「神通力ってなんなんですか?」

「えっと、僕に生まれつき備わってる能力って感じかな?」

「──あの、さっきからバリンの先をわたしに向けて来るのは、やめてもらえないんですか?」


 わたしは熊手バリンを喉元に突き付けられたまま両手を上に挙げた。

 バリンの長さを隔てた距離。先輩は浮かない顔をして、「ごめん、それはちょっと」と言う。


「だってあんた、アカガメに呪われてる可能性高いし」


 耳を疑った。呪われてるだって?

 どういう意味?


「まあ、何が起きてもいいように、備えておくに越したことはないでしょ」


 いったい、何が起きるって言うんだろう。分からないものの、危険視されていることだけは確かだった。わたしは何も言えなくなる。


 そのまま目的地に向かうことになった。

 金属製の熊手で脅されながら、森に覆われた道を抜け、田園地帯に差しかかる。

 6月の午前中ともあって、周辺の田んぼには作業をする人の姿がたくさん見られた。


「お、セイカワさんとこの!」


 農道を歩いていると、田植機に苗をセットしていた作業服姿のおじいさんがこちらへ手を挙げた。

 セイカワさん、と知っているあたり、先輩の顔見知りなのだろう。


「わぁ、田中さん! おはようございまーす」


 猫をかぶった笑顔で挨拶を返した先輩を見て、わたしも一応、それにならってペコリとお辞儀しておく。


 先輩は「家の手伝いけ?」というおじいさんからの質問に、わたしにバリンを突き付けたまま「そうです」とにこやかに答えていた。

 うーん、なんだろう、先輩のお家には家業があるんだろうか。


「そういや山の方で派手に水が上がってたべ。あんとんねったんか?」

「あ〜。大丈夫ですよ。現場周辺を見てきましたけど、とりあえずうちの施設じゃなさそうですねー」


 わたしが聞いても、なんの話なのかまるで分からない。

 同行人が知らない人と話している気まずさから、わたしは道路と畦畔けいはんの境目あたりを見るでもなく眺めていた。つまりは手持ち無沙汰にしていたのだけど。


「おうお嬢ちゃん、よく見たら泥だらけでねぇか」

「は、はいっ?」


 先輩と話していたはずのおじいさんが、わたしを見ていた。慌てておじいさんに向き直る。表情からするに、どうやら心配してくれているらしかった。


「泥だらけ……ですか?」


 疑問に思って、自分の体を見下ろした。シャツの裾を引っ張って服の状態を確認すると、


「うわー?!」


 思わず素っ頓狂な声を上げてしまうほど、わたしの全身は泥だらけだった。


 考えてみれば、汚れていないはずもなかった。

 突如として水が噴き出す怪奇現象のあと、先輩に(助けるためだけど)突き飛ばされ、土と雑草の上に転がったのだから。

 幸いにもくたびれたTシャツとジャージだったので、クローゼットへのダメージは小さいほう。

 とは言え……

 このわんぱく小僧みたいな泥んこスタイルは、女子として、いやイチ高校生として、あまりにも……あんまりではないでしょうか。

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