第4話 黒いもや

 部活が終わってきゃほりん先輩と別れたあと、わたしは急ぎ足で家に向かった。

 早く、おばあちゃんの元気な笑顔が見たくて。


「ただいまー」


 玄関のドアを開けると、家の中はしんと静かだった。空気が少し冷えて感じる。

 玄関にママの靴がない。今日は仕事に行っていて、まだ帰っていないようだ。

 ってことは、今はおばあちゃん一人きりなのか。

 わたしは斜め掛けしていたバッグを玄関前にボンと下ろし、1階の奥、おばあちゃんの寝室へと向かった。


「おばあちゃーん」


 ノックをして呼ぶけど、返事がない。

 眠っているんだろうか。少しだけ様子を見ようと、そっとドアを開け、明かりを付ける。

 それからベッドに眠るおばあちゃんに近付き、そしてわたしは目を疑った。

 なんだろう、これは。

 おばあちゃんの頭の上に、黒いのようなものが浮かんでいる。


「……実夏みかちゃん、帰ったんかい?」

「お、おばあちゃん」


 わたしに気が付いたおばあちゃんが体を起こそうとするのを、慌てて止めた。


「ねえ、体は大丈夫なの……?」


 わたしはおばあちゃんと黒いもやを見比べる。

 もやは、浮遊しながら収縮と膨張を繰り返していた。──まるで、生きているみたいに。

 おばあちゃんは、大丈夫よ、と力なく笑った。


「実夏ちゃん、お腹減ったでしょう。確か、冷蔵庫にチョコが残ってた気がするわ」

「……そんなことより、おばあちゃんこそ……ご飯食べられてるの……?」


 黒いもやから目が離せず、うわごとのようになってしまった。


「おばあちゃんは大丈夫。お昼ご飯もちゃんと食べたのよ」

「で、でも……」


 そう言われてもまだ、わたしは一歩も足が動かせなかった。

 あの黒いもやはなに? おばあちゃん自身は気付いてないの? そう思うけれど、うまく言葉が出てこない。

 そうしている間にも、黒いもやは不気味に動き続けている。

 なんとかしないと──。


「き、救急車」


 急にそんな言葉が口を突いて出てきて、自分自身にびっくりしてしまう。

 呼ぼう、救急車。

 どうしてすぐに思い付かなかったんだろう。

 ポケットを探るけどスマホがない。バッグの中かな……。あれ、わたしバッグどこにやったっけ……。

 もたもたスマホを探すわたしを、おばあちゃんは「もう、実夏ちゃんたら」と笑う。


「ただの風邪で救急車なんか呼んだら、ご近所さんの迷惑になっちゃうわ」


 ちがうのに、と思った。

 おばあちゃんは、わたしが冗談を言っていると思ったんだろうか。

 ちがうのに。きっと、多分、ただの風邪なんかじゃ……。


「実夏ー、帰ってるのー?」


 その時ママの声がして、わたしはハッとして玄関の方向に振り返った。ママが仕事から帰ってきたんだ。

 わたしは、ママ、と呼びながら部屋を飛び出した。


「ママ、おばあちゃんが……」


 なんとかそれだけ声に出す。帰ってきたばかりのママは、仕事用のかばんを持ったまま目を丸くした。


「なに、お母さんになにかあったの?」


 その問いに一瞬詰まったけれど、わたしは小声で「なんだか黒いもやみたいなのが見えて……」と答えた。

 もや? と怪訝な顔をするママの腕を、わたしは「とにかく早く来て!」と引っ張る。

 あのよく分からない現象について、早く大人に判断してもらいたかった。わたしに正解を教えてほしかった。


 しかし、おばあちゃんの顔を覗き込んだママは、「お母さん、どこか悪いの?」とだけ尋ねた。

 なんで、と耳を疑った。黒いもやは、まだ小さくも薄くもならずに存在しているのに。

 おばあちゃんは、「平気さね」といつもの調子で意地を張る。

 ママは浅く息をついた。


「もしひどくなりそうなら、私の携帯に電話してって言ったでしょ。スマホの使い方が分からないわけでもあるまいし」


 そう言ってベッドサイドに置かれたメタリックカラーのスマホに視線を向ける。

 おばあちゃんは、普段からこのスマホで電話やメールの機能を使っているから、ママの言う通り、電話のかけ方が分からないわけではなかっただろう。


「本当に大丈夫だいじだったんだよ。けど、実夏ちゃんには気苦労をかけちゃったんだねえ。実夏ちゃんは本当に優しい子だから」


 ママに言ったあと、おばあちゃんはわたしに「いつもありがとうね」とほほえみかけた。

 ちがう。ちがうのに、と涙が出そうになる。


「……それなら良いんだけど」


 ため息まじりにそうつぶやいて、ママはおばあちゃんの寝室を出ていってしまった。わたしは慌てて追いかけ、その手を引き留める。


「ねえ、ママにはあのが見えないの?!」


 ママは露骨に顔をしかめ、「あんた、さっきから何を……」とわたしの目を見た。しかし、しばらく睨み合っていると、不意にママの表情がふっと優しくなった。


「……実夏も、疲れてるのかもね」

「え?」

「今日はご飯食べたあと早く寝ちゃったら? 明日は土曜日で学校もないし」


 いきなりなにを言われたのか、すぐには分からなかった。でも、どうやらママは、「黒いもや」というのはわたしの勘違いだろう、と言ってるんだと悟った。

 本当にそうなんだろうか。

 わたしが疲れているせいなんだろうか。わたしがおかしいのだろうか。


 その後のことは、あんまりよく覚えてない。

 ママに言われたとおり、さっさと部屋に戻ってベッドに横になったことだけ覚えてる。

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