真実
もう、食らいたくなど、ないのに。
※※※
展望エリアの芝生を引きちぎって、喉がかれるまで叫んだ
「……来たな」
和沙は展望エリアの入り口からゆっくりと這い出てきたそれを見て、口を引き結んだ。異界の初めての、青空の下。
徐々に闇を取りもどそうとしているその空はけれど、まだ千葉夜の光に包まれている。共に戦ってきたもう一人の相棒のシャベルは失くしてしまったけれど、その光がある。
千葉夜が、隣に居てくれる気が、する。
「よお、一年ぶりなだな――和沙」
「……NONE」
和沙が異界に来て1か月、現実に戻るために和沙は名前を使った。そこに現れた異界の者は、けれど、紅をして脚をすくませるほどの相手。
和沙1人で戦い、重症を負ったところに、戦いの音を聞いて駆け付けた紅に救われた。そのおかげで、今がある――けれど。
『ヤツのことは、NONEと呼んでる。まさか、あんたの魂を食らっていたとは……ヤツはな、異界の者に成り果てた、元人間なんだ』
いくつもの魂を食らい、異界の者に成り果てたその者は、誰でもなく、誰でもであって。
NONEと、紅が名付けたその相手こそ、和沙が倒すべき、相手。
異界で最も度し難い、最悪の存在。
「おい、その名前はやめろと言っているだろ。俺には
「その口で、わたしの名前を、呼ぶな」
「……おお、怖い怖い」
NONEは――Nは、極彩色のヴェールに身を包んでいた。
その色は千葉夜の魂を食った〈巨躯〉の一部、例の泥と同じ色をしていて、ああ、異界の存在の色だと和沙は奥歯を強く噛んだ。Nが強い理由は、単純だ。刃という元々の存在の能力に加え、今まで食らった魂の数だけ、能力を使いこなす。
獲物のない和沙1人で、果たして――
「違う。わたしは帰るんだ、千葉夜の元に」
「――へえ?」
Nは表情の見えないその顔を歪めたようだった。ヴェールが不吉に何度も脈打つ。
努めて冷静さを保とうとした和沙だったが、コマ送りのフィルムをいくつか飛ばしてしまったかのように――一瞬で距離を詰められ、その腹に重たい蹴りを食らってしまった。
「……ッ!!」
「はは、さっきのデカブツ倒すのに武器を捨てちまったもんな?防ぐものも防げない」
「え、ぬ――ッ」
何とか展望エリアに踏みとどまった和沙は続く攻撃を警戒しようとして、いつまで経っても衝撃がやってこないことに、違和感を覚えた。Nはその場で静止している。
せめて顔が見えれば、表情から情報を得られるのだが。
「能力を増やす方法は、魂を食らうだけじゃないんだぜ」
「――何を、言って」
「この際だから教えてやるよ。どうせ和沙、お前はここで私に負けるんだから」
和沙は展望エリアに転がっている折れた鉄パイプをいくつか見つける。これなら心もとないが、武器にはなる。
Nの隙を見て拾わなければ――
「異界の者はな、ウチだけじゃない。皆、元々人間だったんだよ」
「――は?」
Nは静かに、語る。
異界の真実を。和沙は相手にしないつもりだったが、その発言の内容に思わず硬直してしまった。
「異界はそのものが、生物的なふるまいをしている。ぼくたちが魂を食われ、それを複製して取り戻させて――それに失敗すりゃ、つまり、模倣品の魂も食われりゃ、そいつはどうなると思う?」
「――まさか」
「そう。晴れて、異界の者の仲間入りだ」
異界の者の身体で模倣品の自分たちを治療できるのは、図形的なふるまいであって。かつ。
もとは、同じ人間だから――
「それで肝心のもう一つの方法が、異界の者に成り果ててすぐ、人の自我が残っているうちに――身体の一部を移植するんだ。それで、能力を増やせる」
極彩色のヴェールはふわりと幅を広げた。中で手でも広げているのだろうか。
Nは和沙の反応が無いことを確認してから、静かに、告げた。
「それで――俺は、どっちだと思う?」
「……ッ!!Nッ!」
悪辣に、ああこいつは嗤ったんだなとはっきりと分かる声色で、Nはヴェールを揺らした。度し難い、だがそれは、この異界そのものも同様で。
和沙はその余裕を、表面上は激昂して見せたが、内心では淡々と勝利への道筋を考えていた。千葉夜と共に戦うと決めてから、連戦の後Nと相対することは分かっていたのだ。
――武器がない中での戦闘は想定済みだった。
「芸がないな」
Nは鉄パイプを拾って近づいてくる和沙を相手に一蹴した。少なくとも、和沙の魂を食ってはいる。
どっちだろうと、倒さなけば、帰れないから。
「お前の能力は割れて――ッ!?」
和沙が振りかぶった鉄パイプを悠々と受け止めようとしたヴェールが、直撃の衝撃で展望エリアの外へと吹き飛ばされたのは、わずかに数秒後のことだった。
魂を食らった相手とは言えど、能力の理解度では和沙が勝っているようだ。
(能力の解釈――千葉夜が「護る」を「弾く」と捉えていたみたいに、わたしも考えた)
和沙は一定のリズムに乗って攻撃をすることで威力が上がる能力を持つ。今までは、流れるように次々と攻撃を繋げることで能力を発揮してきたし、千葉夜の前でもそう振る舞った。
けれど、この能力の本質は、攻撃ではなく、リズムを保つこと。
一挙手一投足が全て攻撃であると理解してしまえば、リズムを保って動き続ける限り、和沙の身体能力は著しく強化されていく。ドラムのビートが途切れぬ限り、その力はやむことがない。
「――ジブンに何をした、和沙」
「知るかよ」
宙に浮かび、勢いを殺したNは展望エリアへと戻りながらそう問うたが、答える必要はない。あまりに多くの魂を食ったせいか、定まらない一人称に、和沙は眉を寄せた。
――どれほど胸糞悪くても、和沙の能力の真価を発揮できる今は最大の好機だ。和沙はNに勘づかれる前にと次々に攻撃を加えていった。
あるいは石の壁を生み、あるいは空間を削って、あるいは瞬間移動をして、Nはあらゆる方法で和沙の攻撃をいなし続けた。だが、時間が立てばたつほどに、和沙の力は強化されていく。
鉄パイプのひと振りは、今や大地を穿つ咆哮に等しい。
「――クソッ!!!」
劣勢に追い込まれたNは初めて焦燥の声を上げ、和沙の攻撃の届かない上空へと引いて行った。徹底的に叩き潰すならば、初めから高所を取ればよかったのだ、と和沙は吐き捨てる。その余裕が、敗因だ、と。
和沙はシャベルの重さに頼った動きを捨て、今までの戦闘で意識していたリズムを変え、集中する。どんな能力を持っているか分からないのだ。空中から一方的に遠距離攻撃を放たれたら厳しい。
「所詮は小細工だったな」
「――えっ」
和沙は世界が回転したことを認識するよりも前に、右脚を襲った熱に意識が支配された。次いで、転倒、リズムが止まる。強化が終わる。
最後に、激痛がやって来た。
「……ッ!!!!」
声を噛み殺して痛みに耐える和沙の右大腿が、何かに貫かれている。
見えなかった、あまりにも早すぎて、異界で鍛えた勘すらもまるで意味がなかった。いや、そうじゃない――これじゃあ、この傷では、さっきまでのようにはもう、動けなくて。
「ああ、出来れば刃の能力として欲しかったよ」
次いでヴェールがわずかに光る。
熱が左脚を覆う。衝撃、激痛――右と同じ場所に穿たれた、穴。
痛みで朦朧とする意識の中、ああ、レーザーかなとなんとなくあたりをつけた。だとしたら、動きを止められた今、頭でも狙われたらおしまいだ。
いや、和沙の能力はもう発動するのが難しい――じゃあ、もう。
(……ああ、わたし)
恐怖を植え付けるかのようにゆっくり、ゆっくりと降りてきたNは、ヴェールをはためかせながら近づいて来た。まだ続く青空の下、1年前の戦いでは異界の闇のせいで見えなかったその威容が、ああよく見えるな、と。
せめて一撃でも、と投げた鉄パイプは空中であっさりと静止させられた。Nの無尽蔵の能力、最初にこれを使われ、レーザーを放たれていたら?
そこまで考えた和沙は、己の敗北を、悟った。
※※※
早く解放して欲しかったのに。
※※※
近づいてくる終わりの気配に、けれど和沙は諦めきれなくて、ずり、ずりと腕の力だけで後ずさった。床にちらばった別の鉄パイプを手に、後退を続ける。そのわずかな速度よりもずっとずっと遅く、ヴェールはなぶるように近づいてくる。
異界の悪辣を体現したかのような存在が、そっと腕を上げた。
「……異界の者になったらすぐに食ってやるさ。お前は健闘したよ」
そして、微かな光が瞬き、レーザーが和沙の頭に向かって放たれて。
「……っ!」
数秒経っても、和沙は意識が残っていた。
「――は?」
困惑はNも同じだったようで、和沙は今が好機と無理やり立ち上がってその場を飛びのこうとして。気が付いた。
己の身体を包む蒼い光に。
「――千葉夜?」
そこにはいないはずの、和沙と共に戦うと誓ってくれた、人。
※※※
ちょうど、千葉夜が異界に連れていかれた時と同じ出口から。
「良かったです。柊さんが外に出られて」
「僕も、まさか
お互いに無事を祈った者どうし、あの異界の中での呼び名で笑いあった。
未だふらつく脚だったが、柊が手を引いてくれたから問題なく歩ける。ほんの数時間前までは、この手は。
「……夜さん、もしかして何かあった?」
「――はい」
体調不良、ではないだろうと柊は踏んで、千葉夜と目を合わせずにそう零した。他の誰か、それこそ学校の友人であったら、何も言えなかっただろう。だが柊なら。
異界で戦い抜いたこの人なら。
「私、の、初恋の相手なんです。
「……!そうだったんだ。異界で、会えたんだね」
「はい。一緒に2人で戦おうって、最後まで隣に立っていようって、誓い合ったのに。私、知らなかった。魂を取り戻したら」
異界に来た時に胸を衝いたあの喪失感が消え、代わりにほんの少し満たされたような、感触が、あって。
「すぐに、戻ってしまうって」
「――僕も、ちょっと驚いた」
「だから、私、置いてきてしまったんです。和沙を。1人で。最後まで、一緒に戦うって――私、その誓いを果たせなかった。和沙は、知ってて私を先に」
「和さんは……そっか。だから、夜さんは」
人の行きかうS駅から伸びる連絡橋。
S区で最も高いビルを見上げるこの場所、ああ、あそこで戦ったんだ、と。
空の闇を、2人で払ったんだ、と。
「和沙を、信じていないわけじゃないんです。きっと勝って、戻って来てくれる。でも、私は最後まで隣で戦いたかった」
「もしかして、あのビルの上で……?」
「はい。数時間前、私の感覚では、ですけど。和沙と一緒に、あそこで戦って。私だけ、戻ってきて。まだ、あそこで和沙は戦ってるのかな、とか」
既に現実に帰還を果たした千葉夜には手の届かない場所で、和沙は今も戦っているのだろうか、と。そう考えるだけで、胸が苦しい。応援したいし、信じたいけれど、傍に居られない自分がそれを口にするのが、どこか空々しい気がしてしまって。
ああ、そうか、と。
「私の、わがままなんですね、これは。和沙は私が戦闘向きの能力じゃないから先に戻してくれたのに。それを、一緒に戦いたかったっていつまでも。最後だって、私、応援の一言も言えなかった」
『嫌、だよ……行かないでっ、私、だって一緒に戦うって、言ったのに』
和沙、私、どうすれば。
「――夜さん、あれ」
「えっ」
刹那、だった。
くぉおおん、と何かが風を切る音が、2人の耳を捉えたのは。
同時に千葉夜は柊が指さす先、ビルの屋上付近、その空中に浮かぶ極彩色の何かを見つける。それは、その色は〈巨躯〉の泥と同じだ。
現実には存在しえない、異界の者の色。
「和沙……!!」
千葉夜は悟った。
あれは和沙の魂を食った相手だ。今、和沙は屋上で戦っているんだ、と。なぜ現実世界でも見えているのかは分からない。だが通行人たちは一切気にも留めていないところを見ると、見えているのは柊と千葉夜だけなのかもしれない。
「夜さん。行ってあげて」
「柊さん、でも私は現実にいるから……」
「同じ場所で、信じて待っていてあげて。それが、現実での千葉夜さんの戦い、だから」
たとえ詭弁だとしても、千葉夜は何か出来ることがあるかもしれないという事実が嬉しかった。自己満足に過ぎなくても、今、あそこにいるなら。
千葉夜は柊の手を握り、額にこつん、と当てた。
「また後で会いましょう。そしたら、今度はお茶でも――3人で」
「……うん。ぶちかましてきて!!」
深く頷いた千葉夜は、柊に背中を向け全力でビルの屋上へ向かった。
この時の千葉夜はそれが和沙を救うことになるとは、考えもしていなかったけれど。
「無事に、帰って来てね」
柊は屋上を見上げ、両手を重ねた。
※※※
誰も、それは
しかし、柊は、その最初で最後の天を裂き大地を割らんとする一撃で以て、ある偶然の結果を引き起こした。そして偶然が重なり、今、和沙は柊が割った〈ビル〉と同じ場所で戦っている。
奇しくもそこで再会した2人は、なぜ現実から異界の音と光景を見ることが出来たのか。
柊は、その一撃でこの場所の現実と異界との境界線を、割ったのである。
※※※
「――千葉夜?」
千葉夜の光が護ってくれたはずなのにその姿が見えなくて、和沙は夢でも見ているのかと思った。自分はもうNに貫かれて、死後の世界で。
けれど、違った。
『和沙っ!大丈夫!?』
「ち、千葉夜?どうして……」
『わかんない、でも!!現実世界のS区のこのビルで、アイツが見えて。急いで登ってきたら、和沙が倒れているのが見えたから、能力が使えないかって思って、必死で』
半透明になった千葉夜が和沙の背中をそっと支えている。その手から熱は伝わってこないけれど、言葉を介して和沙は彼女を感じた。
蒼い光の温かさが、確かに身体を包んでくれているから。
「もう、1人じゃない」
『和沙?』
「ありがとう、千葉夜。わたし、いま負けそうだった。ううん、負けを認めてた。でも――誓い、守ってくれてありがとう」
『わたっ、わたし……!!うん、最後まで、ちゃんと戦うよ――ッ!』
異界の
そして今の千葉夜は柊が作った2つの世界の境界線のひびから異界の様子を覗き、そして魂だけで異界に干渉している。ゆえに実体がなく、和沙には半透明に見える。だが――能力そのものは、オリジナルコピーとを問わず、魂に紐づくもので、したがって、千葉夜の光が和沙を包んでいる。
――など、異界の者もS区崩壊境界線もNも、決して知ることはない、のだけれど。
「……か」
「N、2人なら、わたしは負けない」
『和沙、多分アイツの攻撃は私には効かないから、全力でやって。払う光なら、ヴェールもはがせるはず』
極彩色のヴェールは沈黙していた。奇妙なほどに、恐ろしいほどに静寂を保っていた――否、何かを口にしていたようだが、その声は小さく、聞き取れない。
代わりに2人が耳にしたのは、数多の人の、耳をつんざく悲鳴のるつぼだった。
「――ッ!千葉夜、気を付けて!」
『私は大丈夫!和沙こそっ』
鉄パイプを構えた和沙はNの出方を窺いつつ、痛む足に鞭打って、ステップを踏んでいく。今、隣に千葉夜が居てくれる。それだけで、その光に包まれているだけで、和沙は何でもできる気がした。
痛みも、置き去りにして。
和沙は洗練されたビートを刻んで、身体強化をしながら、微動だにしないNの横合いから一撃を放つ――
どごぉん!!!
『す、すごい……』
千葉夜の光の払う力も加わり、驚異的な一撃となった和沙の攻撃が、Nに直撃する。一瞬にして展望エリアの転落防止柵を突き破り、異界の闇と千葉夜の紺碧がせめぎ合う混沌たる空へと、落ちて行った。
和沙は最初の一発同様、すぐに上がって来るものだと思っていたが、10秒、1分と待ってもNは戻ってこなかった。不審に思いながらも、自分の胸に魂が帰って来ていないから、油断はできない。
ステップを踏み続ける和沙と、サポートの用意をするために臨戦態勢を取る千葉夜。
刹那、だった。
――おぉぉぉおおおん!
それは異界の者の咆哮に慣れている者でさえ、耳を疑う異音だった。
和音では明らかにない、無数の音の重なりが、乱雑に絡み合ったそれらが、なぜか、1つの音として聞こえる。だが直感がそれを拒否する、数多の魂の悲鳴。
1つでありながら、多でもあるあまりにも異質な、それは声。
「……N、そこに、お前は――その中にまだ、いるというのか」
ゆっくりと、下から浮上して展望エリアに姿を見せた威容は、もはや何者でもないように、見えた。
極彩色の球状の何かを頂点に、S区の建造物たちを惑星の周囲を漂うデブリのように纏っている。その塵にしては巨大な異界・S区そのものとすら言える瓦礫たちで、左右一対の翼を象った。否、それはよく見れば人間の手のひらの形だ。
巨体のあまり極彩色の球の大きさが小さく見えるが、直径数メートルはあるだろう巨大な球。あれが、N、だろうか。
「これも、お前が食った能力、なのか」
――おおおぉぉん!
咆哮と共にそれが左手を払うのと、千葉夜が和沙を包む光の出力を上げたのは同時だった。
「――くッ!!!」
ただ払いのけただけにも関わらず、展望エリアはビルの複数階層ごと、ごっそりと削り取られる。その衝撃こそ千葉夜の光で払ってもらったものの、衝撃のあまり身体が軋んだ。
和沙は崩れ行く屋上階を何とか足場にして、あまざらしになった展望エリアの下のフロアへとなんとか転がり込んだ。
S区へと落ちていく瓦礫たちを横目に、重力を無視する挙動でふわりと和沙の隣に落ち着いた千葉夜の声も遠く、衝撃の大きさを知る。
『――ぶ!?大丈夫和沙っ!?』
「う、うん――大丈夫、だけど。あいつ、どうやって倒せば」
ゆっくりと降下して和沙と相対した極彩球。まるで、和沙を、そして千葉夜を睨みつけているかのような静寂。
倒してみろ、とでも言うかのような、巨体の姿。
獲物は、手の中の鉄パイプ一本。
「探せば、あるかもしれないけど」
建造以来初めて空を見上げているだろうこのフロアの床に散らばった、無数の瓦礫。その中を探せば、和沙が扱える武器になり得るものが見つかるかもしれない。
だが、今のNがそれを許すとは、思えない。
「千葉夜。やるなら一発だよ」
『和沙、分かった――じゃあ、身体の光、攻撃のタイミングで全部武器に回す』
「お願い」
こんな時に、いやこんな時だからこそ、和沙は千葉夜としたキスを思い出していた。唇に触れた熱が身体を満たす、あの高揚を。幸福を。
もっと、触れたいと思う。知りたいと、そして――
伝えたいと、思うから。
「N、わたしの気持ち、返してもらうから。そして、千葉夜」
『なに?』
「千葉夜の隣に帰ったら、キスしたい」
『――いいよ。忘れられないくらいのやつ、しよう』
風に、紅と藍を走らせた純黒の髪を躍らせる。
きっ、と視線を撃つ、その先に浮かぶ極彩球。あれを貫いて、全てを終わらせる。
和沙の――和の。
(わたしの)
わたしたちの。
「行くよ、千葉夜」
『行こう、和沙』
驚異的な集中力で、落ちながらなおステップを保っていた今の和沙の一撃。そして、千葉夜の光によるサポート。
2人は疑わない――奪われたものを、取り戻すために。
「おおおおおおお――ッ!!!」
『あああああああ――ッ!!!』
流れるようなビートを刻んだ和沙の身体が、一世一代の力を込めて、その鉄パイプを放つ。その寸前、千葉夜は全身全霊を込めた蒼い光を、鉄パイプに込める。
そうして放たれた蒼鉄の矢は、果たして、極彩球へと瞬く間に飛来して。
――こおおおおん。
掻き乱し、貫き、異界の空の果てへと消えた蒼鉄の矢の、その声を合図に、極彩球は砕け散り、異界・S区の翼は瓦解し、そしてここに、Nが、刃が、散る。
すなわち、和沙は魂を、取り戻したのだ。
「はぁ、はぁ……千葉夜、やったよ。わたし、Nを倒したんだ」
『うん、うん、和沙――帰って、来て』
「うん。千葉夜。来てくれてありがとう」
ふと、空に目を向けた和沙は。
「……あれ?」
極彩球があった場所からきらめく一滴が落ちていくのを、来た気がして。
蒼鉄の矢に貫かれたNが、あまりに呆気なく消えていったのを、何故か思い出して。
「――ぁ」
それが何か確かめる前に、異界から消えて行った。
※※※
異界、S区。
「……行ってらっしゃい、和、夜。あたし、約束果たせたかな。なあ、」
崩れ行くビルを眺めながら、誰かが瞳を伏せた。
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